ライフライン

小余綾香

上の句:ぬきみだる涙もしばしとまるやと

 バスの小さな灯りを背に傘を開けば、水を拒むボタニカルフラワーが咲く。そのいたずらな華やかさに顔を隠し、あおいは一歩を踏み出した。

 雨のかすかにねる路面は間遠まどおな街灯の光を点々とたたえ、先の知れない夜へと人を誘う。

 ストリートビューで幾度もシミュレーションしたものの、彼女にとって訪れるのは初めての場所だった。しかし、そこに待ち構えるものにおびえる心さえくし、葵は黙々と道を進み続ける。まとわりつく湿気は殊更ことさら、重かった。


 そうしてどれ程、歩いたか。

 不意に雨垂あまだれが乱雑に傘地を鳴らし、葵を我に返らせる。灯火とうかは絶え、足は砂利じゃりを踏んでいた。いつの間にやら雨は上がり、晦冥かいめいが水気と共に辺りを滞う。その静けさを木々のしずくが気まぐれに乱したのだった。

 葵は再び歩き出す力も持たず、立ち尽くす。浅い呼吸をり返すと鼓動こどうが早まった。そこにスマホが一声、甲高かんだかく鳴く。傘を取り落としながら光源に手を伸ばせば、


『神山さん、こんばんは。雨上がりに貴女を思い出しました。梅雨によくお休みしていましたね。元気ですか? 麓とし子』


 恩師の言葉が暗晦あんかいを照らした。途端、乾き切っていた目に涙がにじむ。それはあふれ出すと止まらず、両手でスマホを握り、葵はしゃくり上げた。時に散り繁吹しぶく低い水音が嗚咽おえつに寄り添い続ける。


 やがて呼吸を整えようとした葵は夜気やきむ甘さに目覚めた。瑞々みずみずしいが忍びながら闇をひたし、一息ごと疲れた体に満ちては胸を高鳴らせる。葵は考えもなく、その漂い来る方へと歩き出した。

 暗さに慣れた目は先方に樹木ではない塊を見出す。枝に似た影が方々ほうぼうへ伸びる姿はやぶを思わせた。

 その時、流れ行く黒雲から月光はこぼれて夜を薄め、岩に繁るかずらの白い花々がほのかな輝きを吸い取り浮き立つ。濡れそぼつの緑は闇の浅みに埋もれ、透き通るは玉水たまみずか、自らのつやかもようと知れない。

 葵は魂を抜かれるように光景を見つめた。


 それも束の間、再び闇は深まり、水っぽい花の香りが立つ。もたらされた動悸に胸を抑えながら、彼女は天をあおいだ。




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