花葬場

陽澄すずめ

聖なる乙女と呪われし子

 僕はもうすぐ壊れてしまう——


 薄れゆく意識の中で、彼はあかい月を見上げる。

 煌々と降り注ぐ光が、咲き乱れるあかい花々を照らしていた。

 数多の生き血を吸い、幾多の亡骸の上にその根を張り巡らせてきた死の花。

 蕩けるような芳香が、残り僅かな自我さえをも奪わんとする。


 もう、総てを委ねてしまおう。

 彼が静かに瞼を下ろそうとした刹那、あかく彩られた景色をあおぐろい影が覆った。

 目深く被った外套から覗くそのかおは、白磁の如き髑髏しゃれこうべだ。


 ——呪われし子よ。


 地を這うような聲が響いてくる。

 彼は伽藍堂がらんどうの眼窩に視線を向ける。


「……死神か。僕の迎えには相応しい」


 ひび割れた唇で、そう独り言ちる。嗄れた喉は、しかし未だにたしかな言葉を紡ぐ。

 死神の息吹を間近に感じても、死そのものの存在はどこか朧げだ。


 ——最期が迫っている。何か思い残すことはないか。


「あったとしても、如何しろと云うのだ」


 ——一つだけ願いを叶えてやろう。その代償に、貴様の魂を貰い受ける。


「闇の契り、か」


 死神と契りを交わした魂は輪廻の環から外れ、未来永劫、修羅の世界を彷徨い続けるのだと聞く。

 だが、彼にとっては、現世うつしよこそが闇に彩られた世界だった。今更、怖れるものなどある筈もない。


「いいだろう。では、一つだけ。どうか、妹に善き未来を」


 ——妹の所為で斯様な目に遭っているというのに、か。


 彼は僅かに瞠目した。


「知っているのか」


 ——無論。


「ならば、話が早い。妹に、僕の死のとがを負わせたくないのだ」


 彼と妹は、時を同じくしてこの世に生を受けた双児であった。

 妹は、星の光に輝く銀の髪と透き通るようなはだを持ち、人々から聖女として崇められていた。

 彼は、ほつれた黒髪と、生まれながらの醜い痣を躰じゅうに持ち、人々から忌み子として疎まれていた。


 世に蔓延はびこるありとあらゆる悪の化身と見做された彼は、物心もつかぬうちから街の地下牢に幽閉された。そうすることで彼の身のうちに宿る呪いを封じ込められると、人々は妄信していたのである。

 手足には枷を嵌められ、食事もろくに与えられず、糞尿を垂れ流したまま、一条の光も届かぬ闇の中で、彼は只管ひたすらに呼吸だけを繰り返していた。


 誰も、彼を人として扱おうとはしなかった。

 ただ一人、穢れなき聖女と謳われる妹を除いては。


 妹は七日に一度、人目を忍んで彼の地下牢へとやってきた。そして彼に温かなスープとパンを置いていくのだ。


「わたくしたち、血を分けた兄妹ですもの」


 鈴の転がるような聲でそう云った妹は、眩いほどに清らかな光を纏っていた。

 妹の来訪が、彼にとってただ一つの密やかなる愉しみであった。どれほど闇にとざされた世界でも、のぞみはあるのだと信じることができた。


 だが、彼のそうしたささやかな幸せは、ある日唐突に壊された。

 妹が彼の牢を訪れていたことが、人々に知れたのである。


「呪いの子が、聖女をたぶらかした」


 こうして彼は新たな罪を与えられ、刑に処されることとなった。

 罪人を死の花の苗床とする『花葬刑』。

 生きながらに人の躰を侵す花の咲く、『花葬場』と呼ばれるこの場所に彼は横たえられ、固く鎖で繋がれたのである。


 既に、いくらかの種が彼の皮膚を突き破って芽吹いている。

 甘い芳香によって痛みも感じぬまま、彼は死神の眼窩を見上げる。


「妹の所為だとは、僕は思っていないよ」


 仮令たとえ妹のことがなかったとしても、彼はいずれ何らかの罪を着せられ、同じように殺されていただろう。


「だから、妹は僕のことなどで心を痛める必要もない」


 妹がどうしているのか、彼には知る術もない。ただ、穏やかに暮らしていればと祈るばかりだ。


 ——成程。死にゆく者の願いは分かった。だが、現世うつしよに生きる者の願いは、我には如何することもできぬ。


「それは、一体——」


「兄様!」


 彼の言葉を遮ったのは、うら若き乙女の聲——

 今ここで聴こえる筈のない聲だった。


「兄様、何処にいらっしゃるのです?」


 あかい月の光が、その姿を照らし出す。

 禍々しき花々の中にいても、穢れなき聖女は澄んだ輝きを放っていた。


 来るな、と云いたかった。

 早くこの場から立ち去れと、そう云いたかった。

 だがそれは、一言足りともかなわなかった。

 彼の喉の奥から伸びてきた蔓が、舌の根に絡み付いていたのだ。


「兄、様……?」


 妹の足取りが、次第に覚束なくなっていく。

 辺りに満ち満ちた芳しき死の香りは、人の意識を痺れさせる。

 たしかな意思を宿していた妹の瞳は、何時の間にやら焦点を失い酷く虚ろになっていた。


 己の身に残された力の限りに、妹の名を呼ぼうとした。

 だが、最早手遅れだった。


 大地から伸びた幾本もの蔦が、少女のか細き躰を搦め取った。

 無数の枝葉が、薄衣の下を這い回る。


「あっ……」


 未だ紅も引かぬ瑞々しい唇から、掠れた吐息が零れた。


「にい、さま……」


 虚空に向かって伸べられた真白き腕。そこに蒼く透ける血脈から、小さな双葉が芽生える。

 あかが、飛び散った。


「あ……あ、あぁ……」


 三つ、四つと、みどりの若葉はその数を増やしていく。

 鋭い棘が、きず一つない滑らかなはだを甘やかに裂く。

 その度、花弁が宙に舞い、冷たい大地に降り注ぐ。


「あぁ……にい、さま……」


 聖なる乙女は、どこか恍惚としたかおで狂おしげに喘いでいた。


 やめろ、やめろ、やめろ——

 妹は、斯様な罰を受けるべきではない筈だ。

 何故、妹なのか。

 何故、自分ではないのか。

 何故——


 ——死の花は、生きた魂を好む。貴様のような朽ちかけた魂より、あの娘の魂の方が余程美味であろう。


 何れ程の時が経っただろうか。

 彼の願いは届かず、妹は物云わぬ亡骸となってしまった。

 咲き乱れたあかい花々の蔓延はびこるしなやかな四肢。微かに弧を描く唇。見開かれたままの硝子玉の瞳。そこに映る、あかい月。

 あかく染まった聖なる乙女は、それでも尚、奇跡のように美しかった。


 何故、僕などを探しに来たのか。

 その問いに答える聲はない。

 代わりに、地を這う低い響きが耳朶を撫でた。


 ——今一度問う、呪われし子よ。貴様の望みは何か。


 望みなど。

 幸せをこいねがった妹は、もういない。

 彼の罪を引き受けるように、死の花の苗床となった。


 そもそも、罪とは何だったのか。

 元より謂れのない罪であった筈だ。

 あるとすれば、つい今しがた。

 花に喰われる妹の姿を目の前にして、躰の芯が滾ったことか。

 穢れを知らぬ清き乙女が蹂躙される様に、悦びにも似た震えがこの身を駆け巡ったのだ。


 己が真に欲していたものは、一体何だったのだろう。


 それに気付くと共に、堪え難い程の絶望に襲われる。

 何故ならそれは、決して手に入り得ぬものであったからだ。

 生まれついた瞬間より定められし運命。絶対に結ばれることのない、血を分けたたった一人の妹——


 このまま自らも花々に呑まれてしまえば、愛しき者と土の中で一つに交われるかも知れぬ。

 だが、それに如何なる意味があると云うのだろう。


 何故、自分は生きているのか。

 何故、この世界に生まれ落ちてしまったのか。

 憎い、憎い、この身が、この世界が憎い。


 ——業の深き愚かな人間よ。世界の滅びを望むか。


 それもいいだろう。

 もう彼には、失うものなど何一つとてないのだから。


 ——その願い、聞き入れた。


 髑髏しゃれこうべの貌が眼前から掻き消えた、その刹那。

 躰に、凄絶な痛みが走った。


「ああああああ!」


 喉の最奥から、獣のような咆哮がほとばしる。


 ——力が欲しいか。


「ああああああ!」


 ——望むならば、与えよう。


 悶え転げる彼の背が軋み、皮膚を突き破って何かが生えた。

 片方だけの、血に染まりし漆黒の翼。


 途端、総ての痛みが遠のいた。

 あれだけ心を支配していたいかりや嘆きや哀しみは、跡形もなく消え去っている。

 まるで嵐の後の凪のようであった。


 手足を捕らえていた蔦は燃え落ち、鎖が千切れ、彼はそら高く舞い上がっていく。

 くらき闇に浮かぶ彼はさながら、世界を統べる創造主だ。

 今ならば、この指先一つで何もかもを破壊し尽くせるだろう。


 ——生まれ変わった気分はどうだ。


 聲だけが響く。死神を、身のうちに感じる。


「悪くない」


 片翼の堕天使は、唇を歪めて嗤った。

 あかい月を背にして、眼下に広がる大地を見下ろす。

 あかい花と、あかい血。

 そして、変わり果てた姿となった純白の乙女。


「行こう」


 彼は羽搏はばたき、闇夜に消える。

 愛しき妹の亡骸を残して。


 ——さぁ、世界の終わりが始まる。



—了—

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