五拭い拭き

 始まった物は終わらせなければならない。

 明けぬ夜は無く、暮れぬ日も無いゆえに。

 抜かれた刀は納められなければならない。

 終りを繰り返すことが、続くという意味。

 つまりそれが、生きるということならば。

 朝から夜まで二十四つ、飽きることなく振るい続けよう。

 さて。

 生まれたての、始まったばかりの彼女は、

 一つの終りを見届けるため、誰かを待ち続けていた。



 *   *   *



 場所は日本の何処か。時間は戦国の何時か。

 もう少し細かくいえば、陽気な昼下がりである。

 一人の少女が山の中の街道脇の切り株に、ちょこんと腰掛けていた。

 それは随分と……いや、ずば抜けて美しい少女だった。思わず見蕩れてしまいそうな、美しさ。白く透ける肌理細やかな肌、黒く長く麗しい髪。小さな唇は、鮮やかに赤く。ほっそりとした体つきで、全体的に儚げな雰囲気を漂わせていた。

 もしも……『夜岬』が二十四振りを何故か紛失してしまい交渉に失敗した挙句滅ぼされてしまった彩為家という一族を知っていて、且つその家の最後の姫君を一目でも見たことがあるなどという希少にして稀有な者がいたとしたら――この少女の容姿を見て、驚愕しながらこう言うことであろう。

 生き写しのようにそっくりだ、と。

 唯一違う点を挙げるのなら、その目つきだけだろう。

 かの彩為家の姫君――黎姫は、穏やかそうな目つきであったが……この少女は、それとは対称的に鋭い――深淵の如く漆暗の眼を。ともすると、喰らいついてきそうな、少々恐ろしい目をしていたのだった。

 少女は所在なさそうにしばらくしていたのだが、やがて少女から見て右方の街道延長上に誰かの姿を認めると、何やらわくわくしたような楽しそうな表情となった。駆け出して名乗りを上げたいのを必死で我慢して、声をかけてもらうのを待とう……というような。

 嬉しそうに笑ってしまいそうになる顔の筋肉を、少女が一生懸命押し殺していると……段々と、その人影が近づいてきた。

 誰であろう。

 他ならぬ、日蝕と月蝕の妖怪――蝕であった。

 相変わらず、のらりくらりとのんびりと、何を考えているのか何も考えていないのか分からないような面持ちで、何処へとも知れず歩いているようだった。てくてくと、少女に近づいてくる。

 てくてく。

  わくわく。

 てくてく。

  わくわく。

 てくてく。

 ……てくてく。

 素通りだった。

 少女の方を、一瞥すらしない蝕だった。

「……って、くぉらあぁーっ!」

 怒号を上げながら立ち上がり、少女は全力疾走、蝕を追いかけた。

 蝕はのんびりと歩いていたので、すぐに追いつく。隣に並んで、顔を覗き込んでみる。

 じぃっ。

 つぃっ。

 露骨に顔を逸らされた。

 ので、顔を拳で殴った。

「痛っ! 何をしやがる!」

「何をしやがるはこっちの台詞であるぞ! 通りで初対面の人間とすれ違っておきながら、用も無いのに挨拶をして世間話に花を咲かせぬ人間が何処にいる!」

「そんなことする奴のが何処にもいねぇよ」

「なっ……、うむ。それもそうか」

 少女はこくこくと、一人頷いてみせる。

 のっけから突っ込みを入れさせられて、呆れ顔の蝕であった。殴られたところ――頑丈な蝕であるし、少女は非力であったので、実際大したことはない――を軽くさすってから、少女に言う。

「用が無いのか? 無いんだな? 無いんだよな。そうだよな。うん、じゃあ俺はこれにて。壮健で。お疲れ様でした。御機嫌よう。さようなら」

 一息で言い切って、さっさと去ろうと――したところを止められた。

「こらっ! 私を置いて何処へ行くつもりだ、父上!」

「……はぁ? ちち、うえ?」

 父上。

 それは普通に考えれば、父親へ向けた呼称である。

 少女が父上と言ったら、何処かの母君との間に自分を授かった、父親のことを呼んでいるに違いないのだ。養子ということも在るだろうが、血が繋がっているかどうかだけで、厳密なところ大差はない。

 そして勿論、蝕は誰かと夫婦になったこともないし、間に子をもうけたこともないし、ましてや面倒臭い養子を取ったこともない。つまり、父上などと呼ばれる筋合いはない。従って、即座に少女の認識の訂正を試みた。

「おいおい、待ってくれ。俺には子なんかいねぇよ。妻も娶っちゃいない」

「何を言うか! 確信子かもしれぬではないか!」

「どうしてそんな自信たっぷりなんだよ……」

「おとなしく頓知するが良いぞ!」

「認知はしなくて良いのかよ……俺は一休さんじゃねぇんだぜ」

 蝕は溜息を大仰について、いかにも仕方がないという風に、やっと少女の方をきちんと見遣る。どうやら、相手をしなくては付き纏われると思ったらしい。

「で……。何だよ、妖怪小娘」

 妖怪小娘。

 少女のことを、蝕はそう呼んだ。

「おおっ! 流石は父上だな……良くぞ見抜いた! いかにも私はアヤカシだ。そう――

 

 ――夜雲蛭月秀作・妖刀『夜岬』が二十四振りの生まれ変わりし姿――


 だ。つまりは、黎姫の意志を受け継いだ、父上の娘だな!」

「だから父上じゃねぇ」

「我輩は刀である。名前はまだない!」

「待て待て待て。乗りすぎるな」

「ふむ、考えてみれば苦沙弥と蝕とは語感が似ているな!」

「最後の『み』しか合ってない上に、良く分からない方向へ掘り下げるな!」

「父上がそう言うなら……」

「父上ではない」

「なら止めぬ」

「……ああ、もう良い。好きに呼べよ……」

 面倒臭くなったらしかった。

 少女の方はといえば、「やったぞ!」などと喜色満面である。

 どうしてあの大人しくお淑やかだった黎姫の意志を受け継いだはずのアヤカシが、こんなに元気一杯天真爛漫であるのか……蝕は頭が痛くなる思いであった。

 ……とはいえ、余り気にしすぎても仕方がない。しばらく憮然としていた蝕だが、やがて表情と機嫌を直してしまった。面倒臭がり屋である彼は、実害がなければそれで良いと……割り切るのは早いのだ。多くは望まない。可愛い妙齢の女性と、美味しい食事の他には。

 少しすると、一通り喜び終えたのか、少女が話題を振ってきた。

「うん……。やはり父上は、最初から気付いていたと見えるな」

 蝕の方も、普通に応じる。

「何についてだよ?」

「私が『夜岬』の妖怪であること……並びに、私が『生まれている』であろうことに、だ。父上の目がいくら闇を見通し、アヤカシと人とを見分けるとはいっても――、その背景にある事情を即座に看破せしめるほどのものではないだろうからな。ということは、予め私のことを予想していたのであろう」

 どうやら、まともに会話が噛み合い始めたようである。

 蝕は愉快そうに皮肉気に、重ねて尋ねる。

「ひひ……。何故、そう思う?」

「ふふん、それを訊くか。自明なことだな」

「説明してみろよ」

「家族愛の成せる技だ!」

 はたいた。

 さっきのお返しだった。

 額を押さえて、恨みがましい目で蝕を見る少女。

「痛いではないか! ほんの些細な茶目っ気に対して、そのように手を上げるとは何事ぞ!」

「五月蝿ぇ。折角話がまともに進められそうになったところで、早々に腰を折るからだぜ。つーか、真面目な話をしないんだったら本当、なんであんなところに居たんだよ。俺を追いかける意味合いとか、全然ねぇじゃねーか」

「うう……わかったぞ」

 少女は頷いた。

 二人は歩調を揃えて、人もまばらな山中の街道を歩いて行く。草木が茂っているものの、空は今日も青く澄み渡っているので、充分に明るい。むしろ、暑すぎず涼しすぎず、過ごしやすい適度な気温と湿度で、物見遊山にでも来たかのような心地であった。

 会話は続く。

「うむ……まぁ、そうだな。まず、私が黎姫――つまりは私からすれば母君だな――と瓜二つであることについて、何も疑問に思う素振りをしなかったところだな。加えて、私のような可愛い女子が道端に居たにもかかわらず――気も軽ければ口も軽く、美しいおなごを見れば一も二もなく矢も縮み上がらんばかりに疾く声をかけ口説くほど好色なはずの父上が、まるで無視するように私の前を素通りして行こうとしたところからだ」

「…………とりあえず。俺はそこまで好色じゃないし、口も軽くねーよ……。人聞きの悪いことを好き勝手いいたいようにほざくんじゃねぇ。それに、まるでも何も、そのまま無視して前を素通りするつもりだったんだけどな」

「何故だ! 娘を見捨てるつもりか、この鬼畜父上!」

「そこまで言われるようなことかよ」

「きちうえ!」

「誰だよ。無闇に言葉を略すな。面白くもない冗談を飛ばすな」

 きゃいきゃい騒がしい少女を軽く制して、蝕は話題を戻す。

「で……。俺は面倒臭いのが嫌いなんだよ。予想できていた、って言うのはその通りだが……だったら、それはそれで、再び係わり合いになろうと思いはしない。それだけのことさ」

「ふむ。そうか」

「ああ、そうだ」

 蝕の言葉に彼女は少し納得したような様子を見せたが、少し考え込んでから、首を傾げるようにして再び問いかける。

 小首を傾げたその仕草は、これまた可愛らしいものだった。

「しかし……大方のことは父上の思惑通りに運んだのだろう? 当然この状況も、父上の望んだもの――というよりは、最も理想的な形……であるはずだ」

「何を言わんとしているのか、俺にはさっぱり見当もつかないな」

 蝕の態度は変わらない。依然として、人を小馬鹿にしたように応じる。にやにやとしながら。

 そんな様子に、少女は肩を竦めてみせる。眉を寄せて、溜息なんかつきながら。

「やれやれ……父上は素晴らしいお方だと、娘である私としては基本的に鼻高々たる思いではあるのだが、その他人を嘲笑うかのような素直ではない態度だけはいただけないな……」

「俺が素晴らしいって? 何の勘違いだよ。ひひ……」

「むむむ。全く、仕方がないな! ここは不肖この私が――『夜岬』及び黎姫を取り巻くこの一件について、謎解きの如く綺麗に説明し通し、父上の腹の内を丸裸にしてしんぜようではないか」

 隣を歩く蝕の方を向き、不敵に微笑んで。黎姫の容貌を持つその少女はびしりとそう言ってのけた。

「ほーう。ひひ。やれるもんならやってみろよ、妖怪小娘」

 対する蝕、こちらも不敵な微笑を浮かべて、少女を試すようにそう応じる。

 ちっちっちと――少女は一指し指を、余裕ありげに振ったのだった。


「順に行こうではないか。さて――」


「まずは……、あの妖怪もどきが来たところからだな。宵丸殿を殺した悪逆だ。あの時、父上は快刀乱麻を断つが如く見事に妖怪を叩きのめし、名の如く蝕み殺して下さったわけだが、同時にあることに気付いたのだろう? それは、『夜岬の一振りでさえ、ここまで――妖怪の一匹をも軽々産み出すほどの怨念と狂気とを、内に孕んでいる』……と、いうことだ。それが二十四振りも揃ってしまった場合……はたして、どんなにも凶暴粗悪で手におえないアヤカシが生まれたものか、分かったものではない。さてはて、どうしたものか……。――そう、父上は考えたのだろう」

 一度言葉を切って、蝕の方を窺う少女。

 蝕は何処の吹く風、といったような顔をしていた。

「あー。ほぉぉ。成る程。いやいや全然気がつかなかったな。雪の上の白兎みたいによ。ははぁ、そいつは確かに大変極まりないことだぜ。一大事だな」

「むむぅ、とぼけるか。……まぁ良い。そして、もう一つ父上が気になったであろう点がある」

「へぇ。俺は意外と神経質だからな。あっちもこっちも隅から隅まで、気にならないところのほうがない位なんだが、もしそうやって一つ上げるとしたらどんなところだろうな。俺には皆目見当もつかないぜ」

「気になったというか、気掛かりであった点だな。母君の――『アヤカシになりたい。アヤカシに生まれたかった』――と、いう……素朴で、それでいて純粋だった、強い思いだ。そんな話をしたはずであろう? 何度か、あるいは何度も。その時、父上は無理だと答えた。よしんば成れたとして、ろくなものではない――と」

「そんな話もしたっけな。すっかり忘却の彼方、記憶喪失もさながらだったね」

「……しかし、母君はそれでもなお。それでもなお、アヤカシになることを望んだ。母君の命は、あの時既にもう長くなく、そろそろ死んでしまってもおかしくなかったからな。以前は『夜岬』が揃えば死んでも良いと思っていたようだが……。まぁ、それは置いておいても。……父上は、それをどうにか叶えたいと思ったのだろう?」

 くすりと魅力的な笑みを浮かべて、父と慕う蝕を見上げる。が、蝕は心外極まりないといった風に、それを否定した。虫を退けるように、手をひらひらとさせる。

「おいおい。おい、おいおい、おいおいおい。何言ってやがるんだよ、やめてくれ。気持ちが悪い。ひひ……俺はそんなにまっとうな奴じゃねぇぜ? 知ってるだろが。そんな風に情に揺り動かされるわけねぇだろうがよ。そんな鬱陶しくも馬鹿馬鹿しい願い、次の刹那には忘れちまってたさ」

 少女はそんな様子を一笑に付す。

「ははは、強がりはよすのだな父上。父上の心づもりなど、つるっと御喉越しだ」

「……俺は切麦(うどん)かなんかか」

「いや、まるっと御見通しだと言いたかったのだ――どんと来い頂上決戦! なんてな!」

「意気込みは認めるが、時代的に突っ込めねぇよ!」

 何の話をしている。

「こほん」

 とんでもなく逸れかけていた話を、少女は咳払いで修正する。

 なんだかんだ言いつつ、二人の会話の調子は良いようで、油断するとどうでも良い雑談の方へ逸れて行ってしまうようだった。心を強く持ち、真面目に真っ直ぐ話を続けることを刻み込まなければ、二人とも迷子になって戻ってこられないだろう。

 はらはらだ。

「……ともかく、だ。父上はその両方の問題を、一石二鳥一挙両得に解決する方法を取ったのだ。それなりに悩むところも、在ったかもしれないがな。最終的に、母君の強い意志に押されたということ――であろう。つまり――『夜岬』二十四振り全てを母君の体に突き刺し殺した」

「……んん、そうするとどうなるんだよ?」

 いかにも発想の飛躍についていけない、といった風な様子を見せる蝕。

 それはここが、話の要点であることを示していた。少女の方もそれを理解しているようで、真剣な面持ちで慎重に、言葉を繋いでゆく。

 同時にこれは、『何故自分が生まれたのか』という答えになっているのだから。口に出し、言葉として織り綴るのに、幾許かの緊張があるのだろう。

「『夜岬』二十四振りに詰まった積年の因縁と怨念……それらが同時に人間の《死》に立ち会えば――つまり、同時に同じ人間の非業の死を、無念の想いを喰らって――妖怪にならないわけがない。アヤカシを生まぬはずがない、のだ。そして、だから。父上は母君に、ああも残酷に《死》を思い知らせたのだ」

「…………」

「『ありがとう』などと満足して死なれてしまっては、その想いは残らず成仏するだけだ。『すまなかった』などと謝って死なれては、その想いは謝罪でしかなくなり――夜岬に詰まった禍禍しい想いを導くには力不足だ。『まだ生きたりない』『もっと生きたい』……! そう……それは『死ぬことへの恐怖』。未練の想い――それこそが、必要だったのだ」

 黎姫の――彼女の、最期の言葉。

 最期に抱いた、最期に気付いた、己が心。

 死んでいってたのではなく、

 生きてきたのだということ。

 ……それに思い当たった刹那、彼女は死んだ。

「強い、生への執着。強い、死への拒絶。強い、強い、概念。それらを抱き、そして最期にその想いを啜った――魂ごと喰らった、妖刀……アヤカシガタナ『夜岬』二十四振りは、母君の、黎姫の純粋で単純な思念を核にアヤカシとなる。――条件が、揃ったのだ」

「俺がそれを意図してやったとでも?」

「でなければ、あんなに最後の問答はしなかっただろう」

「はん、そんなん気紛れかもしれねーじゃねーかよ。俺は他人様を苛めて見下すのが大好きなんだからな。たまたま、苛める要素を見つけちまっただけ――だとしたら、どうだよ」

 揚げ足を取るようにそう言う蝕。

 しかし少女は怯まず、すまして告げる。

「何、証拠が要るというのなら、もう一つ在るぞ」

「ほお。話してみろよ」

「簡単なことだ。母君は夜岬で貫かれて死にたい、とは言ったが――『夜岬』二十四振り《全て》をこの身体に突き刺し殺してくれ……などとは一言も述べてなかったのだ。つまり、これは父上が自らの判断で行ったということ――だが」

「だが? 俺にはそう聞こえた――全ての『夜岬』を使ってほしいのだろうと、そう解釈した――なんて可能性はないのかよ?」

「ふふ、ないのだ。何度も繰り返しいわれてることで、先ほども父上自身が言ったではないか。『俺は面倒臭いのが嫌い』――とな。意図も意味も無いというのに、むしろ黎姫――『夜岬』に強い執着が在った母上を、喜ばせてしまうかもしれぬというのに、自ずから面倒な方を父上が選択するはずがないのだ。――総じて、私というアヤカシを生んだのは、父上の目論見どおりであったといえよう」

 蝕はそれでも、笑い飛ばしてみせた。

 いかにも馬鹿馬鹿しい例え話やら噂話やらを聞いてしまったかのように。

「ひひ。俺はただ単に、あの傲慢で一人善がり自分勝手なお姫様が、ちぃっと気に食わなかっただけだぜ。死ぬなら死ぬときらしく、惨めったらしく死ぬべきだったんだよ。人は闇に死ぬべきだ――宵丸だって、惨めに死んだだろうが」

「……良い良い。言わずとも分かることはあるからな、父上。うむ。まぁ、そのようなわけで、晴れて『夜岬』二十四振りに篭った積年の積年の積年の――恐ろしくなるほどの因縁と怨念の蓄積は、母君の柔らかく優しい心という型に流し込まれ、暴走することなく無事――私というアヤカシに、成ったというわけだ。めでたしめでたしであろう!」

 胸を張って、高らかに笑って見せる少女。とにかく元気よく、勢いばかりだ。

 蝕は適当にあしらうようにした。

「あー、そうかい、良かったな。おめでとさん。で、結局言いたいことは?」

「ふふ。父上の言葉は『遠慮無く容赦無く躊躇無く未練無く――』……だったか?」

 ここでふっと、蝕は遥か遠くを見つめ、懐かしそうな顔をする。

「そんなことを言っていた頃もあったな……」

「遠い過去の話なのか!? やめてしまった口癖なのか!」

「俺は古い口癖を捨てるのを厭わない男だぜ? あの頃は俺も若かった。いや、幼かったな。成長すると共に、遠慮無く容赦無く躊躇無く未練無く――俺は新しい口癖に乗り換えたんだよ」

「嘘をつけ!」

「まぁな」

 ただの冗談振りだったようだ。やはり親娘のように仲が良いことは、否めないだろう。

 気付いているか気付いてないかは、ともかく。

「しかし。ここに至れば、結局のところ――だ。深謀遠慮が有り、情け容赦が有り、戸惑い躊躇が有り、そして未練執着が必要だった――と、いうことであろう」

「綺麗に纏めようとしているところ悪いが、そいつはどうかな?」

「綺麗に纏めて見せたというのに、その態度もどうかな?」

「……綺麗に閉じればいいってわけじゃねぇんだよ。有終の美なんて味気ないだけだぜ?」

「ならば父上、何処が違うのか指摘すればよいではないか」

「言うねぇ」

「父上の娘だからな!」

「…………はん」

 蝕は、さもどうでも良さそうに頭を掻く。

 しばらくの間両者とも無言で、景色や空気を楽しむかのようにのんびりと、連れ添って歩いた。さくさくと二人分――二つのアヤカシの足音が、木々や土、山の中へと染み込んでいった。

 適当に間を置いたところで、ゆっくりと一回瞬きをしてから、今度は蝕の方から口を開いた。

「……あー……まー、そうだな。だいたい六か五割くらいか」

「何がだ?」

「手前の謎解きとやら、その出来栄えが、だよ」

「な、一体何処が違うとゆうのだ?」

「あちこち違うが……決定的なところは、その理由だな。理由。確かに黎姫を利用して、『夜岬』の妖怪を仕立て上げちまおうと考えての所業ではあったが……俺は本当に、あのお姫様の願いを叶えようとしていたわけじゃないんだぜ。ただ――利用可能だったから、利用した。それだけだ」

「…………むぅ」

 少女は眉根を寄せて口を尖らせる。

 少し呆れたように、半ば諦めたように、蝕は話を続ける。

「納得いかねーならそれでも良いけどよ……。とりあえずさ、『夜岬』の最後の一振り――一番最初に創られた、初の名を冠する『夜岬』の中の『夜岬』。そいつを持っていたのは――ずぅーっと腹の中に隠し持ってたのは、そもそも何処のどいつの何方様だったよ?」

「むむ? 父上――神喰蝕、そのお方であろうが。数字も振られていない、素のままの『夜岬』。禍禍しく呪われた刀の中で……唯一、血を吸うことのなかった一振り」

「ああ。俺だ。俺なんだよ」

「うん?」

「いや、お前のことだろうが……自分で気付けよ。……ま、良いか。考えてもみろよ、そもそも人を斬るために生まれたのが刀だぜ。『夜岬』もその例に漏れない。むしろ妖刀なだけに、よりその概念が強いともいえる。……だったら。創られてからずっと、一滴も血を吸っていない刀なんてのは、かなりの欲求不満じゃねーか?」

「むぅ。確かに。私も何か物足りない――というか、何やら喉が乾いているような、腹が減っているような気分であるのだが、それはそういうことだったか」

 血が必要だったのだな。

 しれっと呟く妖怪小娘。

 生まれたばかりの妖怪である彼女は、まだ完全に自分のことを把握しているとは言い難いのだ。

「……で、だ。普通に考えたら、二十三振りの『夜岬』に詰まった怨念がアヤカシとなる際――核になる想いってのは、その『欲求不満』とするのが順当だろうが。なんてったって、『夜岬』の初志を抱いてる刀の欲求だろうからな。しかも欲求不満の原因は、この俺。さらに……そいつを手渡されたことを、俺は随分の間忘れてたんだ。こんなアヤカシの標的っつったら……」

「父上だな」

「あるいはあの場――二十三振りが黎姫の下に揃い済みってぇ場のことだが――あの時に俺が『夜岬』が一振り目を渡すことなく、すっとぼけて隠し続けてたとする。だとしても、結局その二十三振りがほったらかされてアヤカシに化けちまったら、第一目的は黎姫やら某妖怪やらの如く、二十四振り揃えることだったろうな。その場合の標的ってのも恐らく……」

「……父上だな」

 指を指されて、蝕は気だるげに上を見上げるようにする。

「俺なんだよ。おいおい。一本分の怨念……しかも中途半端な形でさえ、あれだけ――宵丸を惨殺しちまうほどの暴虐ぶりなんだぜ? 二十三振り分……いやいや、下手したところで二十四振り分まとめて向けられてみろよ。ひひ……。危険至極極まりねーだろーがよ」

「成る程……。だから」

「そう。だからだ。その怨念呪念の行く先矛先、流れる先を、別に設ける必要があったわけだ。それこそが、あの彩為家の黎姫様だった――ってことだ」

「ふぅむ……」

 少女は腕組をして、話を吟味する。そういえばといえばそういえば、始めから不自然なところが在ったことに気づいた。それは先ほど蝕に対して少女自ら指摘したところで、黎姫も指摘した部分であった。話が進むにつれ――恐らくはそれこそ蝕の狡猾さであろう――有耶無耶にされていた部分だ。

「そう……であったか。初めて父上と母君が会った際、指摘された部分ではあったな……。すっかり忘れて――いや、誰もが忘れさせられていたわ。迂闊、迂闊」

「そ。蝕さんは善意の人間――じゃあ、ないだろ?」

「まぁ、純粋な善意の者ではないと私も思うけど」

 苦笑してから、そのこと……通して不自然だった部分をずばり、指摘する。

 黎姫の口調を真似て。

「『たかだか私に会うという条件のみで、夜岬を譲ってくださった――その、理由』……だな。これに対して、父上は明確な答えを出していなかったのだ。いくら母君が美しいとはいえ、それだけで『夜岬』をただ同然で献上したり、十幾日もの間彩為に留まったり、おまけに宵丸殿と稽古をしたり、襲来を撃退したり――するのは不自然であった。まるで父上が、善い人間であるかのようだ。無償奉仕のようだ。即ち――」

「初めから俺の狙いは、『夜岬』の怨念回避にこそ、在った」

 ひひ、と笑みを漏らして、蝕は言う。

「十七振り目に会った時点で既に、俺は『夜岬』のことを思い出してたし、その危険性についても考えてたのさ。直後に宵丸のヤローに襲われたしな。どうにかしなくてはいけない……と、頭をひねって悩み通してるところに、黎姫の名が出てきた。おあつらえ向きだろ? 渡りに舟にもほどがある。……宵丸殿との稽古試合は、奴の実力を測るため。しくじった時に、次の手を打てるようにな。妖怪撃退は自分のためだよ」

「う~む。うむむー、ぬぬー」

「どうしたよ、唸って。お前は犬か?」

「わんっ! がうがう、ぐるる、わぅーん!」

「犬語は知らん」

「きゃうぅ……」

「可愛いじゃねぇか」

 ぺし、と少女の額を小突く蝕。「おう」と我に返ったような様子を見せる。

 頭を軽くふるってから。

「……しかし、本当にそのような打算だけだったのか? 父上は?」

 訊きたいことを口に出した。

 はん……と、阿呆らしそうに息を吐いてから。目の前の少女に向けてではなく、誰でもないところへ向けるかのように、蝕は言う。

「余計な期待を抱かせないためにも言っておくが、それだけだったよ。……ま、宵丸殿は気の良い男だったし、珍しい才覚と一途さ……そして愚鈍さを持ち合わせた男だった。黎姫様は何より美しくて可愛かったし、悲痛な賢しさがあった……あんな状況じゃなきゃ、俺好みってくらいにはな。俺は最初から最後まであいつ等のことを打算的に自分のために狡猾に、利用して貪っただけではあったが――そこのところを除いても、会えて良かったと思ってるよ」

「…………ふふふっ」

 とても嬉しそうに、少女は微笑みをこぼした。

 そして蝕の腕に絡みつく。自然な動作で。

 凄く迷惑がられた。

「離れろ」

「いやだ」

「離れろ」

「いーやーだー」

「隣を歩いてもいいが、離れろ。さもないと口を利いてやらねーぜ」

「……むぅ!」

 いかにもしぶしぶといった風に腕を放して、少女は「しかしな」と、話を再開した。

「母君は、ずっと自分が人間の出来損ないであるかのように、感じていたのだ。生まれも、病も、立場も、美貌も、全てそれらを裏付けるようなものだったろう。それゆえ『夜岬』を愛し、アヤカシに憧れた。……しかし、父上の意図が何処にあろうとも――最後の最期で、父上はそんな母君を救ったのだ。痛みを伴い、悲しみを絞ったような救いであったが、死の刹那に思い知った。そうでなければ……私がこうまで、娘として生まれることはなかったであろうよ」

「だとしたら、結局面倒臭いことをしちまったもんだ。黎姫が俺のことをそんなに慕っちまう――てのだけは、予想外だったな。奇想天外だぜ」

「天外な。まぁ、言うではないか。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」

「いや、まだ言われてないと思うが……」

「天の内に人を作ったんだな!」

「……漢字で見たらそうかもしれないけどよ」

「内の内にも人がいるぞ」

「確かにな。だが、入れ子みたいなややこしい話にすんな」

「内の内の人はちょっとはみ出しているがな!」

「はみ出してるのはてめーだよ!」

 時代に収まってくれ。

 軽くぱん、と両掌を合わせて、蝕は言った。

 話を括るように。

「――さぁて。大体話すべきことはこれで以上じゃねぇか? あんまりそんな入り組んだ話でも、感動的な話でもなかったとは思うが――いいそびれたことは回収し終えたと思うぜ。ひひ……。そろそろ括りに入って良い頃合だろうと、俺なんかは思うわけだが。しっかしまぁ、振り返ってみて面倒臭いを塗り重ねたような道理だったぜ……蝕さん大活躍じゃねーか」

「活躍というよりは、暗躍のような気もするぞ。暗中飛躍。『夜岬』に相応しい――とまではいわぬが。しかし、いいそびれたことな……」

 ちょっと考え込むようにしてから、少女が指を鳴らす。

 ぴんっ。と、小気味良い音。

「あ、そうだ。父上」

「あん?」

「父上、名をくれ」

「名?」

 首を傾げる蝕。

 名といえば、名前という意味で、つまりは少女のようなこの妖怪を示す言葉――だろうが。そんなの、考えてやるのも面倒臭い……と言わんばかりの蝕であった。少女は父と慕う相手のそんな様子を見て、頬を膨らませながら、めげずに催促した。

「私に名をくれ」

「『夜岬』で良いだろ」

「嫌だ。私は母君の魂と記憶を受け継ぎ生まれ変わったのだ。アヤカシとして生誕したのだぞ? いつまでもそのような刀に銘打たれた、禍禍しい名を名乗っていたくはない」

「……じゃ、黎姫ならどうだよ?」

「それも嫌だ。母君の心を受け継いでいるとはいえ、私は父上の手によって生み出された、『夜岬』の化身だ。母君の名を名乗ることは出来ない」

「難儀な奴だな……」

「だから名をくだされ、父上ー。私だけの名だー。名付けておくれー。ちーちーうーえー」

 がくがくがくがくと、蝕を揺さぶる少女。力いっぱい、有り余る元気で。我侭し放題である。

 がくがくがくがくがくがくがくがくがく……。

「ぅあ、うぁ……うわ、うわ、うわ、うわ。お、おいおい。止めろ。やめろっつってんだろーが!」

「むっ。ならば名をくれ!」

「はあああ、五月蝿ぇなぁ……!」

「蝿のように舞い、蝿のように刺す!」

「五月蝿いだけじゃねーかそれ! んー……わぁったよ。考えてやるから待て。待ちやがれ。邪魔したら喰うぞ。……俺の周りをぐるぐる回るんじゃねぇ、鬱陶しい!」

 顎に指を当てて思案する蝕。動作を止め、わくわくと待つ、少女の形をした夜の刀。

「……紫霧」

「死斬り?」

「物騒だな……。それでも良いけどよ。紫の霧だよ」

「ふむ。どうゆう意が篭っているのだ?」

 真剣な面持ちで聞いてくる少女に、蝕は適当な注釈を付ける。

「ああ……。まずは恐らく一番のお前の核となってるだろう『夜岬』一振り目の色だな。あれは暗い闇色で、それで薄らと紫色だっただろ? 結果的に俺の舌に似てるのは、それ以外の『夜岬』だったかもしれないが……、あの妖艶な紫色こそが、『夜岬』本来のものであると俺は思うね。それに、お姫様――黎姫の黎は黎明の黎だったそうだ」

「むむむ? 『夜岬』の色なのはわかるが、黎明の黎?」

「気付けよお前はよ、本当に……勘が悪いな……。はぁあ、あー……黎明ってのは夜明けの空のことを指すんだよ。その空は紫色っぽいんだ。加えて、霧も夜明け頃に出るものだろ」

「……おお」

「ついでにいえば、霧を『む』と読んでみろよ。『し』と『む』。四と六で、掛けて二十四になるだろうが。何と驚き、蝕さんの『むし』部分にも掛かってる出来映えだ」

「……おおお!」

「紫色の霧ってのも高貴な感じだし、それこそ『死』と『斬り』にも通じる。妖刀っぽいし。即興で考えたにしちゃ、似合ってる感じだと思うが――ひひ、うん? 気に入ったかよ?」

「うむ、うむ! 気に入ったぞ父上、流石だ父上、お見逸れ行ったぞ! 私は今から紫霧と名乗るぞ! 精一杯全身全霊全力で名乗り倒すぞ! 紫霧は幸せだ!」

 頬を上気させて何度も頷きながら、つけられた自分の新たな名を連呼する紫霧。

 呆れ顔でそれを見詰めながら。仕方がなかったとはいえ、成り行き上どうしようもなかったともいえ、後々まで末永く絡んできやがりそうな縁を作ってしまった――などと、これからの風来坊生活を憂う蝕であった。


 さて、長く二人が会話しながら、山道を歩いていたところ、ここへ来て分かれ道に差し掛かった。

 蝕の方が、足を止める。

「……おう、どうした父上?」

「紫霧よ」

 と呼びかけたところで、紫霧の方は胸と額を抑えてくらりっとよろけた。

「はぅううっ!」

「お前がどうした!?」

「あ、ああいや、いきなり父上に呼び捨てにされたのが嬉しくてしょうがなく興奮の余り嬌声を上げながら熱病のようにふらついてしまったのだ、心配しなくても良いぞ」

「お前の神経が心配だよ」

「何と! 私のことをそんなに気にかけてくれるとは、父上、至上の至福の極みだぞ!」

「前言撤回、お前のことなんか微塵たりとも心配なんかじゃねぇ。ていうか、話が全く進まねぇじゃねぇか。俺達は牛か亀か蝸牛か蛞蝓かってんだよ」

「お、おぅ、すまぬ父上。続けてくれ」

 深呼吸のように長く溜息をついてから、蝕は言い直した。

「紫霧、お前どっちの道を行く?」

「ふむ……紫霧が決めて良いのか? うーん、だったら右の方を選ぼうかな」

「なら俺は左を行くな」

「む? 父上は左が良いのか? それなら初めからそうゆってくれれば良いものを……。ならば左で私も構わないぞ。左の道を意気揚々と鼻歌交じりで行進だ!」

「それなら俺は右を行く」

「んん? おやおや、父上は優柔不断だな! まったく、優しいのは良いのだが。では、やはり右か……」

「……あのな」

 やれやれと首を振って、ぽんぽんと紫霧の頭に手を置いてから。

「俺はお前と一緒に旅をするつもりはない、っていってんだよ。お前とは逆の方の道を、俺は行く。ここでお別れだ。これ以上面倒臭い思いが出来るか。妖怪なんだから、野垂れ死ぬこともそうそうないだろ。精々元気でな。あと最後にもう一度言っておくが俺は父上じゃな……」

「なぁにを言うかー!!」

 顎に拳を突き上げるように喰らって、発言が止まった。というか、止められた。力ずくだった。

「そ、そ、そ、そんなに私が嫌いかっ! 一人娘を置いて去ってしまう親などおらんわ! 生み出しておいて逃げるとは何事か、恥を知れっ! 紫霧は生まれた瞬間から父上との仲良し珍道中を夢見て楽しみで楽しみで仕方なかったというのに、そんな願いも叶えられぬと言うのか! ええい鬼畜鬼畜! 悪鬼! 人でなし! はっ、人でなしとはアヤカシだから当たり前ではないか! よもやこんな小癪な罠を仕掛けてくるとは見損なったぞ父上! 罰として私を連れて行くが良いぞ! うぁああ!」

 涙目と泣声で、わぁわぁと騒ぎ立てる紫霧。とことん突き詰めてまで、駄々っ子だった。蝕は顎の具合を軽く確かめてから、いい加減本当に心底から何処までも、諦めたような様子を見せた。

「あーあー。あーあーあーあー! もうわかったよ。了解だ、承ったぜこの妖怪小娘紫霧ちゃんよ! 連れてってやるから喚き散らすのをやめろ! 鼓膜が破れて頭が割れちまうよ。それにな……」

「そ、それに……なんだ、父上……?」

「お前は笑顔の方がずっと可愛いぜ、紫霧」

「はぅああっ!」

 顔を真っ赤にして、ふらふらっと倒れかける紫霧であった。

 なんとも忙しい娘――いや、アヤカシであろうか。

「……ひひ、なんかもう一周して面白い玩具って感じなんだが……。あー、ま。良いから目を瞑れ、紫霧」

「むむっ? 何をする気だ?」

「頬に口付けしてやる。可愛い娘に優しい父上からご褒美だ。愛情の贈り物だ」

「むぁっ! な、な、な、なぬっ? そ、それは……う、嬉しいぞ」

 あたふたとしながら、素直に目を瞑る紫霧。

 どきどきとしながら。

 わくわくとしながら。

 とき、めき、ながら。

「こ、こうか、父上?」

「ああ、そうそう。そうだ。ちょっとそうしてな」

 頬を赤くしながら、目を瞑り木々に囲まれた山道の途中で突っ立ったまま待つ、紫霧。

 待つ。

 待つ。

 ……待つ。

「……ち、父上?」

 ……………………

「……お、遅いぞ?」

 チラッと、片目を開けて見る。

 ……当然のように、誰も居なかった。

 ものの見事なまでに、騙されていた。

「…………な、なぬっ?」

 仰け反ってみても、何処か虚しい。

「む、む、む、むぅぅぅぅぅ! かくなる上はぁあああ!」

 唸る紫霧の身体に、変化が訪れた。

 唐突で、あからさまな変化だった。

 黒く、黒く、暗く、闇色に、身体の色が変化していく。その色は――そう。

『夜岬』の刀身の色。

 スラリと冷たく、ヌラリと閃く。

 かの妖刀の刃のように、闇色で、そして鋼の肌。

 恐ろしく禍禍しいが――心がどうしようもなく惹き付けられる。魅入られてしまう。

 そんな、美しく危険な、漆黒の肌をした女性。

 アヤカシガタナ『夜岬』二十四振りの、妖怪。

 それこそが、紫霧の本性だった。

 いかに小娘ぶろうとも、どんなに少女らしくとも、

 彼女は人の思念が生みし、人ならざる妖怪なのだ。

「父上ぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 彼女はそう咆哮すると、両の指先をしゅらりと伸ばした。その指、十本の指はそれぞれがそれぞれに、鋭利な刃となっていた。

『夜岬』の刃。

 全身に二十四箇所、刃を作れるアヤカシ。

「ふ、ふふふふ。何処に逃げても無駄だぞ! 私には父上の居場所が手に取るように分かるのだからな! もはや釈迦の手に捕らわれた孫悟空も同然だ! その証拠に私の指にはしっかり孫悟空と書いてあるのだぞ! ……って、落書きっ? い、いやいや」

 勝手にまた一人で仰け反りつつ、意識を集中――する素振りを見せる紫霧。

「むぅ、こっちだな! 待つのだ父上ー!」

 紫霧はそう叫びながら、林の中を何処かへと疾走して行く。障害となるような木々は、片っ端から切り裂きながら、暴走して行く。まるで豆腐か何かのように少しの抵抗もなく、木の幹を切り倒してしまう鋭い刃。宵丸の刀の腕に、『夜岬』の刃が加わったかのようだ。

 彼女が去った後の通り道は、まるで森林伐採に会ったとしか思えぬほどだった。

 そして。しばし後。

 時間で表すのなら、一刻の半分にも満たぬほど後。

 その場に、蝕は現れた。

「……猪突猛進っていうか……鬼薙爆進って有様だな……。末恐ろしいぜ、全く……」

 溜息をつきながら、軒並み切り倒されている木々を見やる蝕。

 彼は紫霧が目を瞑っている間に、自分を喰らい、姿を隠したのだった。日蝕の如く月蝕のように、闇が一時日と月を蝕み喰らい隠すように、自分自身を隠す。蝕という妖怪の、逃避の最終手段であった。

「ひひ、しかしまぁ、ここの山肌はちょっと涼しげになっちまったが……何処も彼処もあっちもこっちも丸く収まったみたいで、良い感じじゃねぇか。めでたしめでたしであろう――ってか。はん……、何にせよ一区切り、これにて一件落着、終わりの終わり……だぁな。どうせどんなに嫌がったところで、互いに寿命を定め忘れたアヤカシ様だ――また会おうこともあるだろうぜ。ひひ。そんとき気が向いたらまた、可愛がってやるよ――紫霧」

 思うことは色々あれど、あらかた思い尽した。

 俺には怠惰なのが一番似合うんだろうよ、と。

 軽佻浮薄にのらりくらりとそう言って。

 紫霧が向かったであろう――木々が薙ぎ倒され続いている――方向とは逆に、蝕は歩いていく。

 地を踏み、天を見やる。

 空は薄らと朱に染まり行くところだった。

 宿のあても行くあてすらも持ち合わせてはいないが……何、焦ることなどない。そちらの世界のほうが、自分達には相応しいのだから。次の『存在意義』のはいつになるのやら……それも、その時になれば分かること。終われども終われども、終わらない――終われない。だらだら持続して行く世界において、最も曖昧で最も明確な区切り。

 一刀両断。


 ――また、夜が来る。




(『夜を見た先に。』・終、了)

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夜 見 先 。 梦現慧琉 @thinkinglimit

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