序編

001 ノイズ(1)

 衝立の向こう側で二人は、まるで噛み合わない会話を続けている。


 盗まれた手紙のに大金を抱えて単身廃車置き場を訪れた博士と、そこに住みついて恋人を待っているという愚者。


 漆喰の壁に囲まれた薄暗い一室。扉の隙間から陽の光が浸み入る麗らかな日曜の午後。


 けれども我々の目には夕闇の中、打ち棄てられたスクラップ車の山を背に対峙する二人の姿が、はっきりと見えている。


 衝立の向こう側にはどこにもない世界が広がっていて、そのどこにもない世界こそが、俺たちの生きるべき約束の地に他ならない。


◇ ◇ ◇


「君はさきほど、あの空の裾野に広がる赤を綺麗だと言ったな。なるほどそれは君にとって、儚くも美しい一日の終焉の景色なのだろう。だが私の目にはその同じ赤が、さながら呪われた獣の血のように、妖しく穢れたものと映る。それもそのはずだ。学のない君にはまったく、そのようなことは思いもよらないだろうがな、赤という色の見え方は、人によってまったく違うものなのだ。人間の視覚は実に曖昧なもので、私が知覚している赤は、ともすれば君にとっての橙かも知れない。いや、黄色ということもありうる。これは信じてもいいことなんだよ」


「ええ、信じてもいいことですとも。空の赤が黄色や緑であることくらい。昼間はあんなに青かった空が、いつの間にやら深い群青になり、やがて大地との境がこんな綺麗な色に染まる不思議を思えば、ずいぶん楽に信じられるというものだ。赤でも青でもいいじゃありませんか。そんなことはどうでもいい。ただ僕が眺めているこの赤は、いつまでもこの赤であってほしい。そう考えるのは贅沢というものですか? それとも先生は、見る者みんなが同じものを見なきゃならないと、そんな風にお考えですか?」


 博士は苛立たしげに頭を振って愚者を睨む。そして吐き捨てるように警告の言葉を繰り返す。


「さあもう能書きは沢山だ。ここから離れろと何度言ったらわかるんだ。時代は変わった、豊かで平和な時は過ぎ去った。この国にはもう君のように職のない者を養う余裕はないのだ。連中に見つかれば、君は容赦なく収容所に引き立てられる。そこで兵隊として更生させられるか、あるいは臓器を抜きとられて命を散らすか、二つに一つだ。それが嫌なら働くんだ。いいかい、働くことは憲法で決められた義務なんだよ?」


「それは無理な注文ですよ先生。さっきから何度も申しあげている通り、僕はここで人を待っているんです。このお腹にいる小さな命を授けて下さった、世界でたった一人の大切な人をね。落ち合う場所がここだってのはちゃんと覚えているんですが、あいにく時間の方はさっぱり忘れてしまいました。行き違いになったらそれこそ目も当てられないじゃありませんか。僕はどうしたって、ここから動くわけにはいかないんです」


 博士は勢いよく立ち上がり、そしてまた力なく腰をおろす。愚者は頭の裏に両手を組み、口笛を吹きながら身体を左右に揺らせてみせる。


◇ ◇ ◇


「次、どうする?」


 息だけでアイネが囁いた。衝立の向こう側を食い入るように見つめる真剣な横顔をたしかめ、俺もまたそちらに目を戻した。


「まず撃ち殺そうとするだろうな。流れからすれば」


「そこからの話。撃ち合う?」


「手錠かけられたままか」


「まさか。ちゃんと外してよ」


 アイネの両手は無骨な手錠で繋がれている。遠目にもはっきりとわかる外観と、照明を反射しない艶消しの表面。そしてなにより嵌めても外しても振りまわしてもほとんど音をたてないその拘束具は、俺とアイネでアダルトショップ巡りをしてようやく探し当てた『演劇のための一品』だ。


「撃ち合ってどうするよ」


「一昨日のに繋げる」


か。でもあの展開だと俺、死ぬことにならないか?」


「うん。それでいいと思う」


「いいわけないだろ。こんな早くに俺が降りてどうするんだ」


「降りろなんて言ってない。死んだあとは亡霊。幕が降りきるまで」


「あのな……。無理に決まってるだろ、そんなの」


◇ ◇ ◇


「まったく無邪気なものだな。内臓を抜かれると言っているのが聞こえないのか。君は腹の子ともどもあたら命を落とすことになるのだぞ」


「食べるんですか?」


「食べる? 何を?」


「内臓ですよ。抜き出して食べるんですか?」


「ああそうだ。食べるのだ。どうせ君に本当のことを話してもわかるまい。だからそう思っておけばいい。連中は人の内臓を好んで食べるのだ。まだ息のある君の腹に、飢えた獣のように鼻面を突っこんでな。激しい痛みに君は泣き叫ぶ。だが連中は意に介さない。そればかりか余計に食欲を掻き立てられ、熱心にと君のはらわたを貪り食らうのだ。そうなりたくはなかろう? さあまだ間に合う。すぐにここを離れるんだ。その約束を守りたいと思う心があるのなら」


「こいつは困ったことになりました。ここから動けば僕は約束を守れない。でも動かなければ血に飢えた獣に生き肝を食われるという。さてさてどうするべきでしょう。ここはひとつじっくりと腹を据えて考えてみなければなりませんなあ」


 愚者は神妙な顔をつくり、胸の前に腕を組んで顎をさすりながら考えこむポーズをとる。博士は勢いよく立ち上がり、そしてまた力なく腰をおろす。


◇ ◇ ◇


 二人の掛け合いはいつ果てるともなく続いている。だがそろそろ割って入る頃合いだ。


 俺は襟の内側に愛用のデザートイーグルをいじる手を止めた。アイネの銃はグロック26。元は俺の持ち物だったが、彼女が盗人の役に就いたときに無料ただで譲った。このままいけば俺はその銃で腹のあたりを撃ち抜かれることになる。


「どうしても俺を殺すのか」


「まだ死にたくない?」


「まだ死にたくない」


 相変わらず仮舞台を眺めたまま独り言のように呟くアイネに鸚鵡返しの返事をした。


 幕まで亡霊で通すという思いつきは斬新だが、生憎とこっちにはその用意がない。亡霊の演技など考えたこともなかった。見切り発車で試したところで、いずれ破綻するのは目に見えている。


 そうなれば俺は本当に『死ぬ』ことになる。役柄の上で死ぬのは結構だが、たとえ練習とはいえ舞台の上で『死ぬ』わけにはいかない。


「なら逃げる」


「どうやって?」


「手紙で脅す」


 その一言で理解できた。まだ序盤であることを考えれば性急すぎる嫌いはあるが、設定を踏まえての展開としては悪くない。


 俺はポケットに手錠の鍵が入っているのを確かめたあと、右手の人差し指を親指につがえて、アイネの額の前に構えた。


「わかった。それでいこう」


 アイネは頷き、手錠で繋がれた手を同じように俺の額に伸ばした。互いの額を指で弾き合う伝統の『キュー』。


 そして俺たちは博士の手紙を盗んだ盗人と、早くもそれを捕らえた兵隊として衝立の向こう側に進み出た――


◇ ◇ ◇


 それから五分後。我々は仮舞台だった場所に車座になり、最後まで続けられなかった劇を振り返っていた。


「あれはハイジが悪い」


「そうだね。戦犯はハイジに間違いない」


 アイネとキリコさんが口を揃えて咎め立てるのを黙って受け容れるしかなかった。俺が素に戻って台詞に詰まり、それが理由で劇が頓挫したことは事実なのだ。けれども――


「でも、責任は私にもありますよ。先に場違いな台詞を口にしたのは私だし……」


 そうなのだ。目の前に現れた青年が自分の待ち望んだその人であることを確信した愚者は、恋愛映画のクライマックスシーンさながらに兵隊に駆け寄り、袖に縋り瞳を潤ませてこう告げたのだ。


『ずっとお待ちしておりました、


 その一言で俺は現実に引き戻され、「ぐっ……」と呻いて固まってしまった。当然のように隊長から駄目が出され、物語はそこで終わりを告げた。だから戦犯は決して俺一人ではない。


 だがキリコさんは顔の横でひらひらと手を振り、「ペーターに責任はないよ」と言った。


「ペーターはちゃんと役に立ってたじゃないか。あれはまったくハイジの失敗さ。『先輩』って呼ばれたくらいで落ちてるようじゃ、修行が足りないとしか言えないね」


「でも!」


「でももストもないよ。ペーターは黙っといで。いいかい、この際だから言っておくけどね、ハイジはどうも当意即妙な台詞の掛け合いってものができてないよ。確かにペーターがあそこで『先輩』と言ったのは場違いだ。でもこの子はその台詞を『愚者』として吐いた。そしてハイジはそれに『兵隊』として返せなかった。違うかい?」


 うまく返事ができなかった。それはキリコさんの言葉に反発を覚えたからではなく、逆に言っていることが的を射すぎていて、ぐうの音も出なかったのだ。そんな俺に畳みかけるようにキリコさんは続けた。


「そうした当意即妙な掛け合いこそがあたしらの売りだってことを忘れてもらっちゃ困るよ? お客は何もまとまったものを観に来るわけじゃないんだ。まとまったものならきちんと書かれた台本に沿って演技する普通の劇団がちゃんとやってくれてる。即興はあたしらの命だ。そこんとこちゃんと肝に銘じといておくれ。政権の交代も近いんだし、そうでなきゃあたしらも安心して出ていくわけには――」


「そのくらいにしておきたまえ」


 今まで沈黙していた隊長がおもむろに口を開き、全員がそちらを向いた。


「ハイジ君も十分にわかっているようだ。もうこれ以上責めることはない」


 そう言って隊長はじっと俺を見つめた。他の三人もそれに倣う。今度は全員の視線が俺に集中した。


「……ごめん。俺が悪かった」


 俺は喉元まで迫りあがってきた弁明を飲みこんで頭を下げた。


 キリコさんの言う通りたとえどんな理由であれ、舞台の上で『死んだ』俺が悪いのだ。そんな俺の姿にアイネはつまらなそうに溜息をつき、キリコさんはやれやれという感じで微笑んで見せた。まだ何か言いたげなペーターを俺は目で制した。


「それならば、今日はこれくらいにしておこう」


 そう言って隊長は腰を浮かしかけた。俺は慌てて壁に掛けられた時計に目を遣った。時間はまだ六時を過ぎたところだ。


「もう終わり? あと一回くらい通せると思うけど」


 本音はもちろん自己嫌悪を払拭したかったからだ。もう一度ちゃんと最後まで通して、気持ちよく今日の練習を終えたい。しかしそんな俺の考えなど見越したかのように、隊長は無慈悲な返答を返してきた。


「いや、今日は朝からもう十分な回数をこなした。本番は近い。喉を労りたまえ」


 そう言われて初めて自分の声がだいぶ掠れていることに気づき、更なる自己嫌悪に何も言えなくなった。練習で声が掠れるということは、発声に問題があるということだ。それが証拠に同じだけ喋り続けていた他の三人の声は、揃って少しも掠れてはいない。


「では本日の練習はこれまで。散会」


「はい」


 隊長の号令に応じ、四人揃って返事を返す。


 定期公演を一週間後に控えて最後の日曜日の一日練習は、俺にとって非常に後味の悪い形で幕を閉じた。

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