第二十七話 チェックメイト

第六編 北条義時

第七話


「壇ノ浦の戦い。それは死力を振り絞って決戦に挑んだ安徳帝擁する平氏と、屋島の戦いで止めを刺しきれなかったために次こそはと本気で潰しにかかった源氏の最後の戦闘だ」


海に追い落とされてからもしぶとく復活の芽を探し求めていた平氏だが、屋島の戦い直後に志度に潜伏していたのを見つけられて義経の追撃を喰らい、最終的には彦島へと逃れた。ここは本州と九州の境目、関門海峡のほぼ中央に位置しているから、水軍の襲来を早期に探知しやすく迎撃も容易であったからな。今では埋め立てされて下関の一部になっているが、当時はまさに中国と九州の輸送路を寸断する鉄壁の要塞だった」


加えて北九州の港は平氏方が押さえていたから、輪をかけて厄介だと言えた。いくら源氏には負けまくっている彼らとて、残党ですら精強だからいわゆる田舎侍では歯が立たない面もしばしばあったようでな、彼らの救援の為に屋島攻略直後に源範頼率いる軍勢が四国の南の海上を経由して九州に上陸している。葦屋浦の戦いだ。源氏お得意の奇襲上陸から泊地攻撃に発展したこの戦いで勝利を収めたことで、彦島に立てこもった平家中枢を策源地から完全に遮断し、挟撃を可能とすることになった」


これに平氏は慌てた。補給が出来なくなっただけではなく、水軍そのものにもダメージを受けたことで決戦前だと言うのに戦力が減少してしまったからな。いよいよ後がない平氏はもはや、直に来るであろう源氏の水軍をどうにか撃滅して一時的にでも制海権を取り戻し、再度補給地を確保するしかないと言えた」


港湾を抑えたことであとは干上がらせれば自ずと勝てる源氏ではあったが、残念ながら政治がそれを許してくれなかった。貴族の中で、奥州も再度朝廷の厳格な管理下に置くべきだという強硬論が吹き上がり、それに呼応して平泉がきな臭くなりつつあったからだ。それに屋島の戦いでむざむざと取り逃してしまったというにあるまじき「失点」があったのも痛かったな」


政治ってのは今も昔も組織内部の権力闘争が最優先されるってのが強く認識させられるぜ、全く...挙国一致の難しさは中世だろうと近現代だろうと変わんないってこった」


それでも源氏中枢はひたすらに朝廷への帰順を示し、盛り立てることで自らの益となるように工夫を凝らしていた。彼らは決して油断しなかった...出来なかったとも言えるが」


「実は葦屋浦の戦いの際に平氏が火筒を使っていたという報告があったんだ。そう、この土壇場で量や細かい兵器性能に差はある可能性が高いとは言え敵側も火薬兵器の実用化に至っていたというのは大きな衝撃をもたらした。だから、彼らは互いに持てる力の全てを解き放ち戦った。恐らく世界史上初となる双方が火薬を利用した飛び道具を駆使してぶつかり合った海戦として、特筆すべき戦いになったんだな。」

































ー元歴2年(1185年)3月24日 壇ノ浦ー


 数百にも上る船が一路、彦島へと進んでいた。敵味方の識別のため純白に塗装された船体に、翻るは「臨者為護皇国須滅朝敵」の十文字。整然と並ぶ隊列はその練度の高さを窺わせた。先頭の船にて薄手の、しかし朱色の見るからに大将と分かる甲冑を身につけて仁王立ちする青年は、目を細める。そして、もう少し遅く着けばよかったやもしれぬ、と呟いた。


 水平線の先に黒々とした点が瞬く間に増えていく。起死回生の一撃を狙い、平氏が打って出てきたのだ。潮と風を味方につけ、ぐんぐんと迫ってくる。源氏の船よりは幾分小ぶりな物が多いが、それは決して劣勢を意味しない。むしろ機動力を重視し、比較的狭い海峡で有利に展開するには源氏軍より隻数が多いのも相まって好都合であると言えた。

『やはり、短期決戦を挑むか。義兄上の予想は常に正しい。あとは我らが義兄上の期待に応えられるだけの力があれば良い、そうであろう?』


 青年、義経は後ろを振り返り、山のようにそびえ立つ大男へと顔を向ける。背丈およそ六尺六寸195cm、その名は武蔵坊弁慶。


『は、我ら一同全力を以て戦いまする。御味方に勝利を、必ずや』


 不敵に笑い合う主従。敵に近づくにつれ、兵の士気はいよいよ高まっていく。源平軍互いの距離は十町1.1kmを切った。平氏側中央後列付近に一際大きな唐船があり、それを守るように動いているのがはっきりと見えてきた。


『ふむ、あの唐船...がお乗りになっているな』


 目ざとく発見してその正体安徳天皇を看破、さらに言外に今上天皇は尊成親王改め主上、後世における後鳥羽天皇その人だと表明する義経。数瞬目を瞑って考える素振りをした後、薄く目を開いて指示を飛ばした。


『信号使、面舵を知らせろ! 火車は左舷に向けておけ!』


『おもぉぉぉぉぉかぁーじ!』


『かしゃぁぁぁぁぁさげぇぇぇぇぇん!』


 声と同時に鏑矢がぴょう、と右舷に飛んだ。一拍置いて法螺貝が二回、吹き鳴らされる。船団が次第に右へ右へと曲がって行く。距離五町550m。呼応するかのように平氏の船は取り舵を切る。同航戦だ。

 息を短く吐き、すうぅっと吸い込む。そして義経は命令を下した。


『射掛けるぞ、松明を灯せ! 背負った十文字に恥じぬ戦働きをしてみせよ!』


 その言葉に弾かれたように信号使が旗を動かし始める。「照準合ワセ」...準備の整った船からは鏑矢が放たれた。敵が攻撃を始めたと誤認した一部の平氏の船から矢が飛ぶが、未だ射程距離に届かず、虚しく海へと落ちていく。最前線の船隊の、全船の準備が終了したのを確認した信号使が法螺貝を三度吹いた。「火付ケ用意、放テ」...もうもうと煙が立ち上り、そして...爆音と共に第一波が放たれた。


『馬鹿な』


 幼帝安徳天皇を乗せた唐船を守る船の中でも、他より一回り大きな軍船。その中で愕然とした顔で呟いたのは平氏の大将が一人、平知盛。彼は清盛に幼い頃から可愛がられており、戦闘の勝敗を大きく左右する可能性を秘めた火車や火筒といった火薬兵器の研究を一任されていた。故に音を聞いただけで、その射程が自軍のそれよりも長く、威力も高いことが平氏中枢の誰よりも早く


『如何した?』


 知盛に尋ねる総大将、平宗盛。


『兄上...お耳を』


 声を潜め、敵の量だけでなく兵器性能も上である可能性を指摘する知盛。宗盛は溜息をつき、口を開いた。


『まぁ...薄々分かっていたことではあろうな... 島にてお待ちいただくのも危険な上、あわよくば敵陣を突破しそのまま主上をより安全な場へと思ったが...お連れしたのは悪手だったやもしれぬ。とにかくこちらも距離を詰め、矢で力を補えるようにせねばならんな』


 知盛が苦々しい顔で頷いた直後、顔面蒼白の兵が船室の中へ飛び込んできた。


『て、敵斉射によりお味方多数、炎上! こちらも応射しておりまするが、押し負けてございます!』


 戦闘開始からまださほど時が経っていないというのに、二度目の溜息を...あるいは悪態を...つきたくなるが、宗盛はそれを噛み殺し、毅然とした態度で指示を飛ばす。


『弓が届くところまで...いや、船をぶつけるまで詰めよ! 白兵戦ならば勝機はある!』


『ぎ、御意!』


 単純な連絡手段は旗や法螺貝、鏑矢などである程度高速化が図られている源氏に対し、平氏は連絡船を出さねばならない。の存在の有無は、この土壇場でさらに戦力に差をつけようとしていた。


『ある程度全体に伝わるまで、今しばらくかかるな...』


 ほぞを噛む思いで言葉をひねり出す宗盛。しかし、耐え忍べばどうにか、と考えていた彼を、さらに驚愕する事態が襲う。


 宗盛は...いや、平氏は誰も、知らなかった。源氏もまた、近接戦闘は望むところであったということを。関東に一部を分割移転された科学研究所管轄下のにて、火筒以上に高火力の新兵器が生み出されていたことを。


『敵船団、突撃を開始! 接舷を狙っている模様!』


『掛かったな』


 笑みを浮かべる義経。既に射程の差から生じた先制攻撃によってまずまずの損害を与えたが、最大射程ギリギリで撃っているので発射タイミングを合わせないと大きな効果が出ないことを彼は経験から知っていた。そのため、リスクを冒してでも距離を詰めて命中率を上げる算段であったのだ。そして...


『急ぎ大火筒と面当て、目当ての準備をせよ! 船に乗り込ませるな!』


 義時が主導して完成させた隠し玉、大火筒。それは原理的にも形状的にもまさに中世版RPG-7と言えた。火縄による着火は危険であったタッチホール式から比較的安全なトリガー式になり、鋳造した筒状の砲身に差し込んだ弾体には火薬が詰められ、後部は火薬の流出を防ぐために薄手の紙で覆われている。ロケットブーストの燃焼室となっているのだ。噴流はそのまま後部へと抜け、弾を押し出す。弾頭は石または鉄くずを括りつけただけだが、火車よりも大重量なので一撃で船に大穴を開けることも可能であった。最大射程百尺30m前後と遠距離攻撃には不向きかつ安全性も極めて不安定な代物ではあるものの、携帯した兵士1人によって船1隻が撃沈させられるリスクがあると考えるとその脅威の程が分かるだろう。

 右手でトリガーを兼ねた前部グリップを、左手で後部グリップを握り、右肩で支えることで火門からの噴流を逃がすような構造になっているが、一部の武士からは構えにくいと不評であった。結果、煙を思い切り吸ってしまう危険性を無視して左肩に構える者がそれなりにいたので、義時は急遽そのような構え方をしても負担が軽減出来るように面当てマスク目当てゴーグルを作らせた。面当ては木綿製で紐を使って耳の後ろで固定するため、その形状から口さがない者には「顔褌」などと呼ばれていた。しかしそれでも、イヌイットの使っていた遮光器を模倣した木製の目当てと併用することで、煙や不完全燃焼に終わった微細な火薬を吸い込む危険の軽減が実現できたのであった。もっとも、作った本人は「こんな物を顔に装着した甲冑の軍勢とか見てくれがどこのクリーチャーだ、怖ぇよ」などと思っていたが...


『大火筒、用意終わりましてございます!』


『よし、だが忘れるな、百尺30mまでは火車と弓を使え! 大火筒はそれより近く寄られた時に放て!』


『承知!』


 戦闘はますます苛烈さを増し、源氏にも船の損害が多くなっていく。しかし元来、質的優位に立つ上に大火筒を射撃することによって接舷切込みにまでは至らせない。近接戦闘を拒否するかのような火力の集中投射によって、船に取り付こうとした平氏は、その尽くが沈められていった。


『いかん、近づくこともままならんとは...』


 宗盛が接近を拒否する大火力に顔を青ざめさせ、知盛に至っては敵が決戦で新兵器を投入していたのを読めなかったことに紙のような顔色になっていた。


『詰んだな...』


 絶望的な空気が、その場を支配した。事ここに至っては再起の芽などあるはずもない。最悪、徹底的に落ち武者狩りをされて一族はおろか郎党まで文字通りの根絶やしとなりかねなかった。宗盛はよろめきながら船頭に近寄り、唐船に寄せるように指示を出す。


『兄上?』


『...主上と母上、建礼門院にお覚悟をして頂かねばならん』


『.........分かり申した』





 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛きものもついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。





 元歴2年、旧暦3月24日。後に壇ノ浦の戦いと呼ばれるこの戦闘により、長きに渡る治承・寿永の乱は平氏の壊滅、源氏の復活という形で終結した。しかし...33年戦争の終結には、未だ少々の時間を要することになるのである。

































壇ノ浦の戦いで政治勢力としての平家は完全に滅亡した。勘違いされがちだが、氏族として滅亡した訳では無いのは注意すべきだな。彼らの末裔である大掾氏、秩父氏、千葉氏などはその後も存続してるし、伊勢氏は維新時代以後も名家として残り、衛士を拝領するまでに至ってるからな」


知盛をはじめとした平氏一門は安徳天皇を含め多数が入水、偶然を含め助かった、助けられたのは安徳帝の母である建礼門院や宗盛など僅かに過ぎない。建礼門院こそ仮にも天皇の実母であることから剃髪して真如覚と号することで沙汰止みとなったが、宗盛はそうはいかない。最終的には息子四人を含め全員が斬首刑に処された。戦闘規模で言えば奥州合戦のそれよりも大きく、また長かったことから清盛と共に悪の親玉、愚鈍にして傲慢という評価がつきがちだが、あの時期の政治的混乱を収めようとしていた手腕や『玉葉』に見るように家庭人としての一面を見落としてはいかんな。どんな人物にも言えることだが、人というのはそう簡単に推し量れるようなものでは無い」


さて、それでは壇ノ浦の戦いの後から奥州合戦までの義時の動きに焦点を当てていくこととするか。33年戦争の九割がここで終わったといわれるのは年数ではなく、その体制の改革準備が整いつつあったことにある」


「平氏政権と後白河院の対立に終止符が打たれ、沖縄、九州、四国、中国、近畿、中部、関東までが朝廷の支配下となった。そう、当然君も知っているだろうが支配下だ。源氏の、では無い。ここに我が国がその国家体制を形成し、ある種その系譜が現代にまで連なる所以がある。義時はまさにその構築運動の中核を成している存在だった。」

































-元歴2年(1185年) 7月中旬 大内裏-


 壇ノ浦の戦いから4ヶ月弱が過ぎた。RPG-7のご先祖さま地味た「大火筒」は流石に使い物になるか怪しいぞ? と思ったが近接戦闘で想像以上に役に立ったらしい。聞くところによれば潮の流れが変わる前に平氏を撃滅するなど“史実”以上の一方的な大勝を上げたようだ。


 とりあえず、安心した。奥州はともかく、それ以外のこの時代の「日本」の領土は再度完全に平定された。今日はその仕上げにして、真の意味での統一の王手となる日だ。


『清和帝の御子、貞純親王より数えて八代、源朝臣希義が今ここに、日ノ本を武により統一し、その全権を改めて主上へと奉りてござりまする。千代に渡り続くすめらぎの血脈の御元で、文と法による安寧と益々の発展を願い、天下を導いて頂きとうございまする』


『しかと受け取った。これよりその方は新たな政の場にて武士もののふを纏め、その武を日ノ本の安寧と発展に尽くせ。国の防人、国の検非違使として、名を朝廷近衛軍と与える。その方は近衛軍の頭、守人元帥として励むが良い』


『御意!』


 朝廷近衛軍。これからしばらくは国内の治安維持組織としての面が強い状態が続くだろうが、いずれは国と国との戦いを見据え、国家の正規軍足りうるだけのポテンシャルを持つ軍事組織だ。構成としては多田源氏中枢部を軸として全国の武士団を統合した形になっており、その動員数は30万にも上る。これは全人口の推定5%前後という現代から見れば凄まじい職業軍人率を誇っている。まぁこの時代なら騎士階級と考えれば人口比率的にはそう大して変な数ではなかろう。食い扶持を考えると維持は大変そうだが...そこは財政改革で何とかしたい。いや、何とかしてみせる。


 それよりも重要なのは「文と法による」という文言だな。神や仏じゃあない、純然たる朝廷と法律による統治。武力もまた、法律違反への制裁としては機能するが、主体はあくまで朝廷なのだ。だが天皇または院による独裁でないのもミソである。ある程度の官僚の自由なコミットメントに加えて、万が一のことを考えてのものだ。最低でも皇の血は残したい。現代から見れば制度的にまだまだ荒削りではあるが、近代国家体制への道筋の大枠は出来た。これで国力を余分な所に割くことなく技術と文明の発展を進められるはずだ。


 院の仏教への傾倒が心配要素の一つではあったが...叡山焼きと坊主の腐敗っぷりを突きつけたのが効いたのか、大きな問題になるほどには至ってない。今後日蓮宗やら一向宗やらが出てくる可能性を考えると、これはシステムの構築だけを考えるならば嬉しい誤算であった。元よりリアリスト的な、合理主義思考が強いことは前世藤原忠実から知っていたが、“史実”の晩年には...あと1ヶ月ほどに迫った文治地震を発端とした東大寺の盧舎那仏開眼は自分がやると言って聞かなかったからな...裏切り、裏切られ、疲れ果てた先に縋るのは宗教というのはいつの時代も変わらんな。しかしこの歴史ではその宗教においてすら人の暗い...昏い感情を見せつけられたが故に現実を見ざるを得なくなったというのは、複雑な感情を覚えるが...


〔...貴方の前...の思...ですね...尽くすだけで......のに〕


ん、何か言ったか?


〔いえ、何も......まだ、何も〕

































北条義時という人間がもたらした最大の功績は、まさにこの朝廷近衛軍という存在を作り上げたことにある。その統帥権は天皇に存在し、朝廷という組織を守護し秩序と安定を守り抜くことがその存在意義。もちろん現在から見れば諸問題はあるが、この時代にここまで国家という概念に限りなく近い組織形態を立案し、実現させた傑物はいないと断言してもいいだろうな」


武家の頭が朝廷という既存の政治権力に服属する形で行政権の一部を認められたということは、それに従ってきた武士達にも大きな変化をもたらした。彼ら土着武士の頭はいわば地方軍司令官のようになり、地方行政の一翼を担うようになったわけだ。ヨーロッパでは騎士階級というのがあるが、これと貴族の境目が希薄になったようなもの、というのが多分一番しっくりくる表現だと思う。平氏と違い、武士から貴族への転換が武士階級全体で進んだために彼らの反発も少なかったことは大きい」


そんな各地方の武士団は軍隊でありながら官僚でもあった。ま、土地のことをよく知ってる人間だからな、地方行政の担い手としては最適だ。傭兵稼業をしていた連中が平時でも活躍の場を与えられたということだから、それはそのまま治安の安定と維持につながる。指揮系統が明確化したことによって反乱が発生する危険性も低下した」


そして何より重要なのは、武士と農民の役職分離が進んだにも関わらず、身分制の概念が薄い...もちろん、同時代の他の国と比べてだが...ことだろう。これは欧州では見られない極めて特異な現象だ。朝廷の定めた法に基づき、条件を満たした場合には各地方で定められた人数まで独自に農民から兵を募ることが出来たというのは、現代の徴兵制度とかなり類似している。さらに言えば武士団に志願した人間は出自がどうあれ、その能力に応じて官僚...ひいては貴族への道が開けていた。これはどう考えても中世の考え方にはそぐわん。有り得ない。彼の異質たる所以はここに凝縮されているといっていい。当時の隣国、南宋すら科挙があるとはいっても、受験資格があると言えるだけの学力や学習環境が整ってるのは地方の有力者一族だけだ」


だが近衛軍は違った。読み書きそろばん程度ではあるが、志願すれば分け隔てなくきちんと教育を受けることが出来た。我が国が産業革命以前から高い識字率を誇っているのはここにその大元がある。これらの教育費というのも負担が大きかったが、賄えるだけの財政を構築したのも義時の発案があったからな...この辺りはさっき喋った荘園領主の徴税の行方と絡んでくる。治承・寿永の乱による戦災は荘園にも降りかかり、ぐちゃぐちゃになってたんだ。そこを希義が再統一して天皇...まぁ実際には院だが...にその一切を一度返し奉るという形を取ったんだわ。貴族はそれを聞いた時すわ収入源の消失かと焦ったようだが、実際には次第に荘園からの米ではなく朝廷からの銭、つまり貨幣での支払いという形に移行することが告げられたため、とりあえず暴動は起きなかった」


地方ではともかく、貨幣経済そのものは藤原忠実によって都では浸透していたからな。そして旧来以上に収入が増えると分かると、反発は収まっていった。壇ノ浦の戦いが決定打となり、全国の大半が統一されたことによって荘園領主による徴税が無くなり、それは巡り巡って経済の好循環をもたらした。もっと言えば、荘園の消失によって宗教権力の弱体化にも繋がった。法に基づいた組織たる朝廷を最高権力とした中央集権化が達成されたわけだ。しかし地方行政は法の範囲内での比較的自由な裁量を任されていたから、国民主権でないことを除けば既にこの時点で現代政治機構に非常に近しいものが作られていたんだな」


が、その新秩序に従うかどうか怪しい潜在的な大勢力がまだあったな。そう、奥州藤原氏だ。奥州合戦というのは朝廷に対して独自の勢力を保っていた彼らを完全に朝廷へと屈服させるためのものであり、これによって33年戦争はようやく終わりを告げ、完全に本州の統一が成し遂げられることとなる。奥州合戦については、次に会う時に説明しよう。後日また連絡する」


「あ、いや、この後野暮用があってな... すまんな、少々尻切れトンボになってしまった感があって。原稿の締切がな... まぁ明日には片付くだろうし、そしたら余裕ができるからまたすぐ話すさ。」

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