第三話 砕ける

第一編 橘逸勢

第三話

「薬子の変…最近では平城太上天皇の政変とも言うが、それは先の帝である平城上皇から寵愛されていた藤原薬子とその兄の藤原仲成が画策した政変で、父帝たる桓武天皇の死後関係が悪化した嵯峨天皇を失脚させると共に上皇を担ぎ出してその復権を狙ったものだ」


病と障りを理由に嵯峨天皇に譲位したと言われているが、それは建前だ。そもそも、桓武天皇の遺勅によって、その三人の息子は10年ごとに天皇を務める事になっていたんだけれど、平城天皇はそれを破り自分の子供である高岳親王を立太子し、嵯峨天皇…この時代はまだ神野親王だね…を廃太子とする計画を立てていたんだ。その前にも伊予親王が政権争いに巻き込まれて自殺している。俗に伊予親王の変というものだけれども、これによって次に邪魔になったのが嵯峨天皇だったんだよ」


しかしこの計画は失敗し、平城帝は神野親王に譲位せざるを得なくなってしまった。諦めきれなかった平城帝は譲位の10年後を目処にした自分の復権と自分の息子である高岳親王を皇太子とする事を要請している。これには自分の系譜を磐石としたいという平城帝の思惑があった、というのが専門家の見解だね」


ところが嵯峨天皇は高岳親王を立太子するという要請を拒否し、上皇は次第に譲位した事を後悔するようになる。結果、宮中の平城派と嵯峨派はいよいよ溝を深めることとなっていった。そしてついに、上皇が天皇を務めていた時に設置した行政監察の組織である観察使を帝が改正しようとしたことをきっかけとして、上皇は怒り、二所朝廷と呼ばれる全面的な対立に発展する」


藤原薬子が任じられていた尚侍ないしのかみという職には太政官に対して天皇の名の命令書である内侍宣ないしせんを発給する権限があった。だから譲位したとしても国政に関与することは十分に可能なため、上皇は強引にでも復権を試みる事を強く意識するようになる。寵臣であった藤原仲成、薬子兄妹は不満のある現状からさらなる栄達を望み、それを煽っていく」


さらに間の悪い事にこの時期嵯峨帝は病に臥せっていたんだ。これによって復権の可能性が高まったと考えた上皇は旧都、平城京へと移る。危機感を覚えた嵯峨天皇は復帰後に秘書的な仕事を行う蔵人所を設置、観察使の廃止と参議の復活を行った。このことは上皇を強く刺激し、ついに平安京から平城京へと遷都を行う詔勅を出したんだ。これに対し帝はひとまず従うものとして造宮使を派遣するが、その中には逸勢や冬嗣などの嵯峨派の懐刀と呼べる存在が潜んでいた」


「そう、全ては嵯峨天皇の掌の上。そしてそれを成しえた影に嵯峨派筆頭の頭脳である、橘逸勢がいたんだ。」

































-大同4年(810年) 3月 平安京-


 “史実”通り2年で空海と共に帰国してから、4年が経過した。帰ってきた直後はそもそも派遣の動機がそこまで明確じゃなかった訳だし、とりあえずこれだけ期間を空ければ存在感は薄れるだろうと思ったのだが…見通しが甘かった。まさか父上が蔵書、それも未来知識を使った半世紀は先取りしている思想体系や技術を書いておいた隠匿書を見つけて上に報告してしまうとは…なんで見つけちゃうかな、それも殿下達に知らせたりしちゃうかな…お陰で身の振り方を考えなくてはならなくなってしまったでは無いか。陛下…今は上皇陛下か…にはあまりいい顔をされなかったし。


〔結果的に現天皇陛下のさらなる信頼を得られたことで正五位下を叙位され、五位蔵人に任官されたのは良かったのではありませんか?〕


 まぁ、そうなんだけれど。


 “史実”よりも遥かに早い出世スピードだ、さらに新設された蔵人所への任官である。蔵人所は天皇の秘書的な役割を果たすと同時に、ブレーンとスパイの役目も担っている。昨年は上皇陛下が平城京に移ってしまい、対立が一層激しくなってしまった。出来れば伊予親王の変は防ぎたかったのだが…一介の若造、それも帰国直後の人間に出来ることは何も無かった。せめて自分が排斥の対象と見られるようになる前までにはそれを防げるだけの力をつけなくては…


 そのためには歴史を知っているというアドバンテージは欠かせない。上皇陛下が遷都の勅令を出して復権を狙う可能性がある事、対策を立てることを奏上するべきだろう。“史実”では無かったが、権能を十全に振るう為に必要な御璽と駅鈴を盗まれる可能性も考慮した方がいいな。










-大同4年(810年) 9月7日 平城京-


 ついに平城京への遷都の詔が発令された。上皇陛下がクーデターを画策したのだ。私は現陛下にひとまず造宮使として上司の蔵人頭である藤原冬嗣殿と共に潜入を任じられ、上皇陛下の軽挙を牽制し情報を得る為に平城京に向かった。


『これ以上の拙速はなければいいのだが…橘の、君はそう考えてはいないのだろう?』


『…残念ながら。院は野心の大きなお方ですので』


 おっとりとしている様に見えるが、冬嗣殿の目には隙がない。流石は藤原家筆頭の天才だな…約30年後には彼の後継者とやり合わなくてはならない可能性があると思うと嫌にもなる。


『帝は今回の事をお知りになっていたのかな?』


 ぽつりと冬嗣殿が呟いた。驚いた事に、私が陛下に入れ知恵した事は側近たる彼にすら漏れていないらしい。防諜がここまでしっかりしていれば…“史実”よりも早い解決が見込めるかもしれない。


『…かもしれませんな。帝は聡明でおられます故、早めに手を打たれておられてもおかしくは無いでしょう』


 そうだね、と頷いたのを横目に見ながら私は平安京で着々と準備が進んでいるであろう上皇陛下包囲網に思いを馳せ、そっとため息をついた。


 私が現代で生きていた時こそこんな問題なぞ起こることは無かったものの、この皇位継承というのは非常に厄介な性質を持っている。似たようなゴタゴタによって衰退または滅亡の憂き目に遭った国は少なくない。皇室典範…とまでは言わなくても、それに近い法の整備はしておいた方がいいだろう。とするのなら、国体保持と今後の民意掌握を考えるなら万世一系が理想か…となると癪だが、そのシステムを利用する形でのし上がった藤原氏が、この世界線でも、大権を掌握する事は避けられないかもしれない。だが、その矛先が他氏族に向かうことだけは絶対に回避しなければならないだろう。ここで少しでもその芽を摘み取れれば良いのだが…
































この政変をきっかけとして、逸勢は皇位継承権を法律によって明確にしようと考えるようになったと見られている。日記から“万世一系”の文字が表れるのがこの頃なんだよ」


後の皇室典範に通じる非常に大きな意味を持つ思想の発露と言えるだろう。後に彼の手によって起草された“皇位継承之法案”は現在でもその中核を成しているわけだからね」


まぁその辺りは…薬子の変の鎮圧と、その結果どうなったのかを語らなくては何も始まらないだろう」


「嵯峨天皇が遷都を拒否した事に激怒した平城上皇は、藤原仲成・薬子兄妹と共に東国…今の関東へと赴いてそこで挙兵しようとする。しかしそれは、逸勢や冬嗣らの暗躍で阻止されることとなったんだ。」
































 -大同4年(810年) 9月11日 平安京-


 陛下が詔を拒否する決を取ったことが明確になった時の上皇陛下の怒りは凄まじかったらしい。


 まぁ自分の権威を否定するようなものだからな、プライドをいたく傷つけられたのもあるだろう。


 近しい臣たちが諌めたようだが、結局東国へ向かい挙兵する決断をしたのは“史実”と同様であった。だが…


『五位蔵人、こんな事をして許されると思っているのか』


 殺意。縄で後ろ手に縛られ、強制的に座らせられていなければ全力で首を絞めてきそうな程憎々しげにこちらを見るのは、今回の変の首謀者の1人である藤原参議仲成。そんな睨むなよ、いくら取り押さえ方が乱暴だったからってそれは自業自得だろう。もっとも、“オモイカネ”のチューンナップが無ければここまで上手く立ち回れなかっただろうけれど。


〔…このような形で報われるとは私も少々予想外でしたが〕


 保険はかけておいて損はなかった、という事か。


 憑依して間もない頃、“オモイカネ”は身体能力の最適化を提案してきた。身体の管理を行っているその権能を利用して、栄養の適切な配分と筋力増強を図ったのだ。さらに気分転換も兼ねて実践的な対人格闘技…CQCを参考にしたものだ…をちょこちょこと練習していたから、ぶっちゃけそんじょそこらの兵卒では歯が立たない程度には成長出来た。結果、“史実”以上に早いこちら側の行動に焦った仲成が逃亡の身支度をしているのを、独自に立ち上げた諜報機関もどきに所属する私の部下が監視していた所に、捕らえるようにとの詔の伝令が届いたため突撃して確保に至ったのだった。


 …仮にも殿上人のやることじゃないな。


〔兵達が揉み合っていて取り押さえる者がいなかった上、どこから調達してきたのか刀を持ってましたから貴方以外には対処が難しかったでしょう〕


 だからって『じゃあ大捕物は任せた』ってニッコリして退散した冬嗣殿の後始末を任されてもねぇ!?


『…さて、参議殿。今回の騒動ですが、律に基づき刑の宣告をさせていただきます』


 まぁいい。まずは変の後始末だ…刑があることを告げると、微かに緊張の色が顔を横切った後侮蔑の目線を向けてきた。


『…ふん、勝手にしろ』


 どうやらまだ助かる可能性はあると思っているらしい。間違ってないよ、その推測は。“史実”でも本来は佐渡権守に左遷させられてハイ終了だったはずなのだ。だが、しかし。その見通しは甘いと言わざるを得ない。天皇というこの国の最高権威を利用した政治闘争のせいでこの国が滅びることがあってはならない。そのために皇位継承権を法律によって確定させることを目指すし、そこに介入して栄達を狙うような臣の存在を許してはならないのだ。法が制定されるまでにどれだけ時間がかかるかはまだ不明だが、ひとまず第1段階としてクーデターに関する律の厳格化を行うことは出来た。改正されたのは葉月7月…都を出て情報が少なくなっているから知らないだろう。それが今からアンタに降りかかる事となる。


『藤原参議仲成を、平城院への讒言及び都に混乱をもたらした罪深きものとして斬刑に処す』


 一瞬ポカンと口を開いて、そしてゆっくりと閉じた後、ワナワナと肩が震え始めた。怒りか。絶望か。…あるいは両方だろうか。


『貴様…!』


 感情制御が出来ていなかったらビビるどころでは済まなかったであろうと思われるほどありったけの憎悪を込めて睨みつけてきた。悪く思うなよ、ここで厳格に処罰しておかないと後世似たようなことがあった時にどうなるか分からんからな。


『…執行官、後は頼んだ』


 言葉の意味を成さない罵声と怒声を背中にぶつけられつつ、私は部屋を後にした。


〔…感情の沈静化は既に完了しています〕


 あぁ、分かってる。自分でも非常に冷めた気持ちになっているのが分かる。これが前世だったら発狂していたかもしれない。中世とは、現代とはまるで別世界だと言うのはこの数十年で身をもって体感してきた、それがまた1つ増えただけだ。なんの問題もない。


〔…………………〕
































捕えられた藤原仲成は即日で斬首刑、妹の薬子も毒杯を仰いで自殺した。平城上皇は落ち延びるどころか御所から動く事すら出来ずに政変は失敗することとなった」


なにせ御所を囲んだのは当代の英雄、坂上田村麻呂が率いる軍勢だったからね。上皇側の兵の士気は最悪なものだったことは想像に難くない。関係者一同の処罰が2日後に通告され、上皇は剃髪の後に出家。平城派が壊滅して嵯峨天皇の権威が確立される結果となった」


もっとも、嵯峨帝も実兄を追い込んだ事に後ろめたさがあったのか、廃太子とされた高岳親王の代わりに立てたのはその年に産まれたばかりの息子ではなく、弟である大伴親王…後の淳和天皇だ。そして一件落着したあとで、逸勢は嵯峨帝に密談で呼び出されて今後の皇位継承に関してどのようにするのが望ましいのか意見を求められ、これに対して万世一系の提唱をしたと言われている」


そして起草されたのが“皇位継承之法案”だ。歴史上初めてこの国で法案という言葉が表れたと言う事だけでもこの文書の重要性が分かるだろうね」


ただ、平安時代は貴族による権力闘争とそれに伴った皇位継承争いが激しすぎた。故にこの法案は実に8世紀近くもの間放置されてきたんだ」


うん、現代の法に繋がる重要なものだから大体の人は高校生の時に授業でやったかな…本当に時代を先取りし過ぎだと思うよ、彼は」


「しかし、皇位継承統一を行う必要性がある事を認識しながらも、嵯峨天皇は生前自分の息子を立太子する事は無かった。この事は淳和天皇も即位後に危惧していた点だ。そして薬子の変の二の舞として…承和の乱が起きることになる。逸勢死去の4年前の話だ。」

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