序章
この世界は残酷だ。
私がそう気づいたのは、生を受けてほんの七年目のことだった。
ひとえに、裕福な生活をする者もいれば、貧しい生活をする者もいる。
私はどちらかと言うと前者の方だった。布団はある、必要最低限の者はくれる。
ただ。
大人になってただ一つだけ、私が今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことに気がついた。
「愛」は「暴力」ではないこと。
「暴力」は「歪んだ愛」だということ。
歪んだ愛なんて欲しくない。そう思っていた。でも、私が今まで与えられていたのは、その歪んだ愛だったということに、大人になってから初めて気づいたのだ。
そうか、私はおかしいのか。
そう思うようになってから、私は本心を隠し通してきた。
なのに。
なのにあの人には、どうしてもその本心が見抜かれてしまう。
いつもは鈍感なくせに、こういう時に変な知恵が働くのか、私が本心を隠して嘘をついていることがすぐに分かってしまうというのだ。
どうしてかは、私には見当がつかない。どうしてあの人が、あんなに私の過去を聞きたがるのかが分からない。
小さな頃、モスクワに出かけに行った時に、迷子らしき一人の男の子と出会った。焦げ茶色の髪の毛と瞳に、立派な服。それは暑い夏の日、長袖の私とは打って変わって、とても幸せそうな目をしていた。
今思えば、その時点で気づくべきだったのかもしれない。
私が普通じゃないことに、もっと早く気づいていれば。
自衛隊なんて道、選ばなかっただろうに───。
***
「「日米安全保障条約、日本の軍事力を更に格上げ」か……」
ロシア連邦内にて。
海の見える港で、端末に映るワンセグと、手に持つを交互に見ながら、男が呟く。長身で髭を生やした、肉質のある身体を持つ海軍服の男だ。
「私達の国との共同宣言までもが破棄されたら、どうしようも無いですよ。ねえ、艦長?」
隣にいた同じ服装の女軍人が、そう声をかける。
男は何も答えなかった。ただただ端末に映る日本の防衛大臣と、アメリカの大統領を見つめながら、目を細めているのみである。
やがて男は立ち上がり、すぐ側にあるロシア艦艇「モスクワ」に身体を向けた。
「行くのですか?」
「娘が待っているからな」
そうとだけ言い、男は軍服を手で綺麗に整える。そして、胸ポケットから一枚の写真を取り出し、
「ごめんな。弱虫なパパを、許してくれ」
そう言い、その写真を一つの手紙の中に入れた。
「ノンナ。これ、あいつに渡しておいてくれないか?」
男は女軍人に、持っていた手紙を差し出す。
「えぇ、構いませんが……これは誰宛ですか? 酷く古いお手紙のようですが」
表裏をヒラヒラと見返し、女軍人、ノンナ・シャフナザーロフは不思議そうに声を上げる。
手紙には、ロシア語と、その下に日本語を書き添え、どちらも綺麗な字で書いてある。色褪せた便箋入れは所々サビが見え、目でも確認できるほどのボロボロさだった。
「えっと……親愛、なる……?」
「親愛なる娘────」
懐かしそうに言ったその言葉は、止まったカモメの鳴き声によって一部が遮られる。そんなカモメを手袋越しに撫で、男は小魚を一つ与えた。
「俺の娘宛てだ。あいつには死んだことにしておけと言っておいたが……大丈夫だろうか」
「娘さん、今は日本に在住してらしているのですか?」
手紙を胸ポケットにしまい、ノンナは思い出したように顔を上げた。男は一つ頷き、「もう何十年も姿を見ていないがな」と付け足して海を見据える。
「噂によれば、今度改造されるヘリ空母の「かが」のテスト艦長をするそうですよ?」
「……それは本当か?」
驚いたように言う男に、「ええ。噂によればですがね」と腕を組むノンナ。
「会いに行かないのですか?」
「俺はもう、あいつの中では死した存在に近い。妻とも、もう長らく連絡も取っていないし、忘れられているようなものだ。会わなくても、きっとやっていけるさ」
歯を見せて笑った男に、ノンナは目を閉じて微笑んだ。
モスクワ艦内、艦橋にて待っていた乗組員達が、男に向けて敬礼をする。
「お疲れ様です、艦長」
「おう、お疲れ。出航準備は出来ているか?」
「はい。艦長がノンナ中佐と長話をしている間に、既に全部終わらせてますよ」
操舵のハンドルを握る乗組員の一人が、愉快そうに言う。
「しかしあれですね。ロシアの海軍に日本人の艦長……なんだか変な感じです」
「そうか? 俺の娘もハーフだから、日本語とロシア語、両方話せる身としてはとてもありがたい事なんだぞ?」
「娘さん、日本にいるんですよね。鉢合うでしょうか」
そう言われ、艦長席に座った男は諦めたように言った。
「いいや、恐らくないだろうよ。あったとしても、あいつにゃ死んだことにしておけって言っているし、矛盾が生まれて来るし……混乱させても流石に、な。だから、もし海上で会ったとしても、俺達は応答しないようにしよう」
「それは……アメリカ海軍が来ることを予想しての言葉ですか?」
「ん?」
不思議そうに先程の乗組員を見つめる男。その乗組員は、頭で言葉の整理をしているのか少し考えている様子だった。
「我々は今、日ソ共同宣言を通じて平和にしている、ただそれだけのことです。もし我々が日本に協力しようとしていることがアメリカにバレてしまっては、後がないですよ」
「その時はその時だ。成り行きに任せて、俺達が日本を全力でサポートをすることに専念しよう。いいな?」
「はっ!」
真っ直ぐな男の瞳には、変わりない海の景色が映されている。この海以外に見る景色はもう無いだろうと、男はこの時既に分かっていたのだろう。
少しだけ、寂しそうな目をしていたのが、乗組員達には見えた。
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