第15話 祈り

 しかしそれから、表立っては特に嫌がらせなどを受けることもなく、穏やかな日々が続いた。


「アガット……あのね」

「なんでございましょう、妃殿下」


 あれから侍女の補充も特になく、アガット一人が忙しく立ち働いている。他の宮の手入れなどには誰か入ったようだが、ユーディアの身の回りの世話はアガット一人で切り盛りしている状態だ。


 だが彼女は、それをさして苦に思っていないようだった。忙しそうではあるが、楽しそうでもある。

 アガットには申し訳ないとは思うが、ユーディアもその状態がありがたかった。


 自分の周りが信頼できる者に囲まれているというのは、ひどく安心する。特にウィスタリアがここを訪問してきてからは。

 おそらくは、そのことをレイヴァンやマロウも分かっていて、だから新しい侍女がやってこないのだ。

 そんな状態で彼女の仕事を増やすのは申し訳ないが、言っておいたほうがいいだろう。


「あの、私、なんだか熱っぽくて」

「まあ! 申し訳ありません、気付かなくて。寝所の方でお休みになってください。手を貸しましょう」


 慌てたようにそう言う。だが本当に大したことはないのだ。余計な心配を掛けたくはない。


「いいえ、いいわ。一人で行けるわ。少し横になるわね」

「ええ、ええ、そうなさってくださいませ。医師を呼んで参りますわ」

「寝ていればよくなると思うけれど」

「いけません、きちんと診てもら……あ」


 そこでアガットは言葉を止めた。


「どうしたの?」

「妃殿下、あの」


 そう言って、近くまで歩み寄ってきて耳元で囁いた。


「もしかしたら、月のものが遅れているのではありませんか?」

「……そうだったかしら?」

「そうですよ! 遅れていますよ!」


 どうやらそこまで把握されていたらしい。入浴にも付いてくるのだ、当たり前か。

 しかし、自分でも覚えていなかったから、ありがたいといえばありがたいのか。

 全てを知られるのは恥ずかしい、という感情が薄れてきている気がする。慣れとは怖ろしい。


「まあ大変! ご懐妊かもしれないわ! と、とにかく妃殿下はお休みになっていてください!」


 半ば無理矢理寝所に押し込められる。寝所の外でアガットがばたばたと走っているのが聞こえた。

 懐妊。

 ユーディアはベッドに横になりながら、そっと自分のお腹を撫でた。

 なんだか信じられない。実感が湧かない。

 少し熱っぽいだけで、何も変わらないのに。


 もし本当に妊娠しているとしたら、レイヴァンはどんな表情をするかしら。やっぱり嬉しいかしら。

 みんなお世継ぎを望んでいるから、姫だったらがっかりさせてしまうのかしら。でも姫だって私はとても嬉しいわ。レイヴァンもそうに決まっている。

 そんなことを考えながら、ユーディアは眠りに落ちた。


          ◇


 目が覚めたとき、傍らにはレイヴァンがいて、ユーディアの手を握っていた。いつものように、温かくて優しい手だった。


「あ、申し訳ありません、お出迎えもせずに」


 ユーディアが半身を起こそうとすると、彼はそれを押し留めた。


「いいよ、横になっていて。それより聞いたよ、ほぼ間違いなく懐妊だって」

「そうなの」


 ユーディアが微笑むと、レイヴァンもそれに返してきた。


「ありがとう、嬉しいよ」

「でも、姫かもしれないわ」


 ユーディアの言葉に、レイヴァンは目を丸くした。


「姫だといけないのか?」

「私は姫でもいいわ。でも、お世継ぎは王子でなければならないのでしょう?」

「それはそうだけど、別に姫が生まれたからって邪険にすることなんてないし、姫だって嬉しいに決まっている」

「それならよかった」


 安心して目を閉じる。


「私はただ、健康に生まれてきてくれたら、それでいいと思っているよ」


 その言葉を、目を閉じたまま、心地よく聞いた。


「あなたの子どもが産めるなんて、私は何て幸せな女なのかしら」

「嬉しいことを言ってくれるね」

「本当よ」


 この国に来たときは、まさかこんなことになるだなんて思ってもいなかった。

 こんなに幸せな結末が待っているのなら、『呼ばれた』ということも、素直に受け入れてもいいのかもしれない、と思った。


          ◇


 またある日、ウィスタリアが海の宮にやってきた。

 侍らせている侍女は、以前とは違う人間だったが、やはり人形のように付き従っているだけだった。

 ウィスタリアの赤い唇が、動く。


「懐妊なさったと聞いたのだけど」

「ええ、そうです」

「そう、まあ王の子は何人いてもいいもの。おめでたいことだわ」


 何人いてもいい。

 確かにそれはそうなのだろうが。

 ただ、産む女は一人でなくてもいい、とも取れなくもない。

 脇に控えているアガットが、怒りに身体を震わせているのが分かった。

 だが、ここでユーディアまで怒り出すと、『陛下の品位』というものが問われることになるのだろう。


「ありがとうございます、ウィスタリアさま」


 そう言って、にっこりと微笑む。

 笑顔の練習の成果は出せただろうか。


 ウィスタリアはわずかに眉をひそめ、それからまた扇で顔半分を隠した。


「お大事になさって。ではわたくしはこれで」


 そして身を翻そうとしたが、また立ち止まる。

 ウィスタリアはこちらに振り返って言った。


「なにごともなければいいわね」

「え?」

「川の氾濫とかあったから」

「え、ええ」


 今から十七年前、確かにこの国の川が氾濫したということがあったらしい。死者も出た。そう本に書いてあった。

 そしてやはり、人々を戒めるためにセクヌアウスが起こした天災だと書いてあった。

 天災と呼べるものが極端に少ない国のこと、神の仕業と思われがちなのだろう。


「わたくし、心配なの。レイヴァンの祈りは届いているかしら?」


 レイヴァンは、朝の祈りを欠かしてはいない。海の宮に泊まっても、早朝には必ずあの礼拝堂に向かっている。

 まさかそれを心配しているのだろうか。妃にかまけて、祈りを怠ってはいないかと。


「陛下は、毎朝欠かさず礼拝堂に向かっておられます」


 そう言うと、ウィスタリアは口の端を上げた。


「ええ、そうでしょうね」


 そう言うと、またしずしずと立ち去って行く。

 その背中が見えなくなった頃、ほっと息を吐いた。


 もしかしたら、釘を刺しに来たのだろうか。

 ユーディアが彼の邪魔をすることになってはいけないと。


 ウィスタリアがそれを心配しているのなら、当然の危惧だろう。ユーディアはこのセクヌアウスに縁もゆかりもない人間なのだから。


 ウィスタリアはただの意地悪ではなく、それを指摘しようとしているのかもしれない。

 だとしたら、信頼されるように頑張らなくては、と気を引き締めた。

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