ホローチョコレートの気持ち

心の中の引っかかりが無事に取れたうえに社長と愛を確かめあった週末は終わった。


「詩文さんが部屋にいるって言うのは、ちょっとおかしかったけど」


そのことを思い出して、私はクスクスと笑った。


社長のことだからタワーマンションに住んでいるんだろうな。


それで、スイートルームかあるいはそれ以上に広い部屋に1人で住んでいるんだろうな。


部屋の数に至っては、空いている部屋の方が多そう…。


そう思いながら、

「おはようございまーす」


いつも通りにオフィスに顔を出すと、いつもと空気が違うことに気づいた。


何かあったのかな…?


そう思って自分のデスクへ向かった時、松本さんがいないことに気づいた。


この時間だと、松本さんはとっくに自分のデスクに座っている。


寝坊でもしたのだろうか?


それとも、事件か事故に巻き込まれたのだろうか?


そう思いながらデスクに腰を下ろそうとした時、

「片山さん!」


パタパタとこちらに向かってくる足音がしたので視線を向けると、同期の森田さんだった。


何故だかよくわからないけれど、彼女は慌てた様子だった。


「お、おはようございます…」


そんな彼女の様子に戸惑いながらあいさつをしたら、

「松本さんが上層部に呼び出されたんです!」


森田さんが言った。


「えっ、えーっ!?」


松本さんが上層部に呼び出されたって…!?


朝から聞かされた衝撃的過ぎる事実に、私はどうすればいいのかわからなかった。


ああ、だからいつもと様子が違うのね…って、ツッコミを入れるところはそこではない。


「松本さんが呼び出されたってどう言うことなんですか!?」


私は森田さんに聞いた。


何かヘマをやらかしたとしか考えられないけれど、彼女の普段の様子からヘマをやらかしたと言う心当たりが特に何も浮かばない。


じゃあ、何で呼び出されたと言うのだろうか?


そう思っていたら、

「社長秘書と交際をしていたことが発覚したらしんですよ!」


森田さんが私の質問に答えた。


「しゃ、社長秘書ですか?」


松本さん、社長秘書とつきあっていたんだ…。


ああ、そう言えば彼氏がいるみたいなことを聞いたな。


「でも、どうしてそのことで呼び出されたんですか?」


社内恋愛は禁止だなんて聞いたことがないんだけど…。


そう思っていたら、

「それがですね…」


森田さんは声をひそめると、私の耳に顔を近づけてきた。


「松本さんと社長秘書がラブホテルから出てきたところを目撃した人がいたらしくて…」


「ええっ!?」


私は驚いて、森田さんの顔を見つめた。


ラブホテルって…いや、ちょっと待て。


落ち着こう落ち着こう落ち着こう…。


私も社長と一緒にラブホテルに入ったことがあるから、珍しくも何ともないぞ。


「それで2人が交際をしていたと言うことが発覚して、松本さんは上層部に呼び出されたと言う訳です」


森田さんが続きを言った。


「まさか、松本さんが社長秘書とつきあっていたとは思いもしませんでした」


森田さんはやれやれと言うように息を吐いた。


私も、松本さんの相手が社長秘書だったとは思ってもみなかった。


「社長秘書って、男ですか?」


そう聞いた私に、

「男ですよ、外山さんって言う名前だそうです」


森田さんは答えてくれた。


トヤマさん、か…。


「そうなんだ…」


社長秘書は女のイメージが強いから、てっきり女の人なのかと思っていた。


いや、男だからこの騒ぎなんだよね…。


「松本さん、どうして社長秘書とつきあっていたことを黙ってたんだろう?


やっぱり、財産目当てだったのかな?」


「ざ、財産目当て…?」


そんなことを言った森田さんに、私は聞き返した。


「ここだけの話、外山さんはかなりのお坊っちゃんらしいですよ。


父親は外交官で、母親は元女優なんだそうですよ」


森田さんが言った。


「みんな、噂してますよ。


松本さんは財産目当てで社長秘書とつきあってるって」


「それはないんじゃないですか!?」


そう言い返した私に、森田さんは驚いたようだった。


「あっ…」


1番驚いたのは私だ。


だけど、そんなことを噂されたことに我慢ができなかった。


思わず言い返してしまったけど、

「え、えっと…ごめんなさい」


私はすぐに謝った。


「そ、そうですよね。


片山さん、松本さんと仲がいいですもんね…。


そんなことを言われたら怒っちゃいますよね…」


森田さんは戸惑っていた。


「し、真剣におつきあいをしている2人を悪く言うのはよくないんじゃないかと思うんです…。


せ、聖人ぶるつもりはないですけど、そう言うのはあんまりじゃないかと思っただけで…」


何が言いたいのか、自分でもよくわからなくなってきた。


戸惑った様子で私を見つめている森田さんの視線に耐えられなくて、

「ご、ごめんなさい!」


私は躰を2つ折りにして謝ると、その場から立ち去った。


「ああ、片山さん!?」


森田さんが私の名前を呼んだが、私はそれを無視した。


今は自分の気持ちの整理をしたかった。


「――どうしよう、逃げてきちゃった…」


私が駆け込んだ先は資料室だった。


「松本さん、社長秘書とつきあってたんだ…」


たった今耳にしたその情報に、私は息を吐いた。


「結婚したいんだって、言ってたな…」


なのに、財産目当てだなんて悪く言われて…。


「好きだからつきあってるのに…」


同じような状況で、立場的にも似たようなものだから、そう侮辱されたことに腹が立った。


この間の昼休みに彼と結婚したいんだと言っていた松本さんを思ったら、私の胸が痛くなった。


息を吐きながら本棚にもたれかかると、

「痛い」


上から何が落ちてきて、コツンと頭に当たった。


バサッと足元で広がったそれは、ファイルだった。


私が本棚にもたれかかったせいでそれが落ちたみたいだ。


落ちたファイルを本棚に戻そうと手に取ったら、

「あっ、ホローチョコレートだ」


そこに入っていた資料に、私は呟いた。


ホローチョコレートとは、中が空洞になっている卵型のチョコレートだ。


人形、動物やいろいろな模型品が入っていて、人形や動物などさまざまな立体型を楽しむのだ。


中が空洞になっているのは、細かい部分が壊れない効果もあるのだそうだ。


資料が作成されたのは、10年前だった。


ファイルをめくると、さまざまなキャラクターの人形やアクセサリー――全てチョコレートの中に入れるものである――のデザインがあった。


社長と出会う前の私みたいだと、かわいいデザインのホローチョコレートを見ながら思った。


それまでの私はチョコレートが好きで、チョコレートが1番で、恋愛は2番目か3番目――いや、もしかしたら最下位だったかも知れない――だった。


チョコレートさえあれば、他には何もいらないと思っていた。


いつかは自分の好きなチョコレートに囲まれて、チョコレートのセレクトショップをオープンさせることを夢見ていた。


でも、社長に出会ってつきあっている今はもう違う。


もし社長に出会って恋に落ちることがなかったら、私の心はホローチョコレートのままだっただろう。


躰も心も、チョコレートで満たされればいいと今でも思っていたことだろう。


でも、それでは何もできないんだと言うことに気づいた。


躰があるから心があって、心があるから躰がある。


ホローチョコレートも、中身があるからその役割りを果たしている。


社長に恋をしたから、私の心と気持ちは成り立っている。


言い過ぎだとは自分でも思うけど、社長に出会って恋をしたから、私は満たされたんだ。


そう思った時、ガチャッと資料室のドアが開いた音がしてファイルから顔をあげた。


「あ、いたいた」


ドアから顔を出したのは、森田さんだった。


「あっ、えっと…」


ファイルを片手に戸惑っている私に森田さんは歩み寄ると、

「みんな、片山さんのことを探してますよ」

と、声をかけてきた。


「えっ…?」


みんなって、どう言うことだ?


「仲がいい松本さんのことを悪く言われて傷ついたから逃げたんだって、心配してたんですよ?」


そう言った森田さんに、

「…ご、ごめんなさい」


私は謝った。


「でも松本さんのことを悪く言われたことにも腹が立ちましたけど…それ以上に、おつきあいをしている2人のことを悪く言われたことが許せなかったんです」


呟くように、私は言った。


「松本さんが社長秘書の身分を知っていたのかは、私にはよくわかりません。


私も正直に言いますと、松本さんがおつきあいをしている相手が社長秘書だったとは思いもしませんでした。


でも、この間の昼休みに松本さんはいつかは彼と結婚したいと言うことを話していました。


そう語っている松本さんの顔は、満たされていました」


そう話した私に、

「“満たされていました”?」


私のマネをするように、森田さんは聞き返してきた。


「幸せそうだ、と言った方が正しいでしょうか?」


「ああ、なるほど」


私の答えに、森田さんは首を縦に振ってうなずいた。


「それで、あんなことを言っちゃったんですね?」


そう聞いてきた森田さんに、

「はい…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「本当にごめんなさい…」


呟くように謝った私に、

「いいですよ、私も言い過ぎました。


好きな者同士をそんな風に悪く言うのはよくないですよね」


森田さんは慰めるように返事をしてくれた。


「もう戻りましょうか?


みんな、心配していますよ」


「はい、本当にごめんなさい…」


手に持っていたファイルを本棚に戻すと、森田さんと一緒に資料室を後にした。


「そうだ、1つだけ聞いてもいいですか?」


資料室を出ると、森田さんが声をかけてきた。


「はい、いいですよ」


そう返事をした私に、

「片山さんって、もしかしておつきあいをしている人がいるんですか?」


森田さんが聞いてきた。


「えっ…は、はい?」


その質問に、私は戸惑うことしかできなかった。


いると言えばいるのだが、相手は社長である。


「わ、私はチョコレートが恋人みたいなものですね…」


そう返事をして、この間の昼休みみたいに笑ってごまかしたのだった。


「チョコレートが恋人…片山さんらしいと言えば片山さんらしいですね」


森田さんは納得したような、でも何だかしっくりこないと言った様子で返事を返した。


な、何ちゅーことを聞いてくるんだ…。


「でも、どうしてそんなことを聞いたんですか?」


まさか、どこかで情報が漏えいしているなんてことはないですよね?


私と社長が一緒に――基本は外にいることはないから大丈夫だとは思うけれど――いるところを見た、なんて言いませんよね?


「言っていることに筋が通っていたから、もしかして片山さんもと思ったんです。


でも違うんですか…。


うーん、残念だなあ…」


森田さんは参ったと言うように息を吐くと、頬に自分の手を当てた。


何が“残念だなあ”よ…。


正解過ぎて笑ってごまかすことしかできないですよ…。


そうこうしていたら、いつの間にかオフィスに到着していた。


「皆さん、片山さんが戻ってきましたよ」


オフィスに入ると、森田さんは全員に呼びかけた。


「おー、よかったよかった」


「片山さん、心配しましたよー」


「トイレで泣いてるのかと思いました」


みんなから声をかけられて、私の周りはこんなにも恵まれているんだと思った。


チラリと松本さんのデスクに視線を向けたけれど、彼女はまだ戻ってきていなかった。


上層部に呼び出された松本さんは、どうしているのだろうか?


そのことが頭の中を回ったけれど、

「すみません、突然逃げ出したりして…」


私は周りに謝ったのだった。


松本さん、上層部から“別れろ”なんて言われていないよね?


好きだからつきあっているのに、そんなことを言われるのは理不尽過ぎだ。


もし私が彼女と同じような立場で、周りから“別れろ”なんて言われたら耐えられないと思う。


社長のことが好きだから、つきあっているのに…。


同時に、私たちの関係はいつまで周りに秘密にしていればいいのだろうかと思った。


不倫をしている訳じゃないのに、私たちは隠れてコソコソと週末に会っている。


この前の大型連休のように明るい時間に会って、手を繋いで堂々と歩きたい…なのに、いつまで隠れてつきあわないといけないのだろう?


そもそも、隠れてつきあおうってどっちから言い出したんだっけ?


そう振り返ったけれど、私からも社長からもそんなことを言った覚えはなかった。


何となく、流れでそうなってしまったのかも知れない。


自分のデスクに戻って椅子に腰を下ろして仕事をしていたら、デスクのうえのスマートフォンが震えていることに気づいた。


何気なく手に取って確認をしたら、

「――えっ…?」


画面に表示されたそれに、私は目を疑った。


社長からの電話だった。


何でこんな時に…と思ったけれど、もしかしたら松本さんのことで何か言うことがあったのかも知れない。


社長からの着信で震えているスマートフォンをスカートのポケットの中に入れると、

「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます…」


そう言うと、早足でトイレへと足を向かわせた。


個室に駆け込むと、

「もしもし?」


ポケットからスマートフォンを取り出して、声をひそめて社長からの電話に出た。


「ああ、僕だ」


そう言った社長に、

「詩文さん…」


私は彼の名前を呼んだ。


「今、どこにいる?」


そう聞いてきた社長に、

「トイレにいます」


私は返事をした。


「なら、5分くらいなら大丈夫か」


社長はそう呟いた。


それくらいならトイレにこもっていても大丈夫かも知れない。


周りにはお腹が痛かったから、とでも言えば納得してくれるだろう。


「あの、それで…?」


そう聞いた私に、

「君の上司の松本瑛子マツモトエイコのことについてなんだが…」


話を切り出してきた社長に、私は身構えた。


「もしかして、“別れろ”と言ったんですか?」


そう聞いた私に、

「早合点するな」


社長は言い返した。


「“別れろ”とは言ってないが、処分を検討するとは言った」


「しょ、処分って…」


その中に、クビも処分の対象として含まれているのだろうか?


そう聞こうとした私に、

「聞くところによると、松本と外山くんは幼なじみだったらしいんだ」


話をさえぎるように、社長が言った。


「幼なじみ、ですか?」


私は聞き返した。


「松本と外山くんのお父さんは外交官で、よく家族ぐるみのつきあいをしていたらしい。


交際を始めたのは最近らしいけど、つきあいは子供の頃からあったんだそうだ」


社長が言った。


「そうだったんですか…」


松本さんのお父さんも外交官なんだ。


「でも、どうして隠れてつきあう必要があったんでしょうか?」


私は聞いた。


ある意味でも、それは私と社長に重なる部分がある。


「彼女を傷つけられたくなかったから…と、外山くんは言ってる」


「…そうですか」


「周りにバレると真っ先に傷つけられるのは彼女だから、守るために交際していたことを隠していた…からだそうだ」


「…はい」


松本さんのことを思っていたから、周りに交際している事実を隠していたんだ。


「あの…」


「何だ?」


「もちろんだとは思いますけど…そこのところもちゃんと視野に入れて、処分を検討するんですよね?」


そう聞いた私だけれども、社長は何故だか答えようとしなかった。


「も、もちろん、決めるのは社長ですよ?


私が意見を言おうなんて思ってないです。


意見を言って処分をどうこうしようなんて、そんなことはチョコレートのひとかけらも…」


答えを言おうとしない社長が怖くて声をかけたら、

「ひとかけらって何だよ、ひとかけらって。


と言うか、チョコレートって…本当に、君はチョコレートが好きなんだな」


社長がクスクスと笑いながら言った。


「だって…」


社長が何も言わないから…。


「それに関しては、後の重役会議で決めるから」


そう言った社長に、

「決まったら、どうなるんですか?」


私は聞いた。


「それは、これから決めることだから」


そう答えた社長に、心臓が握り込まれたのを感じた。


「そうですか…。


か、躰に気をつけてくださいね…」


私はちゃんと、社長に言えているだろうか?


「君も頑張り過ぎて倒れないようにしてね。


健康は本当に大事だから」


「わかってますよ、詩文さんが健康に自信があるって言うことくらい」


「おいおい…」


私たちはクスクスと笑いあった。


「ああ、約束の5分だ。


じゃあ、もうそろそろで切りあげよう」


「はい、お忙しいところをありがとうございました」


「うん」


着信が終わったことを確認すると、スマートフォンを耳から離した。


社長も、私を守りたいからと言う理由で関係を隠しているのだろうか?


本当のところはどうなのかはわからないけれど…。


周りがそうだから、自分もそうだと言うのは我ながら考え過ぎだ。


「処分を検討する、か…」


社長のマネをするように私は呟いた。


ふうっと息を吐くと、個室のドアから少しだけ顔を出した。


よし、誰もいないな。


この場に誰もいないことに胸をなで下ろすと、個室を出た。


念のため、他の個室も確認したけれど誰も入っていなかった。


社長と電話をしている間は誰かが入ってきたと言うことは特になかったけれど、もしかしたら気配を消して…と言うのは、ちょっと考え過ぎか。


「何か最近、考えてばっかりのような気がする…」


考え過ぎのあまり、そのうち熱が出るんじゃないだろうか?


処分に関しては社長に任せて、私は私で目の前のやるべきことに集中をしよう。


まだ新商品の企画すらも立てていない…。


忘れていたと言う訳ではないけれども、考えることがあり過ぎて後回しにしてしまったのだ。


まずは、そこから終わらせることに専念しよう。


そう自分に言い聞かせると、私はトイレを後にしたのだった。

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