思い出にシェルチョコレート
飛永さんに連絡しようかどうかと悩んでいたら、入社式当日を迎えた。
彼にだって仕事がある訳だから、連絡したって答えてくれる訳がないよね。
この出来事は、卒業後にいい思い出ができたと言うことにしておこう。
スイートルームに泊まることはおろか、行くこともない。
いい男に抱かれることはおろか、出会うこともない。
だから、いい思い出として残しておこう――と思った矢先に、今起こった出来事である。
まさか、就職先の社長だったなんて…!
一夜を過ごした相手が、抱かれた相手の正体が社長だったなんて…!
壇上で話をしている当の本人は、100人近くいる新入社員の中に私がいることに気づいていないみたいだ。
私が座っているところもどちらかと言うと後ろの方だから、顔は見えていない…と、心の底から信じたい。
うつむいて顔を隠して、話が終わるのを待った。
相手は社長で、私はヒラの新入社員だ。
何の肩書きを持っていないただの新入社員が社長と顔をあわせることはないだろう。
何かヘマでもやって呼び出されると言うことがない限り、社長に会うことはないだろう。
いや、それ以前にヘマをやるなと言う話である。
子供の頃からチョコレートが大好きで、夢への第1歩として、この『キルリア』に入社した。
面接で語ったチョコレートへの情熱が採用されて、働くことが決まったんだ。
ヘマをやるな、社長に呼び出されるな。
心の中で何度も言い聞かせていたら、入社式は終わったのだった。
『キルリア』は総務課と営業課、広報課と開発課と言うように4つの部署に分かれている。
その中で私が配属されることになったのは、開発課だ。
開発課には私を含める20人の新入社員が配属された。
私の指導をすることになったのは、入社5年目の松本さんと言う女性社員だ。
彼女は黒髪のショートカットが良く似合う人で、学生時代は水泳部に所属していたと言うこともあってかスタイルがとてもいい長身の美人だ。
「聞いたわよー、就職活動の面接時にチョコレートへの情熱を語ったんだって?」
指導することになったその日、松本さんはニヤニヤと笑いながら私の脇腹を肘でついた。
「エ、エヘヘ…」
笑った私に、
「チョコレートへの愛にあふれてる社員がやってくるって、密かに話題になってたわよ。
名前もココアちゃんと、チョコレートに関係しているし」
松本さんは言った。
「実は誕生日もバレンタインデーなんです…」
私が呟くように言ったら、
「えっ、最早運命じゃない!
チョコレートとは切っても切れない関係じゃないの!」
松本さんは感心しながら言った。
「頑張ってね、片山さん!
みんな、あなたのチョコレート愛に期待してるんだから!」
松本さんはポンと肩をたたくと、熱弁をするように言った。
「は、はい…」
それ以前にヘマをやって社長に呼び出されないように気をつけます。
キラキラと目を輝かせている松本さんを見ながら、私は心の中でそんなことを呟いたのだった。
入社してから今日で2週間目を迎えた。
その間に社長に呼び出されるのはもちろんのこと、ヘマをすると言うことは1度もなかった。
順調だ、我ながら順調に仕事をしているぞ。
初めての仕事で覚えることはいっぱいで、時にはミスをすることはある。
だけども、そう言う時は松本さんが優しくフォローしてアドバイスをしてくれた。
同僚とも何人か仲良くなって、まさに順風満帆な日々を送っている。
今日もいつものように昼休みを迎えた。
「片山さん、先にお昼に行っていいですよ。
私、まだ片づけなきゃいけない仕事がありますので」
隣のデスクで仕事をしている松本さんが言ったので、
「はい、わかりました。
ではお先に昼休憩に入ります」
私は財布を手に持つと、オフィスを後にした。
「さて、今日は何を食べようかな」
昨日は会社近くにあるカフェでサンドイッチを食べたから、今日はご飯系のものがいいかな。
元々社員食堂と言うものがあったらしいのだが、人出が足りなくなってしまったからと言うことで2年前になくなってしまったのだそうだ。
そのため、社員たちは会社近くのコンビニや店でお昼ご飯を食べているのだそうだ。
社員食堂がないのは残念だけど、人手不足となったら仕方がない。
「さて、今日は何を食べ…んっ!?」
後ろから口を塞がれたと思ったら、躰を羽交い絞めにされた。
「んんんーっ!?」
塞がれている口を首を横に振って払おうとするが、できなかった。
躰を羽交い絞めにされたまま、私は引きずられるようにどこかへと連れ込まれてしまった。
資料室だった。
その中に入ると、ようやく塞がれていた口と羽交い絞めにされていた躰が解放された。
「――やっと会えた…」
聞き覚えのあるテナーの声に視線を向けると、
「――しゃ、社長…」
飛永さん――じゃなくて、『キルリア』の社長だった。
な、何でこんなことを…?
突然のことに戸惑っている私を社長が抱きしめてきた。
「あ、あの…」
「会いたかったよ、心愛」
ドキッ…と、私の胸が鳴った。
でも、
「社長、ここは会社です。
それ以前に、私は平社員でして…」
そう言った私に社長は抱きしめていた躰を離すと、
「君は、僕に会いたくなかったのか?
僕はこんなにも君に会いたかったのに」
私を見つめると、社長は言った。
私だって、あなたに会えるものならば会いたかった。
「連絡がくるのをずっと待ってた。
君から会いたいと言ってくれることをずっと待ってた。
でも君は会いたいと言ってくれることはおろか、連絡だってくれなかった」
「…それで、私が1人になったのを見計らって」
「本当に悪いことをしたと思ってる。
でも、そうしないと君は僕に会ってくれないと思ったから」
社長は私の頬に手を触れると、
「――心愛…」
いつくしむように私の名前を呼んで、顔を近づけてきた。
「――や、やめてください…」
私は顔をそらして逃げた。
「どうして逃げるんだ?」
「だって、社長は社長で、私は…」
「僕は社長じゃない、飛永詩文と言う名前の人間だ。
それに、君がここの社員であることはもうずっと前から知っていた」
そう言った社長に、
「えっ、知っていた?」
私は聞き返した。
あの日に出会った時に、私は『キルリア』の社員だって言ったっけ?
…いや、違う。
名前は名乗ったけれど、社員だと言った覚えはない。
それに社長と出会ったその日は3月で、まだ学生だった。
「最終面接の時、そこに僕がいたんだ」
「そ、そうなんですか…?」
そこでも同じようにチョコレートへの愛を語ったことは覚えているけれども、面接官が誰なのかはよくわからなかった。
私の記憶違いじゃなければ、面接官は3、4人いたような気がする…。
「その時から僕は君のことを知っていた。
情熱的にチョコレートへの愛を語る君を見て、僕は好きになった。
いわゆる、一目ぼれって言うヤツだな」
社長は照れくさそうに言うと、人差し指で頬をかいた。
「これでも、君は僕から逃げると言うのか?」
そう言った社長の顔が近づいてきて、
「――ッ…!」
唇が重なった。
あの日に社長と出会って、社長にキスされて、社長に抱かれた思い出が頭の中によみがえる。
「――んっ、んんっ…」
ジン…と、躰の中が熱くなる。
角度を変えられて、浅く深く、何度もキスを繰り返される。
「――心愛…」
私の名前を呼ぶ社長の声に、心臓がドキッ…と鳴る。
ここは会社で、相手は社長だ。
キスを繰り返されるたびに、私の中の理性が1つ、また1つと消えて行く。
「――ずっと君に会いたかった…」
私もあなたに会いたかった。
「――大好きな君に会えなくて、寂しかった…」
私もあなたが好きです、だから会いたくて仕方がなかった。
「――心愛…」
社長の手がスカートの中へ入ろうとした時、アラームの音が聞こえた。
えっ、何?
「しまった、タイムリミットか…」
社長はスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、息を吐いた。
「今から次の仕事か…」
社長は残念そうに呟いた後、私に視線を向けた。
「僕のアドレスは知っているよな?
君が手紙を捨てていなければ、僕のアドレスはわかるはずだ」
「は、はい…」
あなたがくれた手紙を捨てる訳ないじゃない。
アドレスだって、ちゃんと登録してあるんだから。
「空メールでも構わないから送ってくれ。
僕は君のアドレスを知らないんだ」
社長は私の頭をなでると、
「じゃ」
そう言って、資料室を後にした。
バタンとドアが閉まった瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
「――な、何なの…」
熱くなってしまった躰が浅ましくて仕方がない。
ただ、キスされただけなのに…。
自分がこんなにもやらしい女だったなんて、知らなかった。
遅れて資料室を後にした私は会社近くのコンビニでハムサンドとレモンティーを買った。
我ながら少ない昼食だけど、食べることができる自信がなかった。
半ば強引にハムサンドとレモンティーを胃に押し込むと、息を吐いた。
昼食を済ませると、シャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
電話帳から社長のアドレスを出すと、メールを作成した。
このままメールを送れば、彼は私の連絡先を知ったことになる。
「もう、逃げられないんだ…」
私が社長から逃げれば、私が社長を避ければ、大丈夫だと思っていた。
そう思っていたから、入社してからの2週間を大人しく過ごしていた。
だけど、1人のところを見計らって社長に資料室に連れ込まれた時に思った。
私が逃げても、私が避けても、社長は追いかけてくる。
追いかけて、社長は私のことをつかまえる。
「――思い出のままで、終わりたかったのにな…」
チョコレートを型に流し込んで殻(シェル)を作って、その中にクリームやジャム、ナッツ類、フルーツ類を入れて、さらにチョコレートで蓋をする――あの日の思い出も、シェルチョコレートのように蓋をして閉じ込めたかった。
でも、もうできなくなってしまった。
スマートフォンの画面を指でタップして、社長にメールを送信した。
社長は私のことが好きで、私も社長のことが好き――その気持ちを改めて思い知らされた。
あの日に出会って恋をした時点でそうなっていたんだ。
もし社長と出会わなければ、社長の手を取らなければ、今は違っていたのかな?
ただの社長と新入社員として接することができていたのかも知れない。
「――ああ、もうお昼が終わるな…」
息を吐きながら呟くと、食べ終わったハムサンドとレモンティーを近くのゴミ箱に捨てた。
昼休みに送った空メールが届いたことに気づいたのは、仕事が終わって会社を出た後だった。
当分は定時で帰れるそうなので、この日も定時で仕事を終わらせてもらった。
会社を出てスマートフォンを取り出した時、画面がチカチカと点滅していることに気づいた。
「あ、社長からのメールだ」
新着メールを指でタップすると、社長からのメールだった。
『メールありがとう
これで君のアドレスを知ることができたよ
今週の金曜日は大丈夫そうかな?
その日の20時に『エンペラーホテル』で待ってるから』
今日は水曜日だ。
約束の金曜日は明後日だ。
「『エンペラーホテル』…」
初めて会ったその日に社長と一緒に入った、あの“セレブご用達”の高級ホテルだ。
「逃げる訳にはいかないよね…」
例え逃げたとしても、社長は私をつかまえる。
スマートフォンをカバンの中に入れると、私は深呼吸をした。
「何か起こってくれないかな…」
明後日の金曜日は日本全国の交通機関がめちゃくちゃになってくれないだろうかと思いながら、私は家へと足を向かわせた。
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