第25話 蘇る記憶の断片1 「私はそう思わない」
今度こそ夢ではない。現実のローラだ。
僕の腕のなかの、弾力に富む身体のぬくもり。唇の味。指に触れるサラサラの黒髪。
それだけでも喜びで胸がはちきれそうなほどなのに、痺れる頭の中にいくつもの情景がどっと流れ込んでくる。
閉じた瞼の裏に、夢より鮮やかなローラの姿。
たとえるなら美酒のあふれる滝の真下にいるような……いや、もっと素晴らしいものを味わっているのだ。
酒は飲めば減るが、記憶はずっと残る。
* * *
深い森のなか。
僕は血塗れで、目に見えない網に囚われたように空中に浮かんでいる。
艶やかな黒髪の乙女が僕を見下ろしている。
睫毛の長い、輝く瞳で。
もちろんローラ、君のことだ。
「あなたは誰? 何故ここに来たの?」
この問いに「記憶の中の僕」がどう答えるか。せめて自分の名前くらいは知りたい。
けれど「僕」は森に来た理由しか答えなかった。
「……死ぬつもりで来たんだ……」
記憶のなかの君はとても不思議そうな顔をした。
「僕」は君の美しさに我を忘れて見惚れ、死にたかったことも多分忘れた。
僕たちがいたのは崖下にある横穴の中だった。
上の崖から僕が落ちてきた時、得体の知れない落下物が転がって来ないように、君は結界を作って受け止めたのだった。
そして僕を一応信用して地面に下ろした。
横穴といっても、湿っぽくなく、腰掛けるのに丁度良い石も、柔らかな落ち葉の積もった所もあって居心地が良い。
君は僕の傷を魔法で治してくれていた。
呪文も道具もなく、ただ傷口にそっと触れるだけで痛みが和らぎ、傷が塞っていく。
魔術の知識の全くない僕でも、これは凄いことだと分かる。
しかも、この時の「僕」は、ローラの膝に頭を乗せて横になっていた。
「有難いなあ。僕みたいな何をやっても上手くいかない奴にはもったいない幸せだよ」
君の顔を見ようとして上を向こうとしたら、何かに遮られて見えなかった。それが君のおっぱいだと気づいて目のやり場に困り、また横を向いた。
太ももの感触が悩ましい。
「何も上手くいかなかったら、死ななければいけないの? 私はそう思わない……」
それはそうだろう。
君のことを「僕」はよく知らない。
とびきりの美しさと魔力しか知らない。
それだけで、たとえほかに何もなくても君は強者だ。死にたくなるような境遇にいる者の気持ちは分からないだろう。
けれど嫌味には感じなかった。甘く優しい声が、ただ心地良い。
しかし続く言葉は意外なものだった。
「私を知っている人はみんな、私をきらいなの」
こんなに美しく優しい人に、そんなことがあるのだろうか。
ただ一つ考えられるのは、嫉妬だ。けれどそれは誰かしらの好意があってのことなので、みんなから嫌われていることにならないだろう。
どういう事だろうか。
「私はローラ・ジュゼット。北都の王の隠し子。黒森城で生まれたの」
「僕」は飛び起きた。傷が痛いがそれどころではない。
「では、ローラ姫様⁉︎ なんて畏れ多い……。」
隠し子を姫と呼ぶべきかどうか知らないが、僕が跪くのは王家ではなく君だ。
「姫様はやめて頂戴。ローラでいいわ。私を蔑ろにした家なんてどうでもいい」
「……ローラ……」
君は手招きしながらもう片方の手で膝をぽんぽんと叩いた。
まだここに横になっていなさい、と言うみたいに。
治りきらない傷を気遣ってくれているのか、身許を知って態度を変えてほしくないのか。両方だろう。
「僕」は再び君の膝に頭をのせた。
心臓が早鐘のように脈打っておさまらない。
「何でこんなところに……。ここは自殺の名所ですよ。ご兄弟とは仲良くないのですか」
家のことはどうでもいいと言われたばかりだが、他に何を話せばいいのか分からなかった。
「あら、そうだったの……」
自殺の名所のことは知らなかったらしい。
また話し始めるまでに少し間があった。
「兄弟なんてね、私の存在さえ知らなかった。そういう風にしてしまったの。お父様やその家臣や……いろんな人たちが。
会っても喜ばなかった……まだ全員に会ってないけど……悲しくなって出て来てしまったの」
親兄弟に疎まれるのは辛いだろうな。でもこれから家族にこだわらず新しい知り合いを増やせばいいと思う。
僕とか。僕とか。僕とか。
「知ってる人はみんな私を、生まれて来なければよかったと思っているの。
でも私は生きたい。
星空を見たい。
風を浴びたい。
せせらぎを聞いていたい。
そして、いつか……私を好きになってくれる人と出会いたい……」
「僕」の心臓は速度を上げた。
「僕は、君を……」
このときは好きだと言えなかった。
拒絶されたら立ち直れないだろうから。
だけど……。
「君を好きになる人が、必ずいるよ……」
それは僕だと!
「僕は……君に会えて……」
言え!
「……やっぱり生きようと思うんだ」
「良かった!」
君はとても嬉しそうに笑った。
君がこんな笑顔になれるなら、それだけでも僕は生きることを選んで良かったと思う。
(続く)
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