終章 最期の手記



 もはや語ることはあまり多くない。

 

 そのあと私は千鶴の遺体を背負って彼女の家へと戻り、千景の隣に彼女を横たえた。千景もまた、微かにあったはずの呼吸も脈もすでに失われていた。

 二つ並んだ亡骸を見つめていると、ふいに悄然たる思いが込み上げて来て、私は声を殺して泣いた。

 

 翌朝、帝都の兄に連絡を取った。

 あとのことは全て兄がやってくれた。私はただ呆けていただけだ。

 どのように手続きを済ませたのか、千景と千鶴の遺体は大洗のある寺に葬られた。決して大きくはないが立派な墓で、二人を夫婦として共に弔ったのは、兄なりの心遣いであったろう。

 

 

 その翌年の大正十二年九月一日、あの関東大震災が発生した。

 帝都は何もかもが焼け、崩れ落ちてしまった。死者、行方不明者は約十万人を超える、未曾有の大災害であった。

 焼け跡には瓦礫と共に大勢の被災者が放り出され、バラック小屋が所狭しと建ち並んだ。

 幸い麻布の高倉家本邸は焼失せずに済んだので、兄の命令によって邸宅の敷地が被災者に開放され、炊き出しを行い、怪我人の手当てに努めるなど、救護活動に尽力したことは一族の名誉のためにもここに記しておきたい。


 やがて復興が始まり、震災から約半年後には焼け跡にビルが建ち並び始め、池袋などの郊外には簡素をモットーとする文化住宅が広がって行った。

 古いものは姿を消し、街の景観も、人々の暮らしも、何もかもが様変わりしてゆく。

 そして大正十五年十二月、先帝陛下がお隠れになり、昭和の世が始まったのである。


 しかし変わりゆく時代から取り残されるように、私は自身の健康を害して行った。

 原因不明の病に侵され、寝込むことが日増しに多くなり、なんとか高等学校は卒業したものの、その後の進学は諦めざるを得なかった。

 入退院を繰り返し、医者にも匙を投げられ、やがて療養も兼ねて大洗に越して来たのが、昭和四年の春のことである。

 

 私はもうじき二十五歳を迎えようとしていた。

 かつて千景が住んでいた所からほど近い、海の見える高台に、兄に頼んで小さな家を建てて貰い、身の回りの世話をしてくれる使用人と看護婦を一人ずつ雇った。

 この頃、私はすでに自身の健康の回復を諦めていた。残された命がいつ尽きるのか分からないが、その早過ぎる晩年を、千景と千鶴の墓守りになるようなつもりで、私はこの大洗にやって来たのであった。


 

 私が大洗に越して来る少し前、磯前神社の近くに、立正護国堂りっしょうごこくどうという日蓮宗の寺が建てられた。お堂は小さいが、同じ敷地に建つ朱塗りの三重の塔が、如何にも見栄えする寺である。

 地元の鉄道会社が観光客誘致のために建てたものだが、そこの住職である井上日召いのうえにっしょうという和尚が大変な評判であった。

 なんでも加持祈祷であらゆる病気を治してしまうのだとか。日照りに困った農民の頼みで、雨を降らせたという話もある。噂を聞きつけた人々が連日押し寄せ、狭いお堂はいつも参詣者で溢れていた。

 私も使用人や看護婦に勧められ、護国堂に行ってみることにした。加持祈祷による病気治癒などまるで信じていなかったが、多少の気休めぐらいにはなるだろうと思ったのだ。

 

 住職の井上日召は剃髪に口髭を蓄えた四十代前半ぐらいの男で、大きな丸い目で人をギョロリと睨み、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。

 初めて対面したその日、彼は私の姿を見るなり、「あんた、魂の半分をどこかにやってしまったかね」と尋ねて来た。

 「見なさい。影がだいぶ薄くなっている」

 日召に促されて足下を見ると、床板に映る私の影は他の人々に比べて半分ほどの濃さしかないのだった。

 驚くべきことに、私はその事実にこのとき初めて気が付いた。そして自身の原因不明の病の理由に、ようやく思い至ったのである。

 「いくら住職の祈祷といえど、影の病は治りますまいね」

 そう尋ねると、日召は静かに頷いた。それは否定とも肯定とも付かぬ仕草であった。

 「ともかく一心にお題目を唱えなさい。あとのことは、天の意思に任せる他はあるまい」

 私は他の参詣者たちに混じって、ひたすらに何妙法蓮華経を唱えた。すぐさま病が癒える訳ではなかったが、鉛のように重かった身体がずいぶん楽になったのは事実である。


 その日から私は足繁く護国堂を訪れるようになったのだが、しかしそこも次第に様相が変わり始めた。

 日召が政治運動に熱心だったためか、地元の青年たちが徐々に増え始め、「国家改造」や「革命」などという言葉が頻繁に飛び交うようになったのだ。

 世にいう昭和の大不況で、それは農村部などの最も貧しい人々を直撃した。

 東北地方を中心に農漁村の欠食児童が約二万人といわれ、農民たちは米を作っても自分で食べることも出来ず、地主への小作料や作物の肥料代、さらに重い税金に苦しめられていた。困窮に立たされた彼らにはその日の食糧すらなく、木の実や草木の根っ子を常食にして飢えを凌ぎ、大根やサツマイモはもはや最上級のご馳走だったのである。

 年頃の娘を売る家はまだ良い方で、発狂した農夫が妻子を惨殺したり、一家心中を行ったりする悲惨な事件があとを絶たなかった。

 経済恐慌の激化は都市部に大量の失業者や浮浪者ルンペンを生み出し、資本家と労働者の対立は次第に階級闘争の様相を帯び始めた。労働争議や小作争議が各地で頻発し、それは体制変革を求めて次第に尖鋭化して行った。

 

 護国堂に集まったのも、そうした社会や政治に深刻な不満を持つ若者たちだった。しかし「あの連中は社会主義者アカだ」という噂が流れ、いつしか人々は護国堂に寄り付かなくなった。

 私もまた華族の身内だという話がどこからか漏れ伝わったらしく、青年らの視線に鋭い敵意を感じるようになり、護国堂に通うその足も次第に遠退いてしまった。

 それから間もなく、海軍の青年将校らが護国堂に出入りしているという焦臭きなくさい噂を聞くようになった。

 前大蔵大臣、井上準之助いのうえじゅんのすけと、三井合名理事長、団琢磨だんたくまの相次ぐ暗殺。彼らが井上日召の指示の下に「一人一殺いちにんいっさつ」を掲げ、いわゆる「血盟団事件けつめいだんじけん」を起こしたのは、それから僅か三年後の昭和七年、二月から三月に掛けてのことである。


 時代は急坂きゅうはんを転がるようであった。

 満州事変の勃発や青年将校らの反乱。政党政治は経済不況に対する無策と、政争による足の引っ張り合いや財閥との癒着、腐敗により国民の信頼を失い、代わりに軍部が台頭する。

 そして昭和十二年(一九三七年)七月七日の支那事変を以て、日本は長い大東亜戦争に突入して行ったのである。


 この戦争の詳細については、今さらくどくどと書き記す必要もあるまい。

 次第に悪化してゆく戦局の様子を、兄から密かに伝え聞くようになった昭和十九年の秋、塚本良雄が久しぶりに大洗の私の住まいを訪ねて来た。この年、私たちは四十歳になっていた。

 ベッドの上に上体を起こした私に、塚本は「ずいぶん痩せたなぁ」と少し寂しそうに笑った。

 病に臥した私から、かつての友人たちは皆、離れて行った。もはや友人と呼べるのは、この塚本ただ一人である。彼は帝国大学を中退したあと、様々な職業遍歴を経て、探偵小説や怪奇小説を書く作家になっていた。

 「俺のところにも、とうとう赤紙が来たよ」

 まるで時候の挨拶でもするような調子で、彼はそう言った。

 「こんなくたびれた中年男まで戦場に駆り出すようじゃ、我が皇国もいよいよジリ貧らしい。戦地には来週発つ。だからその前に、貴様の顔を見ておこうと思ってな」

 「・・・・すまない。自分一人ばかり、お国のために何の役にも立てず」

 「気にするな。貴様が悪い訳じゃない」

 それから私たちはあえて時局には触れず、学生の頃の思い出や、つまらない世間話に耽ったのだった。

 

 やがてふと、塚本が真顔になった。

 「なあ、桃園モモで、俺と影の病について話をしたことを覚えているか?」

 私は黙って頷いた。

 「影とは人間の魂の暗喩だと、俺は言った。しかしその一方で、影とは無意識下に抑圧された様々な欲望や情念の集合体でもある。今度の世界大戦は・・・・いわば影の反逆だよ。その影は単なる個人だけのものじゃない。民族や国家がその歴史において形成して来た集合的な無意識だ。そして近代が科学的思考や合理主義の名の下に抑圧して来た、神話や伝承やオカルティックな精神性を含む影の世界だ。近代的自我の足下の地層には、忘れられた太古の神々が眠っている。その神々が目を覚まし、いままさに暴虐の限りを尽くして世界を焼かんとしているのさ」

 私は黙って頷きつつ耳を傾けた。思えば彼の講釈を聞くのも久しぶりだ。

 「この業火は全てを焼き尽くすぞ。信仰も愛も、ささやかな慈しみも、あらゆる正義も信頼も友情も美も、全てを燃やし尽くして灰にしてしまう。あとに残るのは、いわば人間性の残骸だ。そうして焼き尽くされた世界で人々は、もはや最も身近な隣人ですら、今までのようには信じられなくなるだろうよ」

 一通り語り終えると、塚本はニヤリと笑い「互いに命があったらまた会おう」とだけ言い残して帰って行った。

 彼の不吉な予言が果たしてどれほど正鵠を射ていたか、もはや私に知る術はあるまい。



 

 私は今、小さな洋燈ランプの灯りの下で、この手記を書いている。

 終戦から三ヶ月が過ぎた、昭和二十年十月二十一日。窓から臨む穏やかな海の向こうに、あの日を思わせる満月が静かに輝いている。

 私の手許に残されたのは、もはや過去の思い出ばかりだ。

 おそらく私は、そう遠くない時期に死ぬであろう。何も成すことのなかった人生が終わりを迎えようとする今、何故か未練も後悔もなく、心はこの海のように不思議と穏やかである。

 戦争に敗れ、日本は焦土と化したが、それすらもどこか遠い世界の出来事のようだ。


 せめてもの遺書代わりにと紡いで来たこの物語も、いよいよ終わりを迎える。

 私は満月を見上げる。茫漠たる夜の静寂しじまを蒼く照らして輝くそれは、いと高き女神の崇高なる威厳に満たされて、あらゆる万物はその足下に跪き、深くこうべを垂れているかのようであった。


 ───世界は美しい、と私は思った。


 この美しさに比べれば、地上に蔓延する有象無象の悲劇など、しょせんは些細な出来事に過ぎない。

 あらゆるものの上に等しく訪れる、この天上の美こそが唯一の真理であり、それだけが神の祝福である。


 そしてあの日、天上の女神に導かれるようにして抱き合い一つに溶け合いながら、月世界へと昇天して行ったあの二人こそは、この世で最も幸福であったのだと、今ではそう思えるのだ。



                

                 (完)

 

 

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月光症例 ~或いは影の昇天~ 月浦影ノ介 @tukinokage

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