放浪鯨はどこへゆく

そく……なんだって?

 大翼を広げた魔獣が風をきって襲いかかる。4人の傭兵を丸ごと包むような巨大な姿に動揺が走った。しかしひとりとして武器を捨てて逃げ出す者はいない。


 魔獣は一人に狙いを定める。鋭い眼光に捕らえられたとわかっても、男は一歩としてたじろぐことはない。ただ左手の皮の盾を正面に構え、右手のハルバードで刺突姿勢をとる。


 猛禽類が肥大化したその魔獣の体には、茶と黄色の体毛が模様をなしている。その只中から黄色い組織がかすかに見えた瞬間を傭兵は見逃さない。魔獣が爪を伸ばすために体勢を変えれば、もはや大きな軌道修正は不可能だ。


 ガッ!


 魔獣と傭兵が交錯した。

 一帯を押さえつけるような風圧が砂粒を巻き上げる。


 傭兵の体が浮いて弾き飛ばされる。転がって衝撃を抑えるが、その手には盾もハルバードも握られていない。それでもその傭兵は拳をついて立ち上がる。


 魔獣が叫び声をあげる。その声は男が叫んだような気味の悪い低い音だった。翼を激しく動かして上昇する魔獣の爪は傭兵の盾を掴んでいる。そしてその付け根にハルバードが突き刺さり、傷口が緑に淡く輝いている。


「おいおい、俺の盾返せよ……」


 傭兵の視線の先で、盾が森へと落ちていく。魔獣の爪が盾を放しただけで、その想像を絶する速度が盾を彼方に飛ばしてしまったのだ。魔獣は空中でなおも身を翻して、弱った標的の位置を確かめようとする。


 その姿勢に残る4人が隊列を変える。


「レコは右をやれ! マルクス! こいつでもう一発耐えられるか!?」


 長髪の男の鋭い指示が飛んだ。男は返事を待たずに盾を失った傭兵に円形の盾ラウンド・シールドを投げる。


「やるしかないんでしょう?」


 およそマルクスの意思など無関係に戦場は展開する。ベルトに腕を通さず、再び握りだけを持って構える。相手に盾だけを掴ませれば弾き飛ばされるだけで済むのだ。

 一方、レコと呼ばれたツノ飾りの兜の傭兵がその背で薙刀グレイブを構えた。その顔は鉄の仮面で隠されているが、その体は他の傭兵に比べればわずかに細い。


 魔獣は再び降下を始める。翼をたたんで加速すると、低空で翼を広げる。


「3、2、いけいけいけ!」


 カウントすらままならない速さにも、傭兵たちは指示通りに走り出す。マルクスが盾を構えた左右に一人ずつが駆け出し、長柄に刃のついた薙刀グレイブを頭の上に掲げる。


 ゴッ!


 鈍い音がほとんど間をおかずに二つ鳴る。マルクスの視線の先にはバランスを崩しながらも鋭い目でマルクスを睨む魔獣の姿がある。その爪は見えない。


「ちぃっ!」


 マルクスはとっさに右に飛びのく。骨を断たれて力なく垂れていた翼がその体を直撃し、再びその体は跳ね上げられた。


 どういう形で空中に放り出されたのかはわからなかったが、マルクスは地面が近づいてくる様子だけははっきりと知覚していた。全身の筋肉を使って受け身の姿勢を取る。


 背中に強い衝撃があって、続いて身体中が引っ搔き回される痛みが続く。両腕は体に引き付けた盾のおかげで無事だ。


「生きてるか!? トドメを刺すぞ!」


 斧を持った最後の1人が、地に落ちた魔獣に駆け寄る。魔獣は再び男が叫んだような不吉な鳴き声をあげた。


「死んでたほうがマシだったぜ、畜生」


 血と土の混じった唾を吐く。岩で打ちでもしたのか右膝がうまく動かなかったが、骨折ではないとわかると無視して足を引きずって歩き出す。


「ペーテル、俺のは刺さってるか?」


 斧が魔獣の頭蓋を砕く。その光景を見慣れない人間であれば、それは残虐な光景でもあった。なおも緑に輝くその傷口から斧を引き抜くと、ペーテルと呼ばれた男は魔獣の体を蹴る。しかし巨大化した魔獣は人間一人の蹴り程度ではその体を横たえることはない。


「見えねぇな。バラしてかンだ」


「ちっ」


 渡されていた盾を指揮官に投げ返す。


「全部買い直しか?」

「だろうな。探しに行ってはくれないんだろ?」


 マルクスは石の上に腰を下ろして傷を確かめる。両腕は打ち身で済んでいるが、右足は石で切ってしまったようだ。


「この辺に川があったか? 傷口を流したい」

「……少し遠いな。済んだらだ」


「ちっ」


 やむなく会敵時に放り投げた荷物から水袋を取り出す。中に入っているのは、水といっても保存用に薄めた酒だ。袋を押して傷口に浴びせると、ヒリヒリと痛む。


「それにしても多いよね」


 ツノ兜のマスクを外したレコは汗を拭う。その屈強な体に似合わず、その顔にはヒゲもないほど幼い。


「多いな。やっぱり呪われてんだろう。場合によっちゃ、がよそ者を追い返そうとしてるのかもな」


 マクシミリアンたちは、初めにこの地域に移住した3家族に同行して以来、すでに7匹の魔獣を撃退している。いくら僻地とはいえ、その発生頻度のあまりの多さに村民たちの出費も限界を迎え、今や設置されたばかりの区教会の支払いで仕事をする状態だ。


「金が儲かりゃいいデ、ニュークラウクに帰りゃ死ぬほど飲めンだ」


 斧を持った男はヒゲに血を滴らせながら笑う。魔獣の返り血が残るということは魔獣は死んだということだが、男は執拗に斧で魔獣の亡骸を粉砕していた。


「帰れればね」


 ため息交じりのレコは薙刀グレイブを検めて血が残っていないことを確かめる。


「それなんだがな、マルクス」


「戦闘時以外はと呼んでくださいよ隊長」


 マルクスは悪態をつく。自分も水を一口煽って吐き出す。

 彼の本当の名前はマクシミリアンだった。しかしヒューティア王国の人々にとってその長ったらしい声を刻んだような連続の母音は発音しにくい。


「すまん、マークミラーン……」

「で、なんだって? 軍でも使うのか?」


「いや、を使うらしい」


「そく……なんだって?」


 聞き慣れない言葉にマクシミリアンは揃えて眉をしかめる。


「知らないの? 地図作る人らしいよ。王国技術官」


 レコが補足しても、もとより異国人のマクシミリアンにわかるわけもない。


「なんだそりゃ。地図作って何になるんだよ」


 その場にいた全員が答えを持たなかった。指揮官でさえも、実は測量士が何をする人物なのか、正確なところを知っているわけではなかった。


「あンだな、だな」

「そういうものだろう、地勢読みだな。いいぞペトリ」


 5人の名前の呼び方はほとんど他人にはわからないほど混乱していた。実のところ当の本人たちも、それぞれ自分には3つほどの名前があると考えるようにもなっていた。


「地勢読み? じゃあ占い師か。ヒューティア人もあんがい適当だな」


「マークスミー、お前ンだ」


 血と肉と油でベトベトになったハルバードが放られて転がる。もはやその血液が緑の光を放って消滅することはない。つまり魔獣は死んだということだ。


「あー……やっぱり川行きましょう隊長。サビちまう」

「……魚まで魔獣になっていないといいがな」


 各々の荷物を拾い上げるのを確認して、隊長は歩き始める。まるで近所の公園を歩くような足取りで、無秩序な茂みを進む。屈強な4人の戦士はその後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイリ・コッコの描いた地図 早瀬 コウ @Kou_Hayase

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ