たぶんダメです!

 その計画を実行するには、結局3日はかかってしまった。だからアイリはそれまでの2日間を調査結果の説明に費やした。そうした調査は最終的に断層崖だんそうがいが集まる一角にたどり着く。

 そこに向かったとき、アイリの馬とエンシオの馬はロープでつながれていた。デュオプトラの代わりに運ばれていたそれは海軍から借りてきたものだった。2日前には必要性を予感してエンシオを通じて依頼していたが、結局手配には4日もかかってしまった。


 断層崖だんそうがいは、この辺りでは最も大きなものだった。領地の端に広がった山脈地帯と接する一角は、最も断層亀裂が密集する地帯でもある。その複雑な褶曲しゅうきょくから言って、たとえ鉱脈が見つかっても掘削くっさく容易よういではないだろう。


「こちらに縦穴を作ります。しかるのちに重りをつけたこのロープを下ろしてその深さを測ります」


「なぜここに?」


 アイリは目の前の断層崖を指で削った。その表面は岩というよりは土であり、ぼろぼろと崩れ落ちる。


「この辺りの砂はガラス質の火山灰層ですの。そしてあちらの……」


 伸ばした手を辿ると、その指先は山の中腹に突出した拳のような赤い岩を示していた。


「あちらの岩は風化した花崗岩かこうがんの姿かと。褶曲しゅうきょくして山地となり、火山灰層が流れ落ちて花崗岩かこうがんが残っているのでしょう」


 続いてアイリは足元を示した。


「終局の状況を判断すると、おそらくこちらに魔法で穴を掘れば、この崖をあの岩まで登らずとも、あの岩の層にどれほどの魔原石が含まれるか調べることができます」


「……なぜわかるのですか?」


「そうですね、ご説明しなければ」


 アイリは一つ咳払いをする。実を言えば、岩石や地質の調査に比べれば魔法の知識は少なかった。今から使おうとしている魔法も、新大陸出発前に急ごしらえで記憶したもので、実際には一度も使ったことはなかった。


「魔法で穴を掘るとき、古代神話言語で穴の深さを決めることができますわ。ただ、この長さはいつもその通りにはなりませんの。地中の魔原石が多ければ多いほど、魔力が増幅ぞうふくされて穴が深くなってしまいます」


「わかるような、わからないような話ですね」


「それがどれだけ深くなるかを見たいのです。本当に深い穴が空いてしまいますけれど、それはお見逃しいただけるかしら?」


 アイリは腰のポーチから特別なインク壺を取り出す。せんだけではなく厳重にひもで巻いて押さえつけられたそれは、一見すればただの黒インクに違いなかった。


「これが魔材インクですわ。まだ新大陸では手に入らないもので、ここにある分だけしか使うことはできませんの。そして今日使う量だけで……金貨ひとつには」


 これを買った時のことを思い出す。魔法を一番簡単に使える方法を模索もさくして、古代神話言語の記述を覚えれば良いとわかったあと、魔術品店に急いで向かったアイリは、その魔女が要求した価格に1分ほど硬直し、1度店を出て、3日悩んだ挙句あげくに、借金をして購入した。今も彼女の賃金がわずかに少ないのは、その借金の返済にあてるよう本局に依頼しておいたからだった。


 その代わり、アイリはインクの使用を仕事上必要なときにしぼることにした。そしてその実費をすべて経費で回収しようと決めたのである。


「ですので、ご同意いただけなければ使いません。それに辺境伯ご自身にお尋ねするにも往復で1ヶ月はかかりますし、ご費用はおそらく……」


「私が持つことになるというわけですね」

「はい……」


 マティアスはあまり考える時間すら挟まなかった。


「エンシオ、問題ないか?」

「ご必要とのご判断なら、私どもが工面いたします」

「よし。では頼もう。領地の価値が決まるのだからな」


 それはマティアスが自らの領地のために自ら支払うことを決めた、はじめての費用に違いなかった。しかしそれに気づいていたのは召使いのエンシオだけだった。


「では、はじめます」


 アイリは幾重にも巻かれたひもをほどき、そのせんを開ける。まだそれが魔法のインクだとは誰の目にも判別はできなかった。


 取り出したペン先を魔法のインクにつける。アイリはすぐにはその筆先を取り出さない。見れば、インクは金属ペンの全体をうように登り、ペン全体をインクで包もうとしている。そのインクが親指を超えたとき、アイリはペンを引き抜いた。

 中空に伸ばした手で、筆先を同じ軌道で3回踊らせる。それが終わったときに始まったことは、まさしく魔法としか言いようのないことだった。


 それまでペン先から離れることのなかったインクが吐き出され、虚空に黒い文字らしきものが描かれ始めた。インクは不思議と落ちることはなく、空間に言葉として刻み付けられている。

 といって、それが本当に文字であるかはおぼつかなかった。その文字はマティアスたちが知る文字とは全く異なっていて、まるで一枚の絵を描くように、その線はアイリの両手を広げた幅で激しく往復していた。

 その線の一つ一つはほとんど意味をなさない運動に見えたが、いくつもの線が重なるうちに、文字らしきものが次々と、まったく別の場所に出現する。存在が広く知られているにも関わらず、魔法を使いこなす人間が少ない理由をありありと見せ付けられるようだった。


 まるで蜘蛛くもが巣を張るように。あるいは刺繍ししゅうを編むように。ひとつなぎの線が歌うように重なると、複数の文字が集まった全体にも、あるいは全体が一つの文字にも見える、人知を超えた秩序が織り上げられた。


 アイリがペンを押し込むと、中心から全ての文字が緑に輝いた。


「なんだこれは……」

「なんと……」


 無口なエンシオでさえも、驚きのため息を漏らす。金属の共鳴音のような不思議な音が響いたかと思うと、描かれた文字はその中央めがけて吸い込まれるように消えた。

 アイリはインク瓶に栓をして強く押し込みながら、魔法が無事に発動したのを確認して、安堵あんどの声を漏らす。


「ええと、これ


 ドゴォッ!!


 振り向きかけたアイリの横で、大量の土が吹き出した。


「でぃやぁぁぁぁっ!」


 エンシオがのちに語ったところによると、その柱はゆうにあの尖塔せんとうを超えるほどの高さに達し、中には石も紛れていたという。実際、尻餅しりもちをついたアイリは頭を隠して縮こまったが、その周りにはいくつかの石が落ちて、アイリの頭にもパラパラと小石が散った。


 初めて使った魔法の威力は、アイリの想像をはるかにしのいでいた。無事に古代神話言語を描ききったという疲労感と達成感はその土の雨の中に消し去られる。


「大丈夫ですか!?」


「ダメです」


 アイリは激しく頭と腕を振って、かぶってしまった土を払う。ようやくあたりを見ると、乗ってきた馬たちが少し距離をとっておずおずとこちらを見ていた。


「実は使うのは初めてで……」


「なるほどそれで」


 手を差し伸べられて立ち上がったアイリは、服の間に入った土を払うために服の裾を引き出してバタバタ振った。そのためらいのなさに、慌てたマティアスとエンシオの方が背を向ける。


「あっ、御免なすって、あんまり慌ててしまって……」


「いえ、済んだらお声掛けを」


 そう言われていっそボタンも外してしまおうかと思ったが、遠方で心配そうにこちらをうかがう傭兵がいることに気づき、やむなく一通り払うので我慢がまんすることにする。


「お待たせしました……では測ってみましょう。ロープをいただけるかしら?」


 アイリの前には確かに穴ができていた。それはティーカップよりわずかに大きい、ちょうどソーサーくらいの真円の穴だった。まるで何かで切り取られたような美しい穴の姿は、魔法以外では実現し得ない。


「……私これを買うときに思ったのですけれど」


 土まみれになりながら渋い顔でインク瓶の紐を巻き直すアイリは、いくらかもとのアイリ・コッコらしかった。しかしその言葉遣いは変わらない。


「穴を作るのに金貨1枚なんて、とても不釣り合いではありませんか? でもこれを思いついて驚きましたわ。金貨1枚で、無限の富が見つかることもあるのだと」


 戻ってきたエンシオはロープの端を片手に、反対に水筒も握っていた。


「ありがとうございます。失礼しますわ」


 アイリは脇によけて水を含み口をすすぐ。実は土が口に入って気になっていたし、なにより大声で悲鳴をあげて水を飲んで落ち着きたかった。次から魔法を使うときには、文字を書き終わるなり全力で逃げ出す必要がありそうだ。


 水筒をエンシオに返し、円錐形の鉛を重りにしたロープを受け取る。アイリはその先を穴に下ろし、ロープを持つ手を少しずつゆるめた。馬の脇にとめられたロープをエンシオが少しずつ解く。

 ロープにはところどころに赤い印が縛り付けてあった。アイリと召使いたちは午前のうちにロープを巻きながらそれを縛り付ける作業をしていた。とても正確な長さとはいえなかったが、ロープの長さを測るにはそれ以外に方法がなかったのである。


 少しずつ落ちていくロープは、何度か詰まりながらも確実に進んだ。次第に垂らしたロープの重さも増して、用意しておいた三脚に滑車をかけたものでそれを支えた。傭兵の力を借りて少しずつ下ろしていくと、やがて大きな赤い印が近づき、それが滑車を超えて穴に差し掛かった。


「いよいよですわ。これがあちらの緑まで進むようなら、十分に多いと言って差し支えありませんわ」


 アイリにとって堪え難いことだったが、この方法で生じる誤差はあまりに大きかった。それでやむなく、確証を持って深いと言い切ることのできる長さは、ずいぶん長くなってしまった。まだそれはロープを支える二人の傭兵の手元にある。

 指示をしてゆっくり下ろすと、やがてリボンは滑車を超え、一度そこで詰まったが、もう一度細かく上下させるとさらに進んだ。やがて緑のリボンが穴に入り、地上からは見えなくなる。


「……おめでとうございます、マティアス・サルマント様。これで御領地の経営は安泰あんたいです」


「ありがとうございます。ミセス・コッコ」


 マティアスとアイリは握手を交わす。アイリの土だらけのほほは貴婦人というにはほど遠い。しかしマティアスが抱いていたの魅力をそれほどに表している姿はなかった。

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