お言葉ですが、領主様

 調査器具はデュオプトラの他に望遠鏡と新調した小型のハンマー、それに幾らかの薬品壺、そして記録具と多かった。アイリはそれらを馬の左右にしばり付けると、自らもいつものスカートではなく乗馬用のズボンを履いてマティアスの登場を待った。


「本当に行かれるので?」

「領地を見るのも悪くないだろう」

「ですがソフィアさんに……」

「相手はご夫人だ、それになにも誰の目にも届かないところに行くわけでもない」


 そんなやりとりがれ聞こえ、マティアスが姿を現した。その後ろには女性の召使いが心配そうな面持ちでその背を見送っている。


「失礼。あまりに外出しないものだから、たまの外出に屋敷中この騒ぎで」


「外出といっても御領地からは出ませんのにね」


 アイリが馬にまたがると、先に馬門で待っていた傭兵が声を掛け合って馬を走らせた。今日は主人も出るとあって、見るからに人数が増えている。兵たちはどれも軽装だが、携えた長槍と体に通した大弓はいつ見ても心強い。

 一方アイリたちから数馬身離れたところにエンシオが控えている。彼はいつも軽食や水を運んで随行ずいこうし、アイリの調査を心地よいものにしていた。


「さて、参りましょう。今日は調査というより、御領地をご案内しますわ。……私が案内というのもおかしな話ですけれど」


 馬上で片手を口に当てて微笑む。


 昨日マティアスを誘ったのは、彼に対する礼儀からだった。彼が最も好きな書物を紹介してくれたなら、アイリも最も好きな書物を紹介するべきだと思ったのだ。そしてそれは、この世界のどこでも読むことのできるものだった。


 手綱を一つ弾ませると、あぶみを踏んで速歩トロットで馬門を出る。低い壁がなくなっただけで、新大陸の丘陵地帯は寒露かんろの冷風を感じさせた。その後ろから、久々の乗馬にも苦なくマティアスが追う。


 はじめに向かったのは一つ目のうねり、屋敷を含む眺望ちょうぼうを見渡せる位置だった。アイリはこの大地の物語を語って聞かせるべきだと考えていたのである。馬を止めて振り返ると、そこには大きな屋敷といくつかのが重なる平原が見える。


「マティアスさん、そもそも草原というものは簡単には生まれません」

「そうなのですか? 放っておけばそうなるものかと」

「いえ、森になるのです」

「なるほど」


 風が強すぎたり、冷え込みが激しかったり、あるいは水が多すぎたり少なすぎたりすれば、そこは草原になる。草原とは木の生育を阻害する環境を物語るであり、アイリはその大地の声を聞いていた。


「……つまり、この気温と風から言って、雨季があるか、あるいは年中雨が少ないとお考えなさるべきかと」


 マティアスは館のある景色を見つめている。ソフィアを訪問するために屋敷を出て馬車を走らせることはあったとはいえ、マティアスがその景色を自ら進んで見ようとしたのは初めてだった。いつもは馬車の中でさえ、館を見るのは苦痛だったからだ。


「少し走っただけでわかるものなのですね」


、マティアスさん。ページを開く者には、神が語ってくださるの」


「神が……」


 父の土地の只中で、父すら知り得ぬ神の言葉を聞く。アイリの何気ない一言は、マティアスの胸を震わせた。


「測量のことはどの程度ご存知ですか?」


「いえ、まったく。地図は歩けばおのずと仕上がるものかと」


 アイリは馬を降りてデュオプトラを取り出した。三脚を広げて設置すると、その脇にまた別の器具を置く。


「これはデュオプトラと言います。しかしそれよりもまずはこちらを。水準器と言われているものです。水の傾きでデュオプトラの傾きを知ります」


「なるほど?」


 アイリは微調整を繰り返し、丘の上にデュオプトラの水平を保った。続いてデュオプトラを覗き込むと、ふたつのクランクを器用に回してその角度を変える。


「デュオプトラはその位置から何かを見たときに何度傾いているかを知るものです。こちらをご覧になって」


 うながされるまま、マティアスも馬を降りてデュオプトラを覗き込む。


「なにを見るのです?」


 その言葉にアイリが顔を寄せる。マティアスは慌てて顔を離す。アイリの束ねた髪が、覗きこむ肩から滑って揺れた。


「こう、片目で。手前の十字と奥のバツの字の真ん中を重ねるように」


 アイリはもう一度マティアスに覗きこむよう促す。一歩下がって両手をお腹の前で組めば、アイリは上品な姿勢となった。


「館の尖塔せんとうの先に」


「これで紙の上に屋敷とこの場所を結ぶ線を作ることができます。秘密もあるので申し上げられませんが、こういうことをいくつか繰り返して、距離も正確にわかるのです」


「なるほど……」


 マティアスは心底感心していた。自分の知らないことがこんなに身近にあったということが意外でならなかったのだ。


 アイリはデュオプトラをたたんで箱にしまいながら、説明を続ける。


「実を申しますと、この方法ではわからないこともあります。たとえば、街からここまでの距離はわかりません」


「なぜです? 同じ方法で調べればわかるのでは?」


「なぜだとお思いになりますか?」


 マティアスは小さく丸めたアイリの背中を見ながら、その答えを考えた。この丘と屋敷にあって、屋敷と街にないものがある。子供の頃に兄と遊んだ知恵比べのような気がする。


「わかりました。見えないからですね」


「さすが聡明でらっしゃいますね。ここに至る道はずいぶん上り坂が続きますし、この辺りに入っても丘ばかりで、あの尖塔せんとうもずいぶん近づかなくては見えません」


「そうなのですか?」


 マティアスのキョトンとした表情に、アイリは眼を細める。


「どうやって屋敷に入られたのです?」

「馬車で」

「見なかったのですか、あの光景を?」

「ええ、あいにく」


 アイリはため息をついて首を振ると、立ち上がってずいと踏み込みマティアスに迫った。


「お言葉ですが領主様。そう目をお閉じになっていては読めるものも読めませんわ。のちの御領民がかわいそうでなりません」


「……そうですかね?」


「はい」


 マティアスは生まれて初めてこんなことを言われた。それはこんな失礼極まることを口にする礼儀のなっていない人間が周りにいなかったということでもあるし、彼に真剣に向き合って意見する人物がいなかったということでもあった。


 その失礼な(あるいはよく言って真剣な)女性は、そのうえ体すら向けることはなく、しゃがみこんでデュオプトラをケースにしまいながら話を続ける。


「たとえ私が魔原石の鉱脈を見つけ出したとしても、ただ口先でそんなものはないと言って、他の名のあるお方に取引をすすめればどうなりましょう? もちろん、私は官吏でございますからそんなことはいたしませんが? まずはその目をお養いなさったらどうかと思いますわ」


 マティアスはまったく硬直していた。デュオプトラのケースはバタンと閉じられて、馬に再び縛り付けられる。ようやくマティアスが動いたのは、エンシオが視界の隅に入り、助けを求める視線を送るためだった。

 しかしエンシオでさえも、困った顔でアイリの背中を見て、ただ静かに首を振るばかりだ。


「さて、次に参りましょう。次の景色もお気に召されるはずですわ」


 上機嫌に手を打って振り返ったアイリは、二人が固まっていることにようやく気づく。


「どうかなさいまして?」

「……いえ、なんでも。楽しそうで何よりです」

「ええ。お楽しみいただくためには私が十分に楽しまなくてはならなくってよ」


 アイリは19歳の輝かんばかりの笑みを浮かべて、あぶみを踏んで馬に上がった。マティアスもそれに続く。


「この台地は複雑な褶曲しゅうきょく地形になっています。風化しやすい岩石が先に露出ろしゅつしたところから大きく削れ、その亀裂きれつが広がって地表面の崩落ほうらくや小さな崖を作っています。しかし中には断層亀裂だんそうきれつ痕跡こんせきもあります」


「すまないが、何を言っているのかわからないな。専門の言葉が多すぎる」


「あっ、ごめんなさい」


 屈託くったくのない笑顔といい、うわずったその応答といい、マティアスはに違和感を覚えていた。自分が相手をしているのは間違いなくなのだが、そのひとみに少女の姿がちらつくのだ。


 かたやアイリはそんなことを思われているとは知らず、また一つ咳払いをして調子を整える。


「大地というのは本を積み重ねてできているのです。しかしあまりにたくさんの本を不規則に詰め込もうとすると、本が崩れたり歪んだりして、ぎゅう詰めになってしまうことがありますの。それを褶曲しゅうきょくと呼んでおりますわ」


「ちょうど私の船旅の荷物がそういう状況に」


「神様も欲張りなさるということですわね。まずはそれを見に行きましょう。少し遠いので、けますわ」


「わかりました」


「お飲み物もありますから、私は遅れて参ります」


 エンシオが馬上で帽子を取って胸に当てる。

 二人は短く返事を返すと、再び速歩トロットで歩み始め、すぐに駈歩キャンターへ移行した。


 ただあぶみだけを踏みしめて立つと、草原の冷風が二人の体に心地よく吹き付けた。

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