お気持ちわかりますわ

 調査を終えたアイリは、服を着替えて食堂へ向かった。冬の日は短く、調査はいつも物足りないところで終わっている。夕空のまだ光るうちに、二人は夕食のテーブルに着いた。


「遅くなりましてよ、マティアスさん」

「いえ。ちょうど良い頃合いです」


 瞳だけを動かしてちらりとマティアスを見ると、やはりどこか物憂ものうげな影を感じる。その本性では根っからの元気娘であるアイリにとって、その顔は目も当てられないものだった。


「いただきましょう。今日のオードブルは?」

「さあ。何か……おいしいものです」


 アイリはため息をつきそうになるのをようやくこらえる。このマティアスの機嫌をとって食卓を楽しいものにするのは、それほど意味のある行動とも思われなかった。


「お噂を聞きましてよ、マティアスさん。いつも本を読んでらっしゃるとか」

「はい。エンシオから?」


「ええ。私の生まれはそう豊かでなかったものですから、上流の貴族の方々の暮らしというものを存じあげなくて、興味からつい。不躾ぶしつけだったかしら?」


 ビネガーの微かにきいた前菜は、野外調査で日中に軽食しか口にしていないアイリの食欲を大いにそそる。


「いえ。事実ですから」


「今は何を?」


「『騎士アレクサンテリ』を」


 会話が2つ以上続くのは初めてのことだった。そうして言葉を交わしてみると、表情の陰鬱いんうつな様子も少しはほぐれているように見えた。


「どこまでお読みになって? アレクサンテリは森を抜けました?」


 マティアスは食事の手を止めて目を見開く。


「いえ、まだです。……学術書のほかもお読みになるのですね」


「もちろんですわ。お話しできる本の話にしましょう。その前には何を?」


 今読み進めているものの結末に触れるのはあまり歓迎したいことではないだろう。配慮しながら話すことができたとしても、もっとも会話に花を咲かせるためには、互いに読み終えている本の話をするに越したことはない。


 マティアスがどの本の話をするのか考えている隙に運ばれてきたメインディッシュはラムチョップのグリルだった。新大陸でこんな料理を連日食べているのはおそらくこの家だけだろう。

 アイリはたまらずよだれを垂らしそうになるのをなんとかこらえる。


「そうだ、持ち込んだもので最も好きなのは『エルネスティとマティルダ』です。こちらはお読みに?」


「もちろん。『王のために捨てられぬ二つばかりが残りましょう』」


「「『マティルダへの愛、そしてあなたへの忠義だけが』」」


 二人は声を揃える。それは『エルネスティとマティルダ』のクライマックス、王の呪いのために代償を捧げ続けたエルネスティが、最後の代償に自らの命を選ぶ場面だ。王は呪いに怯えるばかりに自らの国を継ぐべき本当の忠義者を見失っていたことに気づき、エルネスティを婿養子として迎え、自らは死を受け入れることを選ぶのだ。

 その作品を読んだ人なら、必ずその劇的な言葉を記憶していた。むろん、アイリが思い出そうと思えば、その全文を語って聞かせることもできたのだが。


「印刷版とは他の結末も伝わっているそうですわ」


「そうなのですか?」


「そもそも、多くの物語の結末が一つになったのは最近のことと聞きますわ。『エルネスティとマティルダ』の場合にはこういう結末が」


 他の結末では、エルネスティは最後の代償にむしろ王の命を選ぶ。王もそれを受け入れて話が終わるのだが、たしかに忠義の騎士道物語としてはあまりにあっけない結末とも言えた。実際、その説明を受けたマティアスも同じ感想を漏らす。


「印刷版の方が好まれそうですね」


「ですわね。そうして優れた物語だけがたくさん印刷されて知られるようになるというのも時代ですわね。……二つともそうですけれど、騎士道物語がお好きでらっしゃるの?」


「はい。自らの固い意志で苦難の冒険に打ち勝つ様は実に素晴らしい。読んでいると胸が明るくなるのです。自分がここにいない誰かになれたような……」


 ここにいない誰か。その言葉はアイリの胸にも共鳴する。


「わかりますわ。幼い頃から、私は地理誌や旅行記を好んだのですけれど、いつも小さな陽の当たらない部屋でそれを書き写しては、自分がそれを書いたような心地になったものです」


「写本を?」


「はい。『エルネスティとマティルダ』も子供の頃に一度。そのとき寄宿していたホンカサロ男爵のご邸宅に今も所蔵いただいているかと」


「あれを自分で書いた子供がいたら驚きますね」


「でも、そういう気分にはなれますよ。それに、印刷ものより少しだけ……」


 そこまで口にしてアイリは言葉を止めた。自分の口調がまったくのそれではなくなってしまっていることに気がついたのだ。それに自分の経歴をこうも話せば、の皮は簡単に剥がれてしまう。


 カレルヴォ大佐の耳打ちを思い出し、一つ咳払いをする。


「どうかされました?」


「いえ、お話ししていて、私たち“なにかおいしいもの”を忘れておりますわ」


「おっと、本当だ。陽が暮れる前にいただきましょう」


 同じように手を止めていたマティアスも、慌ててナイフとフォークを当てる。アイリはその一切れを口元に運び、香りを嗅ぐ。料理人が工夫をらしたと見える香草が香って、口に含めば肉汁からは深みのある味わいがする。


「……マティアスさん、これは『ラムチョップの香草焼き』ですわ。たぶんローズマリーかタイムか……本のように、表題がございましてよ」


 一心に次の肉を切り出しながら言うアイリにマティアスは苦笑する。しかし一切れを切り取ると、アイリの真似をして香りを嗅ぐ。


「そこまでわかるものですか?」


 そう問われたアイリの口は、開くには最も悪い状況だった。少し大きく切りすぎたラム肉を大きく噛みながら、慌てて口元を隠し、大きく頷く。


「今日の調査の記録は多そうですか?」


 ようやく飲み込むと、ワインを少し口にする。その舞うような指先の手さばきばかりは優雅ゆうがだった。


「今日は西の断層崖を見たので、少しお時間をいただきたいですわ。重要な調査でしたの。……ときにはお話しでも?」


「ええ、ぜひ本の話をと思いまして。しかしそういうことなら……」


 アイリは短い時間にいくつかのことを考え、そしてマティアスが思いもよらなかった提案にたどり着いた。


「マティアスさん、明日調査に同行されてはいかがですか? 御領地をご自身の目でご覧になったことは?」


 マティアスは陽が沈みゆき夜が溶け合おうとする景色を見た。暗闇の中に沈みゆくその景色に、これまで興味を抱いたことはなかった。

 少なくともマティアスにとって、そこに広がるのは領地などではなかったのだ。ただ父に買い与えられた父の土地であり、その只中の父の屋敷で、父の召使いたちが用意した父の食事を食べさせられているにすぎない。恐らくはいま吸った息のひとつでさえも、父がマティアスに吸わせたものに違いない。


 だから残された場所は本の他になかったのだ。父の肖像画で覆われた世界の中で、両手に収まるその小さなから見える光景だけが、父の手の及ばない本当のだった。マティアスが心から愛することができたのは、父の作り上げた牢獄のを感じられるものだけだったのだ。


 つまりこの地質調査でさえも、マティアスにしてみれば父の築く牢獄ろうごくの新しい壁に過ぎなかった。得た土地に魔原石の鉱脈を見つければ、それでマティアスの残りの人生は魔原石の鉱山主に決まる。

 いま調査に同行することは、マティアスにとって決して望ましいこととは言えなかった。そこには心に風を通すがあるはずも……


「ではお連れします」


 窓を見つめたままそう考え込んでいたマティアスに、アイリは一方的に言い放った。マティアスは目を丸くして、食事を続けるアイリを見る。


「いまは悩むよりこれを頂かなくては。陽が沈んだら暗くて料理の美しさが見えづらくなりますわ」


 アイリが皿の上の料理をすべて平らげたのは、決してそれが正しいテーブルマナーだからというわけではなかった。

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