い、いつからですの?

 地形を素描した三角網が完成したのはそれから11日後のことだった。アイリはそれに道路の敷設計画を描いて、カレルヴォ大佐を事務所に招いた。


「お久しぶりです


 馬車を降りた大佐は出迎えたアイリのもとに歩み寄り、相変わらずの態度でその手をとって甲に口づけをする。


「お変わりないようで。急いでお約束のものを仕上げましたわ」


 くるみの木材で作られた黒ずんだ事務所には、かすかにオレンジの香りが華を添えている。曇りガラス越しに強い日差しが差し込んでいた。


 アイリはすぐに中央の広い机に置かれた小さな地図を示す。


 その海岸線は旧来の海図よりはるかに精緻であるのは明らかだった。カレルヴォ大佐もそれを覗き込むだけで、美しさに嘆息を漏らす。連日海から望んでいた海岸線そのものを、空から見ているような心地がした。


「素晴らしい。あの日差しを思い出すようですな」


「はい、オレンジの香りも」


「それは今もするではありませんか」


 アイリはいぶかしげに匂いを確かめる。あれからあまり頻繁ひんぱんに買うものだから、いよいよ軽い香りには気づかなくなってしまっていた。


「お気に召したようで何よりです。ただ高価ですから、お気をつけて」


「はい……お恥ずかしい……それで、こちらの岩壁をよけて、この線に沿って道路の敷設を。荷馬車の曲がりなども考えて描いてあります」


 その曲線は大佐の目にも美しかった。不自然な歪みがなく、馬車は速度を緩めずに走ることができるだろう。その先に書かれたヒエタミエスの文字は、総督への最大の贈り物だった。


「現場での地図との合わせは私たちでできますかね」


「はい、皆様なら必ず。くれぐれも、精密を期すよう心がけるようご指示願います。三辺測量は一度歪むと手がつけられません」


「兵の統率も同じですな」


 これで新大陸軍における海軍の地位はさらに高まる。道路敷設に海軍の測量部隊が必要になるのだ。将軍級になったときに、この影響力は必ず自分に利する。秘密裏に抱いていた作戦の成功に、大佐は深くうなずいた。


 アイリはそんな思惑など知るよしもなく、完成した地図を丸めてひもを幾重にか巻く。


「また南方の海岸線の地図を描く折にはぜひご一緒に」


 アイリが差し出した地図を受け取ると、大佐はそれを背に隠してみせる。


「たしかに見えませんかな?」

「はい」


 大佐のおどけた態度に、口元を隠して小さく笑う。


「では、報告に行って参ります。このたびはご協力ありがとうございました」


 大佐が敬礼してきびすを返すと、アイリが急足いそぎあしに扉に手をかけ押しひらき、先に外に出て扉を支える。


「さすがに階段のエスコートはいたしませんわ」


 その動作にわずかな驚きの表情を見せた大佐に、アイリは肩をすくめる。


「よき時代を開きそうですな、ミセス」


 御者はすかさず踏み台をおき、扉を開く。階段を降りた大佐は踏み台に片足までかけて、振り返った。


「そうだ。お耳に入れておきたいことが、


 小走りに階段を登ると、アイリの横から耳元に顔を寄せ、手を添えた。



「私は秘密にしますが、お振る舞いにはお気をつけて、・コッコ」


「ひゅえっ」


 思わず変な声が出る。目を見開いたまま固まった表情で、恐る恐る大佐を見る。

 例の優しい微笑みだった。


「い、いつから……?」


「馬車でナイフをさやにお納めになったあたりで」


「ふえぇ?」


 それは大佐に出会ってからほんの5分と経っていないときだった。


 大佐は一本指を立てて自分の鼻にあてがい、声を落とすよう促す。


「他の者に聞かれますよ、


 アイリは固まったまま、颯爽さっそうと階段を降りる大佐を目で追っていた。

 あまりの動揺ぶりをいぶかしがった御者が尋ねる。


「何を仰ったのです?」

「なに、ご主人のことをね。詮索せんさくは不要だよ」


 そのやりとりはアイリにも聞こえていた。馬車に乗って扉を閉めると、未だ固まったままのアイリに向け、大佐は一つウインクをした。


 走り去る馬車がようやく角を曲がった頃、調査行の間の自分の振る舞いを振り返ったアイリ・コッコの顔は、目も当てられぬほど真っ赤に染まっていた。

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