第05話

 目を覚ましたミントは、おもむろに起き上がって室内を見渡した。

 どうやら深夜らしい。寝室はほとんど真っ暗で、調度品の輪郭がうっすら浮かび見えるだけだ。小ぶりのサイドテーブルと、それをはさむ形でベッドが二つ。片方はいまミントが腰かけており、もう片方は上掛けが人の形に膨れて規則正しく上下している。眠っているの村の老医師、アイの祖父だ。

「……アイぃ……メシ……」

 むにゃむにゃと曖昧な寝言を呟く老爺にそっと苦笑をこぼし、目の冴えもあって少しベッドから出てみることにした。しかし思うように動かない。

 たった数日、寝たきりだっただけなのに、覚束ない足元に苦戦を強いられ半ばやけになりつつ歩を進めていると、いつの間にか目の前にリビングへ続く扉があり、ドアノブの出っ張りがミントの視線を縫いとめた。

 戻ろうと考えたのも一瞬だけ。好奇心のようなものに駆られて扉を優しく押し開く。すると、わずかに開いた隙間から暖色系の明かりがこぼれ、ミントは首をかしげた。

 まだ誰か起きているのだろうか。こんな真夜中に?

 もう少し扉を開けて向こう側をのぞき見ると、テーブルとイスとソファが見えた。

 テーブルの上にはシンプルなシェードのランプ。光源はそこだ。みかん色に近い光を放ち、部屋を穏やかに柔らかく照らしている。

 ゆったりとした幅広のソファには、キルト生地の上かけを抱えて眠るアイの顔貌が見えた。昼間の彼女からは想像もできないほど、温容で幼い寝顔だ。上かけをぎゅうっと抱きしめて寝るのは彼女の癖なのだろうか。

 そしてその正面──ミントに背を向ける体勢で、丸イスに座る少年がひとり。足のかかとを座面のはしに乗せて両ひざを抱え、右ひじをひざの上に置いて頬杖をついている。左手に持っているのは分厚い本だが、タイトルは見えず、どんな内容なのかは分からない。

 身長体格から十歳前後と思われるこの少年は、昼間、食事の時に顔を合わせた際にはなんの紹介も受けなかったが、おそらくアイの息子なのだろう。

 協会からもらった資料によれば、アイの年齢は現在三十二歳、少年が十歳と仮定しても年齢的に釣り合うし、十年前のマイガス研究所強襲事件の時にアイに子どもはいなかったので、年数的にも符合する。

 それになにより、顔や雰囲気がどアイによく似ているのだ。アイとはちがって少年は髪も瞳も真っ黒だが──おそらく父親ゆずりなのだろう──、目尻のあたりは特に類似が多い。

(となると……口許とかはお父さん似なのかな……)

 そもそも父親は誰なのか。時期を考えれば、必然的にアイがまだ研究所に勤めていたころに知り合えた人物となる。資料の中に、少年と同じ髪や瞳の男性はいただろうか。

「立ってないで、座ったら?」

 びくり、と肩をふるわせた。改めて確認するまでもなく、少年はこちらに背を向けたままだ。それでも気づかれてしまったのは彼が人の気配に聡いからだろう。

「ごめんなさい、邪魔をしてしまって」

「邪魔だと自覚してるなら」少年は本を閉じた。「さっさと出て行ってくれない?」

 あまりにも直接的な物言いに苦笑せざるを得ない。きっと幼いながらも母親のいら立ちを感じ取っているのだろう。

 アイをわずらわせているのは事実だから致し方ない。だからこそミントは包み隠さず正直に胸中を打ち明けた。

「それは出来ません」

「世界のため?」

 草木も眠る真夜中、少年期特有の高い声はよく聞こえる。その響きが皮肉と挑発混じりであることも、ミントにはしっかり聞き取れた。

「……それもあります。でも、それだけじゃありません」

「というと?」

 聞き返されて、少し困る。

 長い話しではないが、ソファに横たわってまぶたを閉じているアイのことを思うと、せっかくの睡眠を邪魔するのではないかとためらわれる。

 それらの仕草でミントの遠慮を悟ったのだろう。少年は落ち着き払った声音で「大丈夫だよ」と声をかけてきた。

「アイは一度寝ると、気が済むまで絶対に起きないから。それに、夜明けまでもう少し猶予がある」

 言い回しは優しいが、有無を言わせない強さをもつ言葉選び。

 年端もいかない少年のものとは思えない言質に特別な空気を見いだし、彼ならば理解してくれるかもしれないという、淡い期待を抱いた。あわよくば彼が協力者になってくれたら、アイも説得を受け入れるかもしれない。

 小さな策略を胸に、ミントは不意に疲労を覚え、ほう、とため息をついた。歩行もままならない身で立ち続けるのはそろそろ限界だ。ミントは少年に断りを入れ、彼のかたわらの床に腰をおろした。

 少年は閉じた本をテーブルへ置くと、またがるようにイスに座り直し、背もたれに腕を乗せてミントの話に聞き入った。

「……よくある話です。わたしは七年前まで大きな都市に住んでいるだけの普通の女の子でした。両親がいて、弟がいて。でもその町は、ある日突然現れたイデアホールに呑まれて……消えました」

「七年。──〈カズムホール〉か」

「はい……」

 世界の歪み、イデアホール。三次元空間に発生する虚無は、なんの前触れもなく、また規則性もなく発生し、三次元にぽっかりと「穴」を空ける。そうしてそこにあったはずの全て──有機物、無機物問わず、あまねく全てを次元のひずみに取りこんでしまうのだ。

 中でも特に大きくて現在でも成長を続けているのが〈カズムホール〉と名付けられたイデアホールだ。

 七年前、予兆もなく生まれた〈カズムホール〉は、周辺にあったいくつもの町や村を飲みこみ、何万もの人間を巻き込んでひとつの国を事実上崩壊させた。

 ミントが見たのは、山よりも大きな巨大な闇色の球体が、すさまじい勢いで肥大化し、あらゆる存在を食いつくしてしまう光景だった。

 三次元世界の「場」に穿うがたれた穴に触れてしまい、モンスターが消滅するときのようにガラスのかけらへと姿を変える、人、建物、石畳、街路樹……生家、すべて。あらゆる存在が無に還され、あらゆるものが一様に消え去っていく、そのさまを、ミントはしっかりとそのまぶたの裏に焼きつけた。

 それは、イデアが欠けたこの世界の、もう一つの死の在り方だった。

「かろうじてわたしと……弟はなんとか逃げることができて、そのあと調査に来たイデア協会の人に助けられました。

 でも家族も故郷もなくなってしまった。

 ……わたしは、わたしから故郷を奪った〈カズムホール〉を憎んでいます。イデアホールはそうやって人の心もむしばんでいくんです。イデアホールが存在し続ける限り、わたしたちのような孤児は今後も増えていくでしょう」

 しかも一度発生したイデアホールは恒久的にその場にとどまり続けるため、苔すら生えない不毛の大地よりもなお悪い――存在そのものを拒絶する「場」へと変わり果てる。世界各地に点在するイデアホールがこのまま育ち続ければ、世界はじわじわと浸食され続け、いずれ生命が存在できる場所はなくなってしまうだろう。

「それを止めたいって? 〈カズムホール〉だけじゃなく、世界中のイデアホールを閉じたいの?」

「可能ならば」

「無茶なことを」

「難しいことは分かっています!」

 嘲笑あざわらうかのような少年の応答に、ミントはカッと声を荒げた。だがすぐにアイが眠っていることを思い出し、きゅうと首をすくませる。幸いアイが起きだす様子はない。眠りをむさぼる女性を再確認したミントは、ほっと安堵の息をつき、声量を改めて少年に反論した。

「……でも、そう願うのは当然じゃないですか? 十年前までイデアホールなんてものはなかったし、モンスターだっていませんでした。魔法だって、能力者キューブナーだっていなかった。世界中の歪みが修正されて、すべてのホールがなくなって、モンスターのいない世界で平和に暮らすこと、十年前まで当たり前だった日常を取り戻すことは、協会だけの願いではありません。世界中の人々の願いです」

「当然だね、アイだってそう願ってる」

 ミントは己の耳を疑った。

 脳裏を、こちらの懇願をにべもなく冷徹に突き放した女性の顔がよぎる。

「だったらどうして? なぜアイさんは、わたしの申し出を受けてくれなかったんですか? アイさんの知識があれば〈カズムホール〉だけじゃなく、世界中のイデアホールを修正できる可能性だってあるのに……!」

「アイには守りたいものがあるんだ」

「守りたいもの……?」

「思い出……いや、魂かな」

 ミントは目を瞬かせ、しばし言葉を失った。魂、という言葉にこめられた少年の真意が、深いところにあるように思われたからだ。

「魂……?」

 口の中で反芻し、その感触を確かめる。

 すると少年は、まるでこの家の老爺のような、アイのような、あるいは二人にとても似通った仕草でゆっくりとうなずいた。

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