第04話

 それから数日、宣言通りアイはカウチソファで眠った。実に不快極まりない。トワの怒りは日増しに増加するが、かと言って効果的に発散させる手段もなく、フラストレーションばかりが蓄積される。早くミントとやらに目覚めて欲しかったが、高熱にうなされる彼女はアイの診立て通り長らく目を覚まそうともせず、待つばかりの毎日が過ぎた。

 ミントが目覚めたのは四日目の夕方だった。

「あら、おはよう」

 目覚めに気づいたアイが声をかける。

 ミントは自らの状況がつかめないようで、何度かまぶたを瞬かせた。

「……わたし……」

「倒れたのよ。覚えていない?」

 まあ無理もないかとアイが呟く。

「いいかげん気づいてくれて良かったわ。そろそろ点滴の出番かと思っていたところよ」

 言いながらアイは生温くなった手拭いをミントのひたいから回収した。

「食事を作るからそれを食べて。回復次第、出て行って」

「……できません」

「強情ね」

 アイの長息に少年は深く同意する。アイ自身も言い出したらきかない頑固さがあるが、ミントはそれと同じくらいかたくなだった。

「どうして助けてくれないんですか?」

「助ける理由がないからよ」

 間髪入れず、アイは冷淡に言い切った。

「〈カズムホール〉を閉じて、私になにか利点はある?」

「イデアホールは世界の脅威です! 正さなければ世界は壊れるだけです!」

「世界がどうなろうと知ったことじゃないわ」

「あなたは……!」

 息まいて上肢を起こしたミントは、しかし重力に逆らえず再びベッドへと身を沈めた。貧血でも起こしたのだろう。

「それに、あんな大きな穴を閉じるなんて不可能よ」

「アイさんはマイガスさんの助手だったんでしょう? イデアを一番よく知っていたから、魔女と呼ばれていたんじゃないですか!?」

「…………」

 アイが押し黙ったのは、その全てが返答しかねる内容だったからにちがいない。

 世界を狂わせたマイガスの助手であったことも、一部の人間に魔女と呼ばれていたのも事実だ。既に知られているのなら、いまさら肯定したところで害はないのだろうが、それでも言葉にする事をはばかれる場合もある。当事者が口を開いてしまった結果、無用な争いを招いた史実もある。

 半眼を伏せたアイは形の良い唇を軽く噛むと、ミントから視線をそらした。

「ばかばかしい」

 主語が見当たらない言葉だったので、トワは推測を強いられた。

 なにがばかなのか──話題そのものか、今さら真剣に考えこんでしまった彼女自身の思考そのものか。アイの性格から考えて、おそらく両方だ。

 空気が緊迫する。

 トワが息苦しさを覚えたそのとき、ギィ、と木製のドアが開かれた。リビングから寝室へ顔をのぞかせる人物は、アイたちを除けば老医者一人しかいない。

「おお、目が覚めたか」

 わざとらしい驚きの声をあげると、じいさんは「ちょうど良かったわい」と診察用のバッグを持ちこんだ。

「起きたばかりですまんが、少しばかりさせてくれんかね」

「あ、はい」

 人当たりの良い笑顔にほだされたのだろう、ミントの頬から強張りがやんわりとほぐれていく。その間隙かんげきを縫うようにアイはミントのそばを離れ、じいさんが開け放ったドアからするりと退出してしまった。

 その背中を物言いたげにミントが追いかけていたが、やがて翁の診察に集中し始める。

 そこまで確認したところで、トワもまた部屋を出、ドアをそっと閉めた。

「裏がありそうだ」

 部屋を出てすぐに、キッチンへ直行するアイに声をひそめて投げかけた。

 ミントがなにかを知っているとは思えない。彼女はあまりにも邪気がなさすぎる。

 だが彼女の背後、イデア協会がなにも目論んでいないとは限らない。推察にけるアイも気づいただろう。

「そうね」

 案の定、うなずきが返ってきた。

「〈カズムホール〉が確認されたのは七年前で、それを閉じる計画が提案がされたのは六年前、結局手に負えなくて計画が破棄されたのが五年半前。──いまさら、と言えばいまさらね」

 収納棚から野菜を取り出し、包丁を持って食材を切る。

 キッチンに向かい、こちらに背を向けるアイを見つつ、少年はカウチソファに腰を落ち着けた。

「〈カズムホール〉って、スティルブルー大陸とローズレッド大陸の間の海峡にあるんだっけ?」

「そう。半径およそ四十キレにおよぶ巨大なイデアホールよ。発生当時は避難も間に合わず、ホールに巻きこまれて亡くなった人の数は二万とも五万とも言われているわ。ホールはいまも活動中で、年間約二キレのペースで拡大しているそうよ」

「いずれ世界は呑みこまれる……か。あそこは大陸プレートが集中した世界の中心だから、ひずみが生まれやすいんだろうな」

 アイがふと、包丁を動かす手を止め、こちらを振りかえった。なになく口にした感想のどの部分が彼女の興味を惹いたのか、少年は首をかしげる。

「なに?」

「いえ──そういえばマイガスも昔そんなことを言っていた気がしただけ。あそこは世界の中心だって……」

 嫌いな男の言葉をよく覚えているな、とは、もちろん言葉にはしない。それにアイはマイガスを嫌っているわけではない。「気に食わないだけ」だ。

「いずれにしろ、協会側の思惑なんてあの子は気づいていないでしょうね。どうせ気づいても上手く丸めこまれてしまうタイプよ、彼女は。そして思い込んだら一直線」

 再び包丁で野菜を切りつつ、アイは分析を続けた。

「責任感が強いから、命令を全うしようとする。意志が強いから、睨まれても引き下がらない。それに正義感もある」

 これまでのミントの行動だ。

「ああいった手合いが物事を諦めるには、正当な理由が必要よ」

「たとえば?」

「協会が命令を取り下げる」

 無理そうだ。

「じゃあ、あの女はずっとここに居るのか?」

「さあ。いつかは諦めるでしょうけど。……いつになるんだか」

 目の前が真っ暗になるかと思った。ミントが諦めてくれない限り、アイの機嫌は直らない。祖父は医者としての責任と面倒見の良い性格からミントをこの家にとどめて、カウチソファはアイの寝床として使われ続ける。トワにとってはまさに踏んだり蹴ったりの状況だ。

「最悪」

「もちろん、協会が本気で〈カズムホール〉の修正をしようとしている可能性もあるわ。実際その可能性はないわけじゃない。五つのイデアが消失してから以後十年、ホールが発生した国や村の援助をしたり、災害派遣をしたりしてきたんだもの。相手が〈カズムホール〉であろうとも、そろそろ本腰を入れて対策を練らなければ、体裁がとれないでしょう」

 どこか歯切れの悪い響きのあるそれを、少年はさりげなくさえぎった。

「でも協会って、いきなり研究所を襲ってマイガスを殺したんだろ? そんな奴らの言うことなんか信用できるか。ホールを片付けるなんてのは単なる口実で、研究所から失踪したアイを捕まえて処罰するのが本当の目的なのかもしれない」

 アイはマイガスの助手をしてたんだから、話題性はあるだろ。それで民衆の気をそらして、ホールの問題を回避するつもりなのかもしれない。

 わざと声を張り上げ、さも当然と言わんばかりに言いきると、アイは「……そうね」と覇気なく、どこか納得するべきところに落ち着かせたように同意した。

 アイはお人好しのきらいがある。それはおそらく、あのじいさんから脈絡と受け継がれた血の連鎖なのだろう。言葉も態度も冷たいから気づきづらいが、よくよく観察していれば分かるはずだ。

 そんなアイが、十年前、世界を狂わせるきっかけとなった〈イデアの搾取〉について、なにも感じていないはずがない。イデア界から五つのイデアを奪った男マイガスを止められなかった責任──罪──を、アイは常に己に課している。

 イデアの不在による世界の歪み──モンスターや、世界をむしばむいくつものイデアホール──そのなかで、最も巨大な〈カズムホール〉を修正するのは自分の役目ではないか、そうあぐねいているのだ。

 だからこそ彼女はミントの申し出に、(表面上は冷淡だったが)心を動かされた。協会が背後で罠をしかけていようとも、ミントの申し出は受けてしかるべきではないのか、と。

 だが彼女にはひとつだけ、守らねばならぬものもあるのだ。

「おぉい、アイ、そろそろメシだ」

「もう作ってるわよ」

 寝室からじいさんの呼びかけが聞こえ、少年は現実に回帰する。

 どうやら、うちに大問題を持ちこんだ人間の診察は終わったらしい。

 アイは食材を切り終え、手早く次の作業に移り、自分たちの分と病人食を同時進行で作っている。

 日常とは少しちがう事象の感触を目視で堪能した少年は、とりあえず問題を棚上げし、ソファに寝そべってテーブルに置いたままだった読みかけの本をとって、スープの匂いをかぎならが読みふけった。

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