橋の下の少女

亀虫

橋の下の少女

 橋の下にひとりの少女が立っていた、ような気がした。

 土手道を歩いて通り過ぎるとき、ふと目に入ったのだ。それはほんの一瞬だったので、ちょっと違和感があるな、という程度の感覚だった。通り過ぎようとしたが、数メートル歩いたところで結局気になってきた。今の子は何だったんだろう。引き返してもう一度橋の下を見た。

 しかし、少女の姿はなかった。やはり気のせいだったのだろうか。

 私は首をひねった。確かにそこに何かがいた気配を感じたのだ。だが、何もない。おかしいな。幻覚だったのだろうか。私は、自分のことが少し心配になった。疲れているのか、はたまた何か病気にかかってしまったのか。しかし、今ここで考えても仕方ないと思い直し、私は再び目的地へ向かって歩き始めた。今は朝で、登校中だ。こんなところでグダグダしていて遅刻したら大変だ。また生活指導の先生に怒られてしまう。人生、生きていれば不思議なことの一つや二つくらいあるものだ。それが今、たまたま起こっただけだ。そんなことに構っているより、遅刻しないようにするのが先決だ。私は小走りで登校を急いだ。


 学校にはギリギリ始業前に間に合い、そのままとくに変わったこともなく、下校時間を迎えた。

 帰り道も、あの橋の近くを通って帰る。今日も同じだ。私は登校時とは逆の方向に向かって、その道を歩いていた。

 やはり、登校時のことが気になった。学校にいるときは一時的に忘れていたものの、この道を通ると否が応でも思い出してしまう。もしまた見えてしまったらどうしようという恐怖感も少しあった。さっきのはただの幻覚だったとしても、もう一度見えたらきっと幻覚ではないだろう。私はあまり信じないが、幽霊かもしれない。そうでなくても、朝から夕方まで同じ場所に立ち続ける少女はちょっと怖いと思う。

 気にしない、気にしない、と心の中で呟きながらの下校だったが、いざ例の橋の前まで来ると、気になって仕方がなかった。

 私は今朝見えた地点まで来たとき、見たくはないはずなのに、怖いもの見たさのような感覚でちらりとそこを見てしまった。

 いた。少女がひとり、立っている。

 今朝見たときはほとんど一瞬だったので、服装や髪形をはっきりと覚えているわけではなかったが、おそらく同じ少女だ。そんな気配がした。

 私は怖いはずなのに、その少女をまじまじと眺めていた。年恰好は小学校低学年くらい。水色のワンピースを着ていて、髪は長めだ。顔は前を向いていたが、どこかうつろな表情だ。ぼーっと虚空を見つめている。

 私は気が付けば土手を降りて橋の下に向かっていた。その暗い印象を受ける少女に近づこうとしていたのだ。私はハッと我に返ったが、歩く足は止まらなかった。

 近くに来ても、少女は消えなかった。姿もはっきりと見えた。足も付いている。空中に浮いているわけでもない。彼女はそこにちゃんと存在しているようだった。

 ただ、目だけは相変わらずうつろなままだった。

「あの……こんにちはー」

 私は目線を合わせようとして少女の前にしゃがみ、思わず声をかけていた。

 しかし、少女は視線を虚空に固定したまま、返事もしなかった。

「あなた、近所の子? 朝もここにいたよね? ずっと、ここにいるの?」

 私はいくつか質問を投げかけてみたが、やはり彼女は何も答えなかった。

「お名前は? 年はいくつ? どこに住んでるか、言える?」

「…………」

 ダメだ。少女はそう簡単に心を開いてはくれないようだ。諦めて帰ろうかとも思ったが、自分から話かけてしまった手前、ここで引き下がるのも具合が悪い。私はめげずに質問を続けてみることにした。

「お父さん、お母さんは? 近くにいるの? もしかして、迷子なのかしら?」

 相変わらず、だんまりだった。

 だが、ここで少し、彼女の様子に変化があった。「お母さん」という言葉が出たとき、一瞬だけ視線を虚空から移し、こちらを見たのだ。

 目が合った。私はにっこりと微笑みかけた。しかし、少女は私が笑顔を作る前に、また視線を元の虚空に戻した。

「やっぱり、迷子なのね? 私も一緒にお母さんを探してあげようか」

 私は手ごたえを感じて、さらに話を続けた。

「お母……さん……」

 少女が初めて声を出した。絞り出すような声だが、幼い女の子の声だった。

 私は彼女の声を聞けたのが嬉しかった。そして、これなら話を聞いてくれるんじゃないか、と思いまた先程の質問をした。

「お名前、教えてくれる? その方が、すぐにお母さん見つかるよ」

「…………」

 少女は再び沈黙した。

 やっぱりダメか、と私は一瞬がっかりした。だが、彼女はただ黙ったわけではなく、下ろしていた手を前に伸ばし、一点を指さしていた。

 少女は川を指差していた。川面は、もうすぐ日が沈むからもうお帰りなさい、とでも言うように、綺麗なオレンジ色の光をちらちらさせていた。ただ、それだけだった。

「川? そこに、何かあるの?」

 私は川に移っていた視線を元の少女がいた方に戻して言った。

 少女は、既にいなかった。

 二度と、姿を現すことはなかった。


 数日後、ひとつのニュースが私の耳に飛び込んだ。

 家出した少女が発見されたというニュースだった。

 ただ、その少女は既にこの世のものではなく、持ち物や服装でわかったということだった。少女は橋の上から川に転落したものと推測される、とのことだ。

 よくあるニュースだ。いつもなら、聞き流していたものだった。だが、いつもと違うのは、その事件が、私がいつも通っているあの橋の近くで起こったということだった。

 数日前にあの少女がいた、あの橋だ。

 少女と母親は喧嘩して、その直後に家を飛び出したのだという。早い反抗期だった。母親はすぐには娘を探さなかった。意固地になって、もうあんたなんか知らない、と突き放した。だから、そのまま放っておいた。どうせすぐに帰ってくるでしょ、などと考えていたのだ。母親は後悔していた。冷静に考えてみれば、小学校低学年の女の子を一人で外に放り出す危険性はすぐにわかるものだ。ただ、喧嘩した直後は、冷静さを欠いていた。そんな当たり前のことも思いつかなかったのだ。

 喧嘩した理由はわからない。報道では語られなかったからだ。些細なことだったのかもしれないし、とても重要なことだったのかもしれない。私はそれを想像することしかできない。ただひたすら「ごめんね」と謝り続ける母親の姿が、とても印象に残っている。

 私は、あの少女もきっと後悔していたのだと思う。何故なら、母のことをたずねたとき、少し反応を見せたから。きっと、あの子も母親に謝りたかったのだろう。彼女の指さした川面が私の脳裡に浮かぶ。きっと、少女にとってはただの川ではなく、彼女と母親を繋ぐ何か意味を持つメッセージなのだろう。

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橋の下の少女 亀虫 @kame_mushi

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