第35話 想いの軽重

「傷だらけじゃねぇか!」

 湯気が立ち込める浴室に、ヴィオラの悲鳴が反響する。

 キルハルスの屋敷に一泊することになった三人は、貸し与えられた風呂で一日の汚れを落としていた。大衆浴場のような大規模施設を除けば最大級の広さ。三人が一度に肩を並べて浸かっても湯船に余裕がある。


「お嬢の玉の肌が……」

「大袈裟ですよ」

 慌てふためくヴィオラとは裏腹に、ローザリッタは平静に答えた。湯で温められた体のあちこちに打ち身や擦過傷が浮き出ている。もともと肌が白いだけに、擦り剝けて赤くなった箇所がひときわ目立っており、何とも痛々しい。


 此度の御前試合は、あくまで技を競うという側面から木刀が用いられた。

 とはいえ、真剣に比べれば死に至る危険が少ないというだけで、木刀も凶器であることに疑いはない。それを互いに全力でぶつけ合っているのだから、怪我の一つもするのが道理というものだ。切っ先が軽く掠っただけでも乙女の柔肌を傷つけるには十分なのである。


「実家にいた時は、こんなのしょっちゅうだったじゃないですか」

「そりゃそうだけどさ……」

 辺境の旅は過酷ではあるものの、リリアムという先達による案内があるため、道中で負傷することはあまりないかった。鍛錬の時間をそのまま移動に当てているのだから、武者修行に出る以前、日がな一日稽古に明け暮れていたころに比べて生傷は減ったと言っていいだろう。


 そのため、日を重ねるうちに自然と乙女らしい艶やかな肌が戻ってきていたのだが――だからこそ、ヴィオラは主の久々の満身創痍ぶりに驚いている。


「背中まで赤くなっているわね。地面でも転がったの?」

「はい。膠着状態から突き飛ばされました」

「……なるほどね」

 得心がいったようにリリアムは頷いた。

 それは女剣士の命題だ。いくら鍛えようと女の筋肉では限界がある。男のような上背も獲得できないし、重くもならない。巌の如きシャーロウの突進を前に、ローザリッタ程度の質量では北風に吹かれる木の葉も同然だろう。


「悔しいです。女の体は、どうしてこんなに非力なんでしょうか……」

 ローザリッタはぐっと拳を握る。腕の筋肉が張り詰め、上腕に力こぶを作った。誰よりも強くなるべく十六年間、鍛え続けた肉体。だが、それもシャーロウのいかにも男性的で屈強な体つきと比べれば――どうしても、か弱く見える。


「そういうものなんだから、しょうがないでしょ。でも、それを覆すのが技術ってものじゃない?」


 優れた体格は確かに戦闘において有利に働く。が、それだけでは勝利に直結しない。体が大きいだけで勝てるほど戦いが単純であるならば、技術が発展する余地がないからだ。


 例えば、太刀の部位に物打ち処と呼ばれる個所がある。

 太刀というものは、当たればどこでも斬れるというわけではない。その攻撃力は切っ先三寸に集約しており、それより前でも後でも威力は減衰する。絶大な切れ味を持つ太刀であろうと、物打ち処以外では一撃で致命傷を負わせることは難しい。いかに自分の物打ちが相手を捉え、相手の物打ちから外れるように位置取りするのが間合いの奪い合いだ。


 体躯に優れる者は、劣る者に比して間合いが長い。一方的に攻撃を仕掛けられるのだから、尋常な立ち合いにおいては非常に優位なのは間違いない。しかし、一度でも間合いの内側への侵入を許してしまうと、今度はその優位を支えていた長い腕が仇となる。近距離からの攻撃に対して、長い腕は防御に不向きだからだ。


 体躯に優れる者は相手が懐に入るのを阻止することで、逆に体躯に劣る者は懐に入ることで勝ちを得る。双方に勝ち筋が存在する以上、あくまでそれを掴み取る技術の問題だ。体格はあくまで利点、あるいは欠点の一つでしかないのである。


「それは、そうですが……」

 それでも、ローザリッタは歯切れが悪かった。

 理屈はわかっている。わかってはいるが――どうしても、思ってしまう。技術面が拮抗していれば、やはり最後は体格勝負になるのではないのか、と。


「無い物ねだりをして手に入ったためしはないわ。そんな時間があるなら、もっと技を磨きなさいな。……それで、結局どうするの? まさか、本当にお婿さんになるんじゃないでしょうね?」

 本題と言わんばかりに、リリアムが話題を変えた。


「心の病なんて、いつ治るかわからないわよ。現状、あなたしか適任がいなかったとしても、易々と引き受けるのはどうかと思うわ」

「いえ……最終的には、断ろうとは思っています」

「そ。なら、初めから断るべきだったわね」

 きっぱりとリリアムは言った。


「マウナさんの境遇には同情するし、あれだけ頭を下げられて断り辛かったのもわかるわ。でも……希望を持たせてしまう方が、かえって酷な時もあるわよ」

「それは……そうかもしれません……」


 否定はできなかった。

 あの時、きっぱりと断れなかったのはローザリッタの心の弱さだ。

 自分の都合で何かを切り捨てる。苦しんでいる誰かの助けから目を背ける。助ける相手を選別する。それは――全てを守りたいと考える彼女にとっては、ひどく勇気のいる決断だったのだ。


「……ていっ」

 俯いたローザリッタの頭に、リリアムが湯を掛ける。


「わぷっ……な、何をするんです!?」

「……自分のことのように背負い込みすぎるのは、あなたの悪い癖よ。あっちに事情があるんだったら、こっちにだって事情がある。そのどちらが重くて、どちらが軽いかなんて誰が決めるの?

 もし、個人が抱える事情とやらに軽重や優劣があるのだとすれば、そもそもあなたは旅に出ちゃいけなかった。だって、あなたの誰よりも強くなりたいという想いより、男爵家の後継ぎとしての責務のほうが重いのは明白じゃない」

「そ、それは……」

「他人から見れば、あなたの言っていることなんてただの我が儘よ。それでも、あなたには譲れない何かがあったから、ここまで来たんでしょ?」


 ローザリッタは息を呑んだ。

 その通りだ。自分は家の事情も、周囲の想いも断ち切って旅に出ている薄情者ではないか。そういう浅ましい人間だったではないか。自分のことを棚に上げて、事情の軽重に苦悶を覚えるなど十年早い。


 そして、それはリリアムもそうなのだ。

 母親の仇を討つためとはいえ、女の一人で世界を巡る。それがどれだけ危険なことであるか。周囲の人間であれば止めるだろう。それでも、彼女は――


「……腑抜けていました。その通りです。わたしは何よりも自分の想いを優先したからこそ、ここにいる。ここでわたしが生き方を曲げてしまえば、それはこれまでのわたしの行いを無為にしてしまうところでした」


 アコースでの騒動を思い出す。

 ローザリッタとの出会いが、眠っていたはずの略奪の女を目覚めさせてしまった。それは彼女が己の都合を優先したことに起因する、だ。


 その果てに、あの街で知り合ったデストラは利き腕の自由を失った。それは剣術遣いである彼にとって、どれほどの悲劇だろう。それなのに彼は『間が悪かっただけだ』と笑い飛ばし、旅の無事を祈ってくれた。ここでもし、自分が武者修行を辞めてしまえば――彼の気持ちを台無しにしてしまうではないか。


 この旅は自分の我が儘で始めたもの。だから、これまで歩いてきた道のりを否定することだけはできない。


「……ありがとうございます。リリアムには、本当に教わる事ばかりですね」

 しっとりとローザリッタが微笑んだ。


「と、友達に喝を入れるのは、当然でしょ」

 真っ直ぐな笑みを向けられ、リリアムはそっぽを向く。頬が紅潮していたのは、何も湯に浸かっているからだけではなさそうだった。


「ま、やっこさんが欲しいのは、あくまで当主を負かせる婿だ。お嬢が普通に負ければ、どのみちお流れ。シャーロウとかいう二番手に苦戦するようじゃ、案外、それが一番可能性が高いかもな」

「かも知れません。ですが、手は抜きませんよ。ストラ地方最強と手合わせせずにこの地を去るなんて、わたしの事情的にももったいないですから」

「……抜いておけば断りやすいのに。真面目ねぇ」

 やれやれ、と言わんばかりにリリアムは頬杖を突いた。

 けれど、ようやく、なってきた。


「断りやすいと言えば、リリアム先生。今日の夕餉は控え目に頼むな」

「え? どうしてよ?」

「……断る前提なのに、ばくばく飯食ったら面の皮が厚すぎるだろうが」

「――――」

 リリアムは絶望したように目を見開いた。


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