第16幕 Rosa

 私の評価は、生まれたときからほぼ一貫していた。

 普通。

 真面目。

 平凡。

 ただ、それだけ。

 特別に勉強ができたわけでも、特別に運動ができるわけでもない。致命的な欠点があるわけじゃないけれど、特出した能力もない。

 才能と呼べるものなんて一つもなかった。

 みんなができることを同じようにできるだけの、可もなく不可もない存在。内気で、地味で、なんの取り柄もない、ただの女の子だった。自分がいなくても、いくらでも代わりがいた。

 母親も普通。父親も普通。家も普通。どんな場所に行っても目立たない。女の両親は、自分の娘に輝かしい能力も、高貴な家柄も、華々しい社交性もないとよく嘆いていた。

 それでも、なんとか生きてきて、会社員になった。ありふれた、総務での事務仕事。毎日毎日、同じ日々の繰り返し。

 ─あまりにも平凡な人生だったから、そろそろ私にだってご褒美があってもいいのに。誰か素敵な人が現れて、幸せにしてくれたら。

 女はいつまでも若くありたかった。少女のままでいたかった。

 それは焦りでもあった。

 周りの同僚たちが次々と結婚していった。それにともなって、女の両親はしきりに結婚のことを仄めかすようになった。「あんたももう若くないんだから」と、母親は呆れたようによく溜息をついた。「早く孫の顔が見たい。結婚の予定はあるのか」。それが父の口癖だった。

 女はそんな両親が心底嫌いだった。

 あと3年で30歳になる。30歳を超えると女は価値を失うらしい。何も持っていない私が若さすら失うのなら、もはや生きている価値もなかった。

「真面目だけど、ちょっと地味だよね」

 殆ど仕事の延長みたいな、飲み会の最中に言われた言葉。それがとどめを刺したのかもしれない。翌日、会社へ辞表を提出した。

 そしてある日、死ぬことを決意して、カッターナイフを買った。

 目標もなく、楽しいこともない。ただルーティーンを繰り返すだけの日々を、もう終わりにしようと思った。

 死を意識した瞬間に少しだけ心が軽くなって、どうせ死ぬなら、一度くらい憧れた町に行ってみよう、と思い立った。

 そこは、仕事のことで精いっぱいで、一度も近寄ることさえできなかった、女が恋焦がれた街だった。

 駅を降りた瞬間、胸が高鳴った。ショーウィンドウに並ぶ華やかな服。雰囲気のいいカフェ。道を行き交う、洒脱な人々。垢抜けているのに派手過ぎず、カジュアルで、どこか独特の個性を感じる街だった。

 一度くらい、自分の本当に好きな服を着て、化粧をして、こんな街を遊び歩きたかった。今さらそれをどうしたらできるのか、分からなかった。

 街の往来をさんざんさ迷って、あっという間に夜になった。慣れない場所で歩き疲れて、静かな場所に行きたくなった。

 個人経営店やアートギャラリーが立ち並ぶ通りで足を引きずるように歩く。

 ふと、目に入ったバーの看板。階段が地下へと続いている。

 いつもなら、気後れして入れないような雰囲気の入り口に、妙に心惹かれた。

 女は殆ど無意識に階段を下りた。洞窟か、鍾乳洞のような岩肌が剥き出しになっていた。いくつか、古ぼけたランタンが吊るされている。おとぎ話に、こんな洞窟が出てきたような気がした。

 足の痛みに意識が現実へと引きずり戻される。

 今はとにかく、どこかに腰を下ろして足を休めたかった。それに、ここまできて引き返すのも負けたような気がして、半ば自暴自棄になりながら女は扉を引いた。

 チリン、とドアベルが鳴る。クラシカルな正装をしたバーテンダーが、女を中へと導いた。

「店内が暗くなっておりますので、お気をつけくださいませ」

「は、はい」

 薄暗い店内には、キラキラと光るものが沢山並んでいた。どうやら鉱石らしい。様々な色の水晶や、石、化石なんかが棚に飾られている。いくつか知っている宝石の名前もあった。

 みっともないとは思ったけれど、思わずあたりをきょろきょろと見渡してしまう。

 店内の照明を反射して、複雑に輝く石たち。その中に、ひと際目を奪われた煌めきがあった。

 息が詰まった。

 それは人の目だった。

 照明のせいなのか、その青年の瞳は鮮やかな青紫色をしているように見えた。

 失礼だとは分かっていても、目が離せなかった。

 目を合わせていると、その青年がふっと微笑んだ。花が咲くのをスローモーションで見たときのように、神秘的だった。

 しかし、次の瞬間には彼の瞳はこちらを見ていなかった。

 バーテンダーに声を掛けられ、その件の青年が座っているカウンター席に二つ空けて座った。注文をし、ちらりと隣を盗み見る。

 青年は黒い長髪をうなじで束ね、シンプルながら垢抜けた服装をしていた。少し着崩した、形の綺麗なシャツ。アンティーク調の鍵のアクセサリー。左手首には生花のブレスレット。

 瞳と同じ青紫色のカクテルを片手に、深く美しい声で、楽しそうにバーテンダーと話をしている。

「そういえば黒田さん、美味しいアブサンが手に入ったんですけど、如何ですか?」

「それは是非。ちなみにちゃんとニガヨモギは入ってるのかい?」

「もちろん。でも、ツジョンで中毒にはならないそうですから」

 黒田と呼ばれたその青年が上品に笑う。

 胸の鼓動が煩い。顔が、耳が熱い。爪先まで血が駆け巡る。まるで今までの自分は凍っていたのではないかと思うほどだった。

「どうぞ、ジントニックです」

「あ、ありがとうございます」

 頼んでいたジントニックがテーブルの上に置かれる。

 知っているカクテルなんてそれくらいしかなかったのだ。こんな時に、粋なカクテルをオーダーできたら、隣の青年の視線をこちらに向けることができたかもしれない。

 黒田は提供されたアブサンを堪能していた。指先の動きや、悪戯っぽく覗く舌に釘付けになりそうだった。

 そちらを控えめに盗み見ながら、タンブラーを傾けた。

 鼻先を擽るライムの匂い。甘酸っぱいシロップの味。舌先で弾ける炭酸。

 美味しい。

 乾いた喉が潤っていく。それと比例して、不思議な浮遊感は増していった。

 あっという間に酔いが回り、気が付くと、机に突っ伏して眠りこけていた。

「…お客様。恐れ入りますが、そろそろお時間です」

「あ…えっ、その、すみません…!」

 一拍遅れて状況を理解し、慌てて店員に謝った。この場所の不思議な夜の魔力に絆され、酒が回りすぎてしまったらしい。

 代金を支払い、女は立ち上がる。

 ふと、周りを見渡すと、あの青年はまだ店内にいた。彼もちょうど支払いを済ませ、立ち上がったところだった。

「あ…」

 声をかけたいのに、言葉が出ない。呂律が回らないからだろうか。急に恥ずかしくなって、ここを立ち去りたくなった。

 女は歩き出そうと踏み出した。しかし、足に力が入らない。重心を失う。

「おっと、危ない」

 とす、と何かにぶつかる。服越しの、引き締まった筋肉の感触。

 黒田の顔が近くにある。黒田に身体を支えられているのだ。身体が密着していることに気が付き慌てるも、相変わらず足に力は入らず、黒田に寄りかかる格好になる。

「す、すみません!」

 大きな掌に支えられ、女が自分で立ち上がると、黒田はすっと離れて微笑んだ。

「…途中までは俺が送っていこうか。女性を一人で帰すのも心もとない。もちろん、君が嫌でなければだが、如何かな」

「あ、あの、はい」

「…お任せしてもいいんですか、黒田さん」

 先刻、黒田と親し気に話していたバーテンダーの一人が、黒田にそう声をかけた。

「いいよ。ただしこれは貸しだからね。後で、とびきり美味しいシャンパンを用意してもらおうかな」

 黒田が悪戯っぽく笑い、目くばせする。バーテンダーたちに手を振ると、ドアを開けて女を先に通した。

 地上へと繋がる階段を上る。

「失礼」

 黒田の手が背に軽く触れ、支えた。

 そのわずかな時間でさえ、彼は私が転ばないように注意を払った。こんな風に夜遊びをしたことなど一度もなかった。そしてまさか、こんなにも素敵な男性と夜道を歩く日が来るなんて、夢のようだった。

 夜の空気を吸い込む。ふわりと甘い匂いがした。香水だろうか。花の匂いと、とろりと甘い、蜂蜜のような匂い。

 地上に出る。夜風が火照った身体に心地良い。

「君はこれからどうするの?」

 突如黒田にそう尋ねられ、女は慌てた。

「え、その、どこかホテルにでも泊まっていこうかと…」

 黒田が頭を振る。そして優美にくすっ、と笑った。

「違うよ。俺が聞いているのはそういうことじゃない」

 そこで男は一度言葉を切ると、私の目をじっと見た。そして、自分のトレンチコートのポケットから、何かを取り出し、ペン回しのように器用にそれをくるりと回転させた。それは自殺するために、昼間買ったカッターナイフだった。

「あっ、それは…!」

「少々君の鞄を拝借して持ち物を見せてもらった。…護身用にしては随分とひ弱だ。こんなものを用意して、どうするつもりだったんだい?」

 口が上手く動かない。

「ふふ、当ててあげようか。これで君は手首か、足首か、首を切って自殺しようとした」

 黒田の手に握られた、刃が出ていないカッターナイフの先端が喉元をなぞる。

 どくり、と心臓が強く脈打つ。

「どうして…」

「気が付かなかったかい?君、カウンターで泣きながら眠っていたんだよ」

 さっと目元に手をやると、渇いた涙の感触があった。しかしそんな記憶はない。自分が思っていたよりも遥かに泥酔していたらしい。

「話くらいなら聞いてあげられるよ」

 黒田が優しく、甘く、耳元で囁く。

「…ほんとう、ですか」

「ああ」


 こうして、私と彼は出逢った。

 最初は本当に、ただ優しい人なのだと思った。けれどある時から、彼が秘密結社を組織し、自殺幇助を行っている、本物の裏社会の人間だということを聞いた時。

 その花の顏が隠し持った棘アンダーザローズに、どうしようもなく惚れ込んでしまったのだ。

 これは恋だった。紛れもない、恋心だった。生まれて初めて、本物の恋をした。

 今ままで何も持っていなかった私が、たった一つ手に入れたもの。それが、貴方への恋心でした。

 貴方のことを考えている間は、楽しかった。本当に楽しかった。

 もっと彼のことを知りたくて、彼が愛しているという本を読み漁った。その中身はほとんど分からなかったし、もはや苦痛ですらあったけれど、それでも彼と話がしたくて、その文章をたくさん覚えた。彼のために、たくさん頑張った。組員として、彼の右腕になりたい。それだけが私の望みだった。

 次第に彼は組織の仕事を任せてくれるようになった。最終的に、私はある麻薬密売組織との二重スパイとして活動をするようになった。余計ないざこざを起こさないための調停役であり、牽制をするための役割だった。そしていずれは、その組織を根本から潰すための、黒田の手駒として。

 楽な役割ではなかった。こんなにも、苦痛に耐え忍んだ。

 それでもいつかきっと、その努力は彼に認めてもらえると信じて。

 ああ、それなのに。

 どうして。

 彼の隣にいるのは、私ではなかった。

 久しぶりに、彼からもらった花を、彼に見せにいった。最近は会話もほとんど弾まず、彼が私の話に退屈している気がして。どうにかして彼の視線を奪いたくて、必死だった。出会ったばかりのころの関係は戻ってくる由もないのだと、頭のどこかで予感しながら、彼の元へ向かった。

 忘れもしない。

 店に入って、一瞬身体が硬直した。

 白髪の青年が振り返った。少年かもしれない。ほの暗い店内で、黄緑色の燐光が宝石のように煌めいた。

 この人は誰?なぜこんな時間までこの店にいるの?いつも従業員はすぐに帰らせているのに。それにそのエプロンは彼が持っていたもののはず。どうしてお前がそれを着ているの?髪と瞳がその色だということは、『カナリア』の幹部なのかしら?でもそんなことは誰も言っていなかった。屋敷にだっていなかった。

『最近雇ったバイトの子だよ』

 嘘おっしゃい。貴方にしては随分と詰の甘い嘘じゃない。じゃあ、彼のあの姿はなに。猜疑心は沸き続けた。

 しかし、そんなことを彼に言えるはずがなかった。これ以上、彼に疎まれたくなかった。

 私は、あなたの傍にいたいのに。あなたの抱える孤独を癒して上げたいのに。

 突然現れた白髪の青年に、全て奪われた。

 ─どうして、私ではだめなの。

 彼が、深谷綴というあの青年を、私から庇っているのだと知った。だから、直接聞き出してやろうと思ったのに。

 奴はあろうことか、店の二階にある、あの人の住まいから出てきた。どうしてそんなに親しげに話しているの。どうしてそんなに近くにいるの。

 ごく稀に、気がつかれないように、あの人の細くて長い、美しい指先があの青年の白髪を梳いているのを見てしまった。

 声を上げて泣き出しそうだった。

 その後も奴は頻繁に彼の部屋を訪ねていることがわかって。

 彼をそんな風に親しげに呼ばないで。

 彼はとてつもない人なの。釣り合う人なんていないの。彼を信仰し、様々な義務を果たしてやっと近づくことができる、神様みたいな人なの。力と美貌と頭脳、全てを備えた素晴らしい人なの。

 無礼よ。身の程知らず。

 私だけじゃない。『カナリア』に所属する人間が、どれだけ彼を信仰し、崇拝し、務めを果たしてきたのかをお前は知らないのよ。そんな人に、大学のサークルの先輩みたいに、馴れ馴れしく声をかけないで。

 なぜ、私はそちらへ行けないの。

 必死で彼のために尽くしてきた。きっといつか、彼の右腕として、彼の側にいたかったから。だから、他の組織との二重スパイだなんて汚れ仕事を引き受けていた。

 それなのに。

 貧弱な、真面目以外に取り柄のなさそうな、ぱっとしない、普通の青年に、その場所を奪われた。

 彼があの青年を見るときの視線は、他の幹部を見るときの視線とも違った。そこにはある種の情熱がこもっていた。信じたくなかったけれど、私にはすぐに分かった。だって誰より彼のことを見ているのだから。

 そんな。彼が。彼ともあろう人が、ただの人間に現を抜かすなんて。完璧だった彼が、そんな程度の人間に絆されるなんて。

『カナリア』の組員と幹部との間には、明確な線引きがあった。なぜか、三人だけは特別だった。まぁ、そのうちの一は除名されてしまったけれど。

 大庭睦ジギー、彼が黒田と近しいのは理解できた。彼は今残るメンバーの中では最も黒田と付き合っている時間が長かった。単純に彼には力があったし、仕事の能力も高かった。

 二ノ宮煌アンジェラ、彼女が黒田に贔屓にされているのも理解できた。彼女には比類なき芸術の才能があった。黒田は『カナリア』の中で、特に創作活動を行う人間を愛玩していた。だから、納得はできた。

 でも、あの深谷綴という青年に、一体どんな力があっただろう?

 強い力があるわけでもない。美しい絵が描けるわけでもない。楽器の演奏ができるわけでも、歌が歌えるわけでもない。

 彼のことを調べれば調べる程、その人生は自分とさして変わらなかった。経歴に並ぶのは学歴と資格だけ。

 悔しかった。

 あの青年が選ばれるのなら、私にだって、何の才能もない私だって、きっと選ばれるかもしれなかったのに。

 嗚呼、私があの人ためにしてきたことは。私の努力は。

 服も綺麗にして。お化粧も覚えて。慣れない花屋の仕事も時々こなして。裏社会と呼ばれる場所にまで足を突っ込んで、彼のために、必死に努力してきた。家族も、友人も、彼以外の全てを捨てて、二度と戻れぬ場所まで来た。

 私がかけてきた時間は。

 悔しくて仕方なかった。嫉妬が吹き出てどうしようもなかった。

 こんなにも我慢してきた。

 こんなにもいいこにしてた。

 それなのに、それなのに。どうして。

 全部貴方のためだった。

 あの運命の日から、ずっと。

 ああ、アリスタイオス様、いいえ、黒田馨様。私は貴方に恋をしました。

 どうか、あの頃の私だけに優しい、神様みたいな貴方に戻ってほしい。あの青年がいなければ、貴方に近づかなければ、貴方は汚されぬままだったかしら。

 今となっては、あなたが憎い。

 もう、いい。もうたくさん。

 全部壊してやろうと思った。『カナリア』を裏切り、自分が知っている限りの、彼の大切な情報を、色んな組織に売ってやった。『カナリア』の組織構造、幹部たちのこと、秘蜜のこと、本拠地の屋敷のこと、そして、深谷綴の存在。

 深谷綴ブランコ─彼は言わば、黒田にとってのアキレスの踵だった。

 黒田と綴の間に、一体どんな約束があるのかを春香は知らない。だが、黒田が綴の存在の秘匿に躍起になっていることだけは確かだった。だから、綴を攫えば、必ず黒田が動くと思ったのだ。

 そして今、深谷綴はここにいる。

 黒田の元に、最も力のある三人を向かわせた。黒田を拘束した上で、彼の目の前で綴を痛めつけてやるのだ。靴を舐めさせ、蹴り飛ばし、順番に爪を剝いでやる。彼らの抱える秘密を暴き出し、『カナリア』という組織を破壊し、強欲なハイエナたちが蔓延るこの裏社会に、秘蜜をばらまく。

 そして最後は、あの人と一緒に死んでしまえばいい。黒田を刺し殺したナイフで、自分も死んでしまえばいい。その後のことなどどうでもよかった。

 忌々しい、けれどとてつもなく澄んだ、美しい黄緑色の瞳が不安そうに私を見上げてくる。改めてこの瞳を見て、不覚にも感動してしまった。あの人は、この青年の目が好きなのかしら。

 ─それならば、目をくり抜くのは最後にしましょう。


「”花の顔にかくれた毒蛇の心!それにしても、あの恐ろしい竜が、こんな美しい洞窟に住んだ例があるのかしら?麗しの暴君!天使のような悪魔!鳩の羽根をつけた烏!狼のように残忍な子羊!姿は神に似ながら、心は見下げ果てた根性!とにかく見かけとはまるで正反対の、いってみれば、地獄の聖者、名誉高い大悪党!おお、造花の自然よ、この世の楽園とも見紛うあの美しい身体の中に、これはまた悪魔そのままのあの魂を宿らせたからには、さぞかし地獄では、大騒ぎだったろうと思うわ。それにしても、こんな汚い内容の書物に、こんな美しい装丁がされた例があるのだろうか?ああなんということ、あの美しい宮殿の中に、こんな偽りが住んでいようとは!”」

 陶酔したように春香がそう叫ぶのを、綴は黙って見上げていた。

 春香の口から語られた彼女の人生に、綴は事の事態を大方把握し始めていた。

 綴の胸に沸き上がったのは、憤りでも恐怖でも復讐心でもなく、彼女に対する憐れみだった。

 ─僕は、彼女がたった一つ縋っていたものを踏みにじってしまったんだな。

 春香は繰り返し言った。自分には何もない、と。

 愛するもの、信じるもの、縋るもの、あるいは魂を昇華する方法─そういう何かを持ち合わせていない人間は脆い。それは支柱無き朝顔、土の上の睡蓮だ。ほんの数か月前まで、綴もそういう人間だった。自分がそういう人間なのだということすら、気が付かなかった。

 彼女の人生を想像する。彼女は、自分の好きなことを好きだと言えただろうか。嫌なことを嫌だと言えただろうか。自分の魂をありのままに受け取ることが許されていただろうか。

 涙が零れる。

「あら、やっぱり泣くのね。怖くなっちゃったかしら」

「…苦しかっただろうな、って」

「は?」

「貴方が、苦しかったんだろうなって、思ったんです」

 春香が涙を流す綴をまじまじと見つめる。

 突如、部屋の外で数人の男の怒号や悲鳴が聞こえた。次いで何かが倒れる音がする。いくつも、いくつも。何人もの声が、ふつりと切れて静かになる。僅か数分にも満たない間のことだった。

 あまりにも静かすぎて、何が起きたのか、こちらからは分からなかった。

 音も無く扉が開く。

「ごきげんよう、諸君」

 聞き慣れた声が部屋に響いた。

 春香が振り返る。

「っ、黒田さん…!」

 青紫の瞳と視線がぶつかる。

 マダム・ヘクサを肩に乗せ、黒田がそこに立っていた。背後に、ハナバチの群衆を引き連れて。

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