第15幕 Marigold

 ─やっぱりそうなるよな。

 綴は窓を開け放った自室で、スマートフォンの画面を切った。敷きっぱなしの布団に、仰向けに倒れ込む。

 百合からの連絡が、いつの間にか来なくなっていた。

 告白された瞬間から、上手くいくわけがないと思っていた。その予感が当たっただけだ。

 多分、飽きてしまったのだろう。自分のような冴えない男が、隣にいて楽しいわけが無いのだ。あまりにも釣り合わなさすぎる。

 つまらない、そう思われ、実際に言葉にされることのほうが、綴にとっては苦痛だった。いつかは、失望される。いつかは、責められる。

 彼女との関係が切れた今、言葉の刃が振り下ろされる瞬間を待つ必要はなくなった。斬首台から逃げ出すことに成功したのだ。だから、もっと正直に言ってしまえば─そう、安心した。

 きっと、彼女は元のにぎやかな、幸せな世界へ帰っていくだろう。

 彼女が幸せに過ごせているならそれでよかった。百合ともう会えないとなると、それはそれで寂しい気もしたが、話していて疲れてしまうのもまた事実だった。

 あまりにも隠し事が多すぎた。

 彼女と会うためには、それなりの充電期間が必要だった。百合が不機嫌になったり、怒りを露わにしたことは一度もない。何かがあったわけではない。むしろ彼女は優しく、穏やかで、大人びていて、よく気が利いて。

 それでも話せば心が磨り減る気がした。彼女と出かけた日の夜は涙が出た。あの言葉は余計だったな、とか、あそこできちんと自分の意見を言えていれば、だとか。

 何より、即自的な、その場限りで消費される会話が苦手だった。自分の言葉がどんどん陳腐になって、軽薄になっていくのが嫌だった。当たり障りのない言葉を垂れ流す自分が嫌だった。どれだけ彼女が自分を楽しませてくれようと努めているかはわかっていても、その気軽さに、心が、魂が体の内側で抗っていた。

 彼女は何一つ悪くなかった。自分の性根が、自分で思っている以上にひねくれているというだけの話だった。それが申し訳なくて、どうにも罪悪感が拭えなくて、益々泣いた。自分の会話の、態度の、行動の稚拙さを恥じた。

 そういう日々から解放され、元の、静かな、気楽で、冷たく孤独な生活を送れることが有難かった。もう、通知に、電話に、予定に、時間に、約束に、彼女の表情に怯えなくてもいい。”床に寝ていれば、ベッドから落ちることはない”。

 寝転がり、窓から青い空を眺める。差し込む光が眩しい。目を閉じると、秋特有の澄んだ風を感じた。

 黒田から貰った給金で買い換えた敷布団は随分寝心地がよかった。

 自分をずるいな、と思う。彼女の告白を是認しておきながら、結局彼女の方から離れてくれることをただ待っていたのだから。

 ─この、意気地なし。

 自分で自分をそう罵倒した。その瞬間、背後からその言葉を肯定するように、数人の少女の声がして、綴をはやし立てた。

『意気地なし』

『男の子なのに泣いてる』

『情けないとか思わないの』

 甲高くキャラキャラと笑う声を思い出す。

 髪をぐしゃりと掴む。そうしないと泣き出しそうだった。

 ─分かってる。分かってるよ。そんなことくらい。惨めで、情けなくて仕方ないんだ。もう、わかってるから。

 ああやっぱり、初めから断っておけば、彼女に迷惑をかけることも、自分がこんな風になることもなかったのに。

 百合との離別を有難いと思いながらも、このことは数日間綴を悩ませていた。

 綴は身体を起こした。机のペンケースの中から、シャープペンシルを取り出す。ノートを開き、ペンを走らせる。

 もうすっかり習慣になったこの時間。文字数はさほど多くはなかったが、それでももう幾度もこうして手記を書いた。ただの散文は詩になったり短い小説になったりした。

 だが、この試みですら、必ずしも上手くいくわけではなかった。今日もそういう日だった。

 一度は確かに満たされたはずの心が、また乾きだす。文章を書けば書くほど、何かが違う。終いには涙が出て、無理やり紡いだ黒い文字が滲んだ。

 涙を流したまま、顔を上げる。雲一つない、どこまでも澄んだ空を眺めた。夏がさほど好きという訳ではなかったけれど、夏が終わるこの季節はどこか寂しいような気がする。乾いた青い風が、涙の上を冷たく撫でた。

 苦しい。

 言葉にしたいことが言葉にならないことは、こんなにも苦しいことだっただろうか。

 いつだったか黒田が言った。言葉こそ最も難しい芸術だ、と。綴はその意味を今苦々しく体感していた。

 この胸の中に満ちる悲しさに、一体どうしたら形を与えることができるだろう。

 ちらりと、額装して壁に飾った絵を見る。以前煌が謝罪の名目でくれた絵だ。

 ”烈火のごとく怒る”とは彼女のためにある言葉だとすら思う。そんな彼女が描き出す絵は、とても彼女が描いたとは思えないほどに繊細で哀しい。きっと、彼女にも悲しい過去があるのだろう。そうでなければ、芸術に頼る必要なんかないはずだった。

 煌も、大庭も、屋敷にいたあの人たちも、そして既に自ら命を絶った人たちも。きっと、失った自分の魂の欠片を拾い歩いて、歩いて、歩き疲れてここへやってきた。ふらつき、もつれ、足を引きずって、黒田が用意してくれた花園へとたどり着いた。

 ──いつの時代にもそういう人たちがいる。それが俺たちの正体だ。

 黒田の声が脳裏に浮かぶ。

 急に、黒田と話をしたくなった。何か目的があるわけではない。ただ、彼と話をしたくなった。たまには、そういうのも許されるだろうか。

「なに?出掛けるの?」

 机の端で昼寝をしていたマダムが、億劫そうに羽を羽ばたかせる。

「あ、はい。ちょっと黒田さんのところにお邪魔しようかなぁって」

「そう」

 多分、今は仕事中のはずだ。もう少ししたら部屋に邪魔して、本でも借りよう。

 ノートと最低限の荷物だけ持って、家を出た。


「あれ?今日休みだったっけ」

 店の扉にはclosedと書かれた看板がかかっていた。

 マダムがリュックのポケットを這い出て、辺りを浮遊した。

「特に何かあったわけではないようだけど…そうね、部屋で寝てるみたいだわ」

「風邪ですか?」

「さあ」

 マダムが玄関へと向かう。その後に続いて綴は階段を昇る。

 念のためインターホンを押し、ドアをノックしたが返事は無かった。黒田がくれた合鍵でドアを開け、扉を開く。

「…お邪魔します」

 施錠してから靴を脱ぎ、フローリングの上を歩く。リビングのドアを開けると、濃いアルコールの匂いがした。

「黒田さん…?」

 返事はない。

 部屋を見渡すと、長い黒髪がちらりと見えた。

 黒田はソファーの上で眠っていた。

「うわっ…すごいなこれ」

 傍のテーブルには大量の酒瓶が置いてある。全て空になっているわけではないが、相当な量を飲んだことが窺えた。

「風邪引きますよ、黒田さん」

 顔を覗き込んでも反応は無い。

 酒瓶の間に気になるものがあった。ノートだ。ページが開きっぱなしになっている。その上に、落書きのようなのたうった文字がある。酔っぱらいながら書いたのか、殆ど文字ですらなかった。最後のあたりは幼稚園児がクレヨンでめちゃくちゃに落書きしたみたいに、異常に濃い筆圧で塗りつぶされていた。

 近くに折れた鉛筆が転がっている。

 他のページも気にはなったが、人のノートを勝手に見るのは気がひけた。静かに畳んで、机の端に置く。

 黒田が身動ぎした。

 長い睫毛に縁取られた瞼が開く。

「あの、おはようございます。あとお邪魔してます」

「…ああ、君か…。おはよう」

 そこにいつもの微笑はない。

 まだ意識がはっきりしないのか、黒田の視線はぼんやりとしたままだ。

 この表情をどこかで見た。

 そう、煌が作っていた黒田の像だ。あの像と、同じ表情をしている。今やっと、納得した。しかしあの像よりももっと、虚ろで、恐ろしい夢を見たあとのように、あるいは迷子になった子供が途方にくれるように、放心しているようだった。

「あの、体調とか、大丈夫ですか」

 まだ眠たいのか、言葉の意味を理解するのに骨を折っているようだった。

 黒田が何度かゆっくりと瞬きをする。

「…少し飲み過ぎたんだ」

 中途半端に開けられた酒瓶に目をやる。これだけの種類の酒を一度に飲んだら流石に誰でも酔うだろう。

 黒田の目が、先ほど端に置いたノートに留まる。

「ノート、中身を見たかい?」

「いえ、勝手に見るのはよくないかなと思ったので…開いてあったページだけは見ちゃいましたけど、それ以外は見てないです」

「…そうか」

 黒田が、少しだけ息を吐き出した。

「…君はそのままでいてほしいな」

 辛うじて聞き取れるほどの声で、黒田が呟く。そして指先で軽く綴の髪を鋤いた。

「黒田さん、結構酔っぱらってます?」

「そうだね」

「今日、体調悪かったんですか?何かできることがあればやっておきますけど…」

「いや、問題ないよ」

 黒田が微笑し、身体を起こす。

「それはそうと、君、今日は休みだったろう?何故うちへ?」

「いや、なんというか、なんとなく、会いたくなって」

 黒田がくす、と笑った。

「ならゆっくりしていくといい。ちょうど君に見せたいものもある」

 そう言って黒田は立ち上がり、本棚から絵本を取り出して綴に手渡した。タイトルは『The book of the bunny suicides』─自殺うさぎの本。うさぎの耳が、電源を入れたトースターの中から飛び出ている。ぱらぱらと捲ってみると、どのページにもどうにかして自殺しようとするうさぎの姿がある。不謹慎だとは思いながらも笑ってしまう。

「黒田さん、本当にこういうの好きですね」

「君も嫌いじゃないだろう?」

 綴が絵本の表紙を眺めている間、黒田が二人分のグラスに赤ワインを注いだ。

「え、ちょっ、飲みすぎたんじゃなかったんですか」

「もう醒めたよ。それに君がまだ素面じゃないか」

「そういうことなら…」

 グラスを軽く打ち合わせ、中身を口に含む。それから黒田が用意したチョコレートを齧る。濃く甘いチョコレートと、タンニンが絡んで舌に広がる。

 やはり夜は心地いい。黒田が相手なら尚のこと気が楽だった。

 綴は有難い気持ちで、借りた絵本のページを捲った。


 彼と一緒に飲むと、いつもあっと言う間に時間が過ぎてしまう。いつの間にか日付が変わり、彼の部屋を後にしたのは結局夜の二時頃だった。

「大丈夫かな、黒田さん」

「あなたよりかは丈夫よ」

「…それもそうですね」

 マダムが姿を隠した。

「マダム?」

「ポスト、花が入ってるわ。気を付けて」

「?」

 恐る恐る、ポストを開ける。

「なんだこれ…?」

「マリーゴールドね」

 マリーゴールド。黄色の花は嫉妬のシンボルであることが多い。

 嫉妬?一体誰が。

 その瞬間、マダムがぶぅん、とひと際大きな羽音を出した。その音が警戒を示す音だと、考えずとも理解した。

 咄嗟に振り返ろうとしたが、後ろから人に口を塞がれる。身動きが取れない。それでも何とか藻掻く。だが力の差か、大した抵抗にはならなかった。

「おい、こいつ全然落ちないぞ」

 背後の男がそう苛立たし気に言う。

「殴って気絶させておきなさい」

 続いて女の声が聞こえた。

 まずい、そう思った瞬間、ガツン、と鈍い音がし、後頭部に鈍痛が広がった。

 身体がぐらつき、綴は地面に倒れた。視界の端に、金色の閃光が消えた。

 意識を失う寸前、この騒動の主犯とおぼしき人と目があった。

 この人は。

 以前黒田の店に唐突に現れ、盗聴器をしかけた、あの女性だった。


「ごきげんよう、

「っ…あなたは」

「お久しぶりね。お元気そうで何よりだわ、深谷綴君」

 綴は目だけで辺りを見渡した。手首も足首もそれぞれまとめて捕縛されている。徐々に状況を理解し、身体が緊張に強張った。

「ここは…」

「知りたい?知ったところでどうするの?」

 嘲りを込めた声音で、女が口角を上げる。

「今のあなたには何もできないわ。彼が来るまで大人しくしていなさい」

 綴は女の顔を見上げた。

「あらためて自己紹介をしなくちゃいけませんわね。白石春香しらいしはるかといいます。私のこと、覚えていてくれたかしら」

 その女─春香は長いスカートの裾を摘まみ、令嬢のように挨拶をしてみせた。その様子がどこか演技がかっていて、ほんの少しだけ違和感があった。

「…その、お久しぶりです」

 すっかり油断していた。それどころか、この女性の存在すら、たった今まで忘れていた。

 世間が母の日一色になる5月の前半、黒田の店を訪ねてきた女性。彼から貰ったというカーネーションを育て、ブーケにし、その中に盗聴器を仕込んだあの女性だ。

 しかし、予見できていた分、気持ちは落ち着いていた。黒田が繰り返し忠告してくれたし、「事が起きたら必ず助ける」と彼が言っていたのだ。今僕がすべきことは恐らく、彼が動くための時間を稼ぐことだ。幸い、口は塞がれていない。こちらに敵意がないことを示し、できる限り油断してもらうのが得策だ。

 静かに息を吐き出す。それでも身体の震えは止まらなかった。

「…随分余裕そうね。またメソメソ泣きだすかと思ったのに」

 ふん、と春香が鼻を鳴らす。

「…まさか。…その、せめて、僕の罪状を教えてはもらえませんか。本当に、覚えがないんです」

 ヒュッと空気を切る音がして、腹に衝撃が来る。

「っぐ…!」

 慢性的な嘔吐によって逆流しがちな食道から、胃液が上って口に満ちる。げほげほと咳き込むと、煩いとばかりに顔を踏みつけられた。

「覚えがないですって?貴方、人の神経を逆撫でするのが趣味なの?」

 ぎゅうぎゅうと思い切り体重をかけられ、頭蓋骨が軋む。

「いいわ、教えてあげる。けど、その前にそこに土下座して」

 無茶な要求だと思った。手足を束縛されているのだ。

「イモムシみたいにもぞもぞしてないで、速く」

 げしげしと乱雑に足蹴にされながら、綴はなんとか正座して、姿勢を低くした。

 目の前で春香がパイプ椅子に腰かけ、足を組んだ。

「はい、靴を舐めて」

 目の前に突き出された、淡い桜色のヒール。

 生唾を呑む。選択肢はなかった。

 大丈夫だ、人の顔色を伺うのは慣れている。精神の侮辱も屈辱も、もう何百回も経験した。いつものことだ。

 綴は自分にそう言い聞かせ、黙って女の靴に口づけ、舌を伸ばした。つるつるとした革の感触が舌に伝わる。思ったほど動揺はしていなかった。

「あら、いいこじゃない。自尊心がないの?」

 こんな自分を、どうして尊ぶことができるだろう。

 口にはしない。ただ黙って、女が課す義務に耐えていた。この種類の人間は今までに沢山見てきたし、関わったことがある。綴の母親はその最たるものだ。そういう人間の怒りを買ってしまったときは、反抗的な心情や表情はできるだけ押し殺して、鎮火するのを待つのが得策だ。

 この手の人間は、少しでも反抗的な要素を見つけたら、たちまち激高して、何をしでかすか分からない。この二十年間でそう学んだ。だから、諦めて、耐える。それだけが、僕にできることだった。

 理不尽だな、とは思う。感情をその場で爆発させられたら、僕のような人間は成す術がない。

「つまらないわ。屈辱にゆがんだ間抜けな顔を拝んでやろうと思ったのに」

 春香が心底不満そうに綴を見下ろした。

 もう何度も、無意味に靴に舌を這わせている。

「しつこいわ」

 突如飽きたのか、靴で再び頭を踏みつけられる。

「まあいいわ。彼が来るまで時間があるから、私の昔話でも聞いて頂戴な」

 綴の返答も聞かず、春香は語りはじめた。

「私はね、ここへ来るまではすごくいい子にしてたの」

 春香は綴を見下ろした。春香は溜息をついた。

「学校の成績だって、勉強は好きじゃなかったけど頑張ったし、やりたくもない習い事もたくさんやったし、受験もして、そこそこの大学にも入って。就職してからも一生懸命働いてたわ。けど、両親曰く私は普通すぎてダメなんですって。あるときね、この先のことがどうでもよくなっちゃって…自殺しようとしたのよ。そこに、アリスタイオス様が手を差しのべてくれた。そんな命を使ってくれると言ってくれた。いつもいつも苦しい時に現れて、労ってくれた。この世でたった一人、彼だけが」

 春香は綴の前で語り続ける。

「そうね。あの日、彼が、私の運命を変えたのよ。この平凡でつまらない私の人生を」


 ****************

 ※注─『Marigold』

 マリーゴールド。嫉妬、虚栄のシンボル。花言葉は「信頼」「嫉妬」「悲しみ」「変わらぬ愛」等。「嫉妬」は黄色の花びらが、キリスト教では裏切り者のユダが着ていた服の色であるからという説がある。

 薬効のあるキンセンカとよく似ているが別種。


【参考文献】

『絶望名人カフカの人生論』頭木弘樹編訳

『自殺うさぎの本』アンディ・ライリー著

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