やまい

 いっそ女であったなら。

 愛しい人が嫁をとっても、その人の心と時を幾ばくか、分けてもらえる一人になれたかもしれぬ。

 あるいは相手は鞠大名。文より体を重んじる無粋な人。いまこの場で愛を謡い、その胸に我が身を投げ出したなら、今夜一度の甘い夢ぐらいは受け入れられたのかもしれぬのに。

 比丸は嘆きあまり涙も出ず、月影に顔を伏して、

「めでたいことでございます」

 腸の紐を削るような声で言祝ぐのである。

「おお。祝ってくれるか。いや、本当にありがたい。相手の女にはまだ会うたこともないが、なかなかに良い女だと聞いている。それに、あの重晴殿が勧めてくださるだけあって、家柄も俺なぞにはもったいないぐらいだ。これでようやく、俺の運も開けてきたというわけだ。……のう、比丸。重晴殿が俺を取り立ててくださるのは、たぶん、お前が俺を褒めてくれたからだろうよ。そう思えばこの縁談はお前が運んできてくれたようなものだ」

「滅相もございません」

「嫁を取れば、俺も一人前の男だ。このような人知れずの遊戯も終いかもしれぬな。比丸。これまでの礼として、これをお前に贈りたい」

 そうして比丸が賜ったのは、二人の仲を縁持った、あの日の鞠であった。


 ほくそ笑んだのは重晴である。重晴は、その気になればいつでも比丸を手籠めに出来た。あるいは牛牽きの任を解き、家の中だけでの使用人にさせることも可能だった。そうしなかったのは、若い頃から恋に浮き名を流してきた色男としての意地であった。無理やりにでなく、比丸の方から重晴を慕い、寵愛を受け入れてくれるようにならねば満足できなかった。鞠大名に嫁をあてがったのはそのためである。案の定、鞠大名はうまい話にころりと浮かれ、比丸は失望を味わった。万事は狙い通りである。

 比丸は体調が優れぬとして、務めもせずにいる。それで良いと重晴は思う。今は心の痛みに負け、悲しみに暮れる日々であっても、いつかは立ち直る。その時に何よりの支えとなるのが主である重晴の温かい心であり、熱い愛である。そのように信じて、重晴はただの従者に過ぎぬ比丸を丁重に扱うよう、家の者たちに厳しく言いつけていた。

 しかし、比丸の心の傷は重晴の想像を超えていた。

 比丸はまるで物を食わなくなった。一日中床に伏して、粥も啜らず、わずかに水を含んだ布を噛むことがあるばかりで、かつてのふっくらとしたかわいい顔立ちは見る間に痩せこけ憔悴していった。

 重晴は比丸を心配し、屋敷の良い部屋へ比丸を寝かせ、どうかすると日がな一日枕元につきっきり、どっちが従者だかわからぬ程、熱心に侍っていることさえあった。

「比丸。しっかりせい。お前は若い。若く美しい。どうかまた、かつての元気な姿を見せておくれ」

 我が子か孫にかけるより、骨身から滲む真心を込めても、比丸の瞳は主に向かない。代わりに放つ言葉が一つ。

「鞠を……。鞠を……」

 鞠大名からもらった鞠。比丸にとっては、今生の別れを示す形見のような鞠を、求めてやまぬのである。

 重晴はその鞠が未練になると考え、比丸が床に伏したその時から、鞠を取り上げ己の部屋に隠していた。ただ焼き捨てようとは思わなかった。それはあまりに外道の振る舞いである。いつか比丸の傷が癒えて、過去を受け入れられるようになれば、若き日の思い出として鞠を返してやるつもりでいた。

 重晴は甘く見ていた。

 人の悲しみが度を超すと、鬼になることを。

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