ちみ

 雨は甘い。

「毎日退屈させてゴメンね。もうすぐ外を出歩けるようにはなると思うんだけど」

 さらさらと秋雨の降る朝。珍しく時間のかち合った僕らは、紅茶を嗜みながら少しばかり話し合う機会を得られた。雨模様のために爽やかなティータイムとは言い難いが、窓外の柔らかな雨音が要らぬ雑音を消してくれて、これはこれで安らかなものだ。広い部屋に人口灯の光が冴えて、薫と二人きりでいることを殊更強く意識させられる。

 それなのに、僕らの間は遠い。

「僕は平気だよ。僕ァ元々出不精だし、薫ちゃんと、その……仲間の人たちが、毎日頑張っていくれていることも知っているんだからね。むしろ、何も手伝えることはなくて、歯がゆいぐらいだ」

 そんな本心からの言葉も、彼女に背を向けたままでは、どれだけ伝わったかわからない。

 僕は自分が怖い。薫の瞳を見ていると、その目、すなわち眼球を食べたくなってしまう。だからリビングのテーブルから離れて、窓の外から下界を見下ろしつつ、紅茶を傾けている。

 雨。雨粒は丸い。重力に引っ張られるから本当は丸くないけど、水玉は丸い。外に出て大口を開けて、あの粒らを飲み込んでしまうというのはどうだろう。液体であっても出来るだけ丸い方が美味いということは、この間の汗で証明済みだ。

「珊悟君こそ、私たちに気を遣わなくていいんだよ。珊悟君は巻き込まれただけで、何も悪くないんだから。これは私たちと、たまっころの戦い。こんなことに巻き込んじゃって、本当にゴメン」

「だから、もう。謝らなくていいんだって。……ねえ」

「うん?」

 振り向いた僕の胸に、とん、と衝撃があった。いい香りがした。

 薫が、僕の胸に飛びついていた。

「ゴメンね……」

「薫ちゃん」

 僕が薫の目を見ようとしなかった理由が、もう一つある。それは日に日に目に見えてわかる薫の『やつれ』だった。溌剌とした、いつもの活発な彼女の面影は、ここ数日とんとお目に適っていない。代わりにあるのは苦悩と、痛み。肉体的な疲労だけでは説明のつかない、心理的に追い詰められた憔悴が顔に浮かんでいた。僕がそれを見たくないわけではない。彼女の方が、そんな顔を僕に見られることを嫌がっているように思えたのだ。

ゴメンという言葉は、僕に対する謝罪というより、自分の心を慰めるための風待ち港。

 僕は薫を抱きしめた。悲しみをこらえ、胸に縋りつく彼女に向かって、他に何が出来よう。崩れた顔を見せまいと、涙をこぼすまいと懸命に耐えるその顔を、我が胸に抱きよせて見えないようにするのは当然の配慮だろう。僕だって、僕だって、薫をこすいて抱いていたいのだ。

 ちくしょう、それなのに。

 僕の衝動は違うことを考えている。右の掌に抱き込んだ薫の後ろ頭。

 ああ、丸い。丸くて可愛い頭蓋骨。これを。この骨を。髪の毛ごとバリバリ噛んでしまえば美味しかろ……。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ!

 死んでしまえ、僕の中のたまっころなんぞ。僕は薫を傷つけない。裏切らない。食欲なんかに負けてなるものか。

「珊悟君……」

 僕の喉を通る唾の音を、薫はなんと解釈したか。ますます強く、隙間なく、玉の肌を僕に寄せてくる。

 嬉しい。男としてたまらなく嬉しい。でもダメだのだ。気を逸らさねば。

「僕の」

 優しさに浸りたい彼女を突き放すようで忍びないが、冷たくとも今は理性が必要だ。

「僕の聞き間違いなら申し訳ないんだけど、薫ちゃんは、あの万代という人を叔父さんと呼んだね?」

 少し間をおいて、薫はハッキリと、「うん」と返事をした。

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