だんだん

 ――すぐに増援が来るでしょう。ここはあたしに任せて、あんた達はお逃げなさい。

 万代老人の言に従い、僕らは店を飛び出した。掃除屋に捕まっていた下野と、感電して倒れていた古本も一緒だ。二人が助かったのは無論、万代老人の奮闘によるものなのだが、その様子を詳しく語るつもりはない。老人はたまっころという妖怪としての年季を存分に発揮し、そして掃除屋とかいう男も激しく対抗した。そのおかげで下野は逃げられ、古本の気が付く時間を稼げた。それだけだ。それから後の血みどろの惨劇は言わなくてもいいだろう。

「坂本さん、とりあえず逃げるって、どこに行けばいいんでしょう」

「僕のアパートへ。そこしかないでしょう。古本、君も来い」

 古本は黙って頷いただけで、黙って僕の後をついてくる。掃除屋に電撃を喰らって以来、この男は不気味なほど無口になっている。電撃のショックが抜けきっていないのか、あるいは何か考えるところがあるのか。どうにもわからない。わからないと言えばもう一つ、何故こいつは掃除屋から僕をかばったのだろう。あの時たまっころの本性を現していたのは僕だけであり、銃口は確実に僕だけに向けられていたというのに。その理由はわからないし、気に食わないが、僕の方でも古本との喧嘩を保留したい気持ちになっていた。

 もうそろそろ夏の宵にも赤いものが滲む季節になっていて、アパートへの上り坂には学校や勤め帰りの人々がそこかしこにいた。その人たちは皆一斉に僕らの方を見る。無理もない。セーラー服の女の子と、筋骨隆々の大男と、地味で風采の上がらない僕の三人が一緒に坂を駆け上っていく様は、なかなか異様な集団に見えたことだろう。こんな形で人目を引くのは大変遺憾なのだが、今は体裁を繕っている場合ではない。安全な場所へ、少し立ち止まって物事を整理できる場所へ行くまで、足を止めるわけにはいかないのだった。

「あれっ、なんでしょう」

 一歩先を行っていた下野がすっとんきょうな声をあげた。坂の上から何かが転がってくる。

「野球ボールだ」

「なんでこんなところに……」

 道行く人々の不審の目をよそに、ボールは坂の下へと転げ落ちて行った。僕はその後をじっと目で追いながら、涎が溜まるのを堪えきれなかった。

「追いかけちゃダメですよ」

「わかってる。急ごう」

 こんな人の多いところで、化け物になるわけにはいかない。涎を飲み込んで前に向き直ったが、これはどうした事だろう、ボールは一つだけではなかったのである。

「バ・ス・ボ!」

 だん、だん、と重い音を立てて弾みながら落ちてきたのは、下野の大好物だった。

「下野さん、ダメだよ、ダメ!」

「でも、でもバスボちゃん、こんなところに一人で……車に轢かれたら大変!」

 どういう感性をしているのだ、こいつは。バスケットボールは食い物なのか? ペットなのか?

「バスボちゃん、こっち、こっち」

「おいお前、やめろっ」

 古本がようやく口を利いたが、下野は無視してボールへ突っ走っていく。ラガーマンの古本でも止められないぐらい猛ダッシュだ。

「ダメだって!」

 人々が見ている前で、下野はバスケットボールに追いついた。そして安堵と恍惚の入り混じった表情でボールに頬ずりしたかと思うと、感激のままぱっくりと噛みついた。

「キャーッ!」

 歩いていた女学生が悲鳴をあげた。

 見られた。たまっころを。

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