きみはどこ

 2リットルのペットボトルを抱えながら走るのは難儀だが、アパートから飛び出してきた時よりは足が弾んでいる。

『あんたの彼女さんは、サンドウィッチを自分でも食べてましたか?』

 老店主の言葉で思い返してみると、どうも、食べていなかったように思える。自分がサンドウィッチを食えるかどうかに夢中で、はっきりと自信を持って言えるわけではないが、少なくともあの部屋で薫がものを食べているのを見た覚えがない。口にしたのはペットボトルの烏龍茶だけだ。テーブルについてからはずっと、僕が食べる様子をニコニコと見ていた。

 無論、薫はサンドウィッチを振舞うだけでなく、自分で食べるのも大好きだ。大好きなものを食べて、人にも食べさせる。それが何よりの幸福なのだと普段から主張している薫なのに、今日に限って食べていないとはどういうことだろう。

 よもや、彼女もたまっころ……?

 まだ確証はないが、そうだとしたら僕と薫は同類ということになり、これ以上隠し事をしている必要はなくなるわけである。

 希望が湧く。呼吸が弾む。夕暮れの坂を上りきって、アパートへたどり着く。

「スミマセン」

 突如階段の上に体格のいい男が現れ、猛スピードで僕の横を駆け下って行った。出ていく時にぶつかりかけたのと同じ男だ。階段を降りきった男は、その猛牛のような迫力のまま、僕が上ってきた坂とは逆方向の道へ走り去った。

 やけに急いでいるようだが、僕の方も急ぐ理由がある。階段を駆け上がって廊下を突っ切り、部屋のドアを勢いよく開く。

「ごめん、遅くなって……」

 ドアの向こうにあったのは、無人の空間だった。

 薫がいない。靴もない。テーブルの上に山盛りのサンドウィッチが置かれている以外、普段と何も変わりない。薫はどこかへ出て行ったのだろうか。それにしても部屋の主に断りもなく、ドアの鍵が開いたままになるのを知っていて出て行くなど普通ではない。

 ひとまず連絡をしてみようとスマホを取った瞬間、向こうから着信があった。

『珊悟君?』

「薫ちゃん、今どこに?」

『ゴメンね、ちょっと急ぐ用が出来ちゃった。サンドは置いていくから食べて。今度ゆっくり会おうよ、また連絡するから』

「用って、何かあったの」

『それは……あっ、ゴメン、追いつかれそうだからもう切るね。本当に、ゴメンね、ゴメン、でも心配しないで。こっちの問題だから!』

『カオル!』

 電話が切られる寸前、太い男の声が聞こえた。僕の脳裏にはさっき階段ですれ違った男の姿が思い浮かんだ。

「薫ちゃん……」

 膝から力が抜けそうになるのを、踏ん張って耐える。今すぐ追いかけるべきだ。何が起きているのか知らないが、薫の身に何か危険が迫っているのなら、その原因がさっきの男にあるのならば、僕は今すぐさっきの男を追って走るべきなのだ。

 だが、僕は靴を脱ぎ、部屋に上がった。

 薫の残していったサンドウィッチ。これをどうにか片付けろという脳からの命令があった。これを解決しなければ、彼女を追いかける資格すらないように思えたのだ。

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