第3話 ぼくに教えてくれないか

  ▽


 男の歌が最後の一曲にさしかかる。

 アンコールは禁止されているから、彼はいっそう深い息をついて想いをこめる。

 聞き手たちも惜しむように背中を丸めて耳をそばだてた。

 金曜日の深夜三時ということもあって、店内にはまだ十名ほどの客が残っている。

 唇でついばむように奏でられた歌は、遠距離恋愛の末にあえなく散ってしまった女性の恋心に寄り添ったものだった。




 ぼくは恵美を好きになり、恵美はぼくを好きになった。

 サークル内で冗談めかしてやっかまれることはあっても、人間関係にひずみが生じることはなかった。

 節度ある距離をたもち、みんなの前では友情に重きを置いた。

 いや、それ以上に、疑いようのないほどに彼女はぼくだけを見つめてくれていたのだ。


 長い髪をかきあげて左耳を寄せるのが恵美の癖だ。

 実際に寄せているわけではなく、首を捻って左耳を向けるのだが、心もち二人の距離が狭まった気がしてぼくの胸はいつも高鳴った。

 その鼓動が恵美を愛していた何よりの証拠だと、彼女以外の女性を知らぬぼくは今でも自信を持って言える。




 男の歌声は、ぼくの右耳から入り、さしたる情動をもたらすことなく左耳へ抜けていく。

 なまぬるい、男女関係の上澄みをすくっただけの歌詞だった。




 恵美の右耳は聞こえていなかった。

 あのブースでぼくと出会ったときも、出会ってからも、出会う前もずっと。


「またそうやってわたしの悪口呟いてるんじゃないでしょうね」

「勘弁してよ。心の中の愚痴を声に出したことはないよ」

「よかった。……心の声が聞こえなくて」


 ぼくはいつだって恵美の左側に立つことを心がけた。

 胸や心臓なんかよりずっと深い場所から溢れでる言葉のすべてが彼女の残された左耳に届くように。四六時中、利き手を預けることで彼女への生涯の愛を誓うように。


 機能の損傷は幼少期の虐待に起因するもので、身体的ではなくあくまで心理的なものだった。


 大学時代、ぼくらは男女の一線を越えると、部屋の薄明りにさえおびえるようにベッドの中で小さくなって身を寄せ合った。

 そして、ぼくは幾度となく彼女の聞こえない耳に口づけをした。

 泣いていることを悟られないように声を殺し、彼女の頭から過去の記憶が薄まり、いずれ消え去ってしまうことを願いながら――

 君のいない昼間を、星のまたたくことのないこの時間を、ぼくは神様を呪うように悔やんだ。

 これまでの君を助けにいけなかったことが……

 これからの君を助けられないであろう己の非力さが、ただひたすらに無念で……


 決して枯れることのない恵美の涙も、ぼくらの想いとは無関係に流れ去っていったあの流れ星たちのように――仰向けになった彼女の耳をあっけなく越えていった。




 ギターの乾いた音が残響となって地べたに伏せる。

 悲劇をよそおう甘ったるい歌声にも、夜明け前の静けさにふさわしくない拍手にも、ぼくにはもどかしさだけが募っていくように思えた。


 男は、訊かれてもいないくせに「この歌は実話です」と、ひとりでに語り始める。

 歌に乗せられなかった想いの数々を意地汚く付け足すみたいに、些末さまつな二人のすれ違いをまるで世界の終末のように披露しようとする。


 初恋が実らないことで人は死ぬだろうか。

 遠距離恋愛が終われば命は詰んでしまうだろうか。


 歌に乗せることで傷痕が癒えると言うのなら、歌を聞いて傷口が塞がると言うのなら、それはもとより傷ではないだろう。



 恋を歌う先人よ、どうか馬鹿なぼくに教えてくれ。


 失うとわかっていながら好きな人と過ごす歯がゆさを。

 失うとわかっていながら好きな人を抱く無情さを。


 あの頃、みんなで夜空を見上げた感動を……

 二人で星を数えた愛おしさを……


 深夜三時まで君たちの歌に、残された左耳を預けた彼女の人生の尊さを……


 どうか、この世界に取り残されたぼくに教えてくれないか。




 演奏が終わると、ぼくは店主に追い立てられるようにそのバーを後にする。


 歌なんかに乗せることなどできるはずのない、


 二人の大切な時間を置き去りにしたままで――



 (了)

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歌なんかに乗せることなどできるはずのない 真乃宮 @manomiya

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