A Spoonful Of Vinegar

「起きろ、ミス・ブライトマン」


 アイザックの声にはっとし、寄りかかっていた壁から身を起こす。

 金曜日の19時過ぎ、ジェニー・ジョーキー・アパートメント併設のジェニー・ジョーキー・パブ。テーブルもカウンターもびっちり埋まり、フライデーナイトを楽しむ人々で大賑わいだ。

 けっして、ビールを飲みすぎて眠りこけたわけではない。何よりの証拠に、卓上のギネスは1パイントの半分も減ってないじゃないか。疲れている、疲れているのだ。とっても。


 すなおに謝ろうとしたのに、私が口をきくより早くアイザックが説教を垂れる。

「連れのいない女がひとりで、不用心にもほどがある。この店でなければ、財布をスラれるか痴漢に遭うかだ」

「わかってる。少しうとうとしただけ。疲れてるのよ、転職してからまだ10日も……」

「自宅以外で疲れて寝るのなんて、遊園地帰りの子供ぐらいだ」

「私の寝顔、観覧車やメリーゴーランドに乗って、コットンキャンディを頬張って、ミッキーマウスのパチもんの着ぐるみとハグして過ごしたハッピーな女の子に見えたかしら?」

「それだけ口が回るなら大丈夫だな。来週もしっかり働ける。食べたらすぐ部屋に戻れ」

「言われなくてもそうするわ」


 テーブルにフィッシュ&チップスのプレートを置くと、アイザックは離れていった。ちょっとぐらい、労りの気持ちとかないんだろうか。

 手づかみでフライをかじりながら、ルノワールが描いた大衆でも眺めるようなかんじで店内を見やる。私以外の全員が、活気づいて見えた。酒とたばこのにおい、酔っ払いの大きな話し声や笑い声に紛れるラジオの音楽。


 ウェイターをしているアイザックは、テーブルや椅子の隙間を縫い、鮮やかな身のこなしでてきぱき働いていた。何にもまごつかず、無駄な動きが一切ない。そして不思議なことに、お客たちと気さくに談笑する場面を何度も見た。

 あのクソとげとげしい性格さえ知らなければ、キャー! ハンサムな男子と事実上ひとつ屋根の下で暮らしてるわ、どおしよー! などと思っていたかもしれない。なんなんだ、私へのアタリの強さは? 選民思想? 多重人格?


 それに、いつもカウンター席にいる、高そうなスーツを着こなしたデカい黒人男性がなんか気になる。このパブには数えられる程度にしか訪れていないけれど、夜に来ると、かならず彼がいるのだ。

 アイザックとも、カウンターの中で働いているボガード夫妻ともかなり親しいように見える。四六時中べらべら喋っているわけではなく、どちらかと言えば口数は少ない。けれど、付き合いの長い者同士の空気を感じる。


 食事を終え、ぎゅうぎゅうの客席の隙間を無理やり通り抜けながら、カウンターに向かって「ごちそうさま!」と声を張り上げる。ソフィアさんが手を挙げて応じ、ご主人がニッコリと笑みを向けてくれる。パブはアパートの住民は割引なうえ、ジェニーって名前だともっと安い。このサービス精神旺盛なご夫婦から、アイザックが爆誕してしまったワケがマジでわからない。


 エントランスの大階段を、むくんだ脚でのぼる。踊り場で左右に分かれる階段を左に折れ、突き当たりの扉に鍵をさす。

 ハンドバッグをソファに投げ出し、アイスティーをすこしだけ飲む。そのままベッドに倒れ込む……と、ストッキングを履いて化粧をしたまま朝まで寝てしまうので、スリップと下着以外を手早く脱ぎ捨てる。サイドテーブルに置いてあるクレンジングシートで化粧を落とし、ベッドにダイブした。

 

 この部屋を内見するまで、ぜったいに別のところを借りるつもりだった。ソフィアさんが扉を開け、招き入れてくれる直前まで、だ。

 あろうことか、内装に一目惚れしてしまったのである。「かわいい!」と口に出してしまったが最後、ソフィアさんと不動産屋のおばちゃんがニヤりとした。


 屋敷の左端、六角形の塔の一室。淡い水色地の花柄の壁紙に囲まれたその部屋は、純真なお嬢さん――悪く言えば、見栄っ張りな小金持ち的な――の、ささやかなお城という風情だった。


 暖炉の跡が垣間見えるマントルピースや、メンテナンスを続けて使われ続けているというドレッサーや書き物机、映画でしか見たことないようなカウチソファ。

 私とソフィアさんとおばちゃんが入っても余裕のあるでっかいクローゼットに、以前ここに暮らしていた歴代のジェニーたちが置いていった古本がおさまる本棚。

 猫脚のバスタブ、アールデコな真鍮の蛇口がついた水回り。縦長の大きな出窓からは、前庭や記念公園のさわやかな緑が見える。


 極めつけに、天蓋つきクイーン・サイズのベッド。一生手の届かない憧れのひとつだと思っていたのに、格安家具付き賃貸物件を探す私の前に鎮座している。でも……


「お高いんでしょう?」


 ときめきを抱きつつ、この部屋で暮らさない理由をつくろうと足掻いてるのが丸出しの発音でソフィアさんに向き直った。高い、高いにきまってるわこんな部屋。しかも、あんな男としょっちゅう顔を合わせるはめになる。メンタルもお財布もついていけっこないわ。


「11.000エレル(※1エレル=約5円)でどうかしら。管理費込みで」


 というわけで、即日入居をキメてしまった。「とりあえず、ひと月だけ」と、しどろもどろに契約書にサインをする私に「申し出がなければ自動更新よ?」と、何やら確信めいた口調で言うソフィアさんに苦笑いを返してから、今日で……2週間だ。


 あんまり真剣に選ばなかったので、あたらしい仕事もすぐに決まった。地下鉄デタラメ・リトル・ヨーロッパ駅から、みっつ先のシュデスト・サントル駅の近くにある巨大企業の電話取次係だ。

 

 つくりものの観光地然としたデタラメ・リトル・ヨーロッパとは違い、シュデスト・サントルはオフィス街だ。どのビルがいちばん早く雲にブッ刺さるか競い合うように、高層ビルがひしめく。そんな高層ビルのひとつ、オーバー・ザ・レインボー商会が転職先だ。まあ、下請け派遣社員なんだけど。


 海外との交流があまり盛んではない我が国で、道行く人に「貿易会社といえば?」とたずねれば、ほとんどの人がその名を口にするであろう。そんな大企業の、洗練された開放的なオフィスで優雅にお客様からのお電話をお受けする……なんてかんじではない。


 コール音。「はい、オーバー・ザ・レインボー商会です」。ドウタラ社のコウタラと申します。「お世話になっております」ウンタラ課のカンタラさんをお願いします。「只今お繋ぎいたします、少々お待ちください」保留ボタンを押すと、相手の受話器からは『オズの魔法使』の『虹の彼方に《オーバー・ザ・レインボー》』のメロディが流れる。「お疲れ様です、取次のブライトマンです。ドウタラ社のコウタラ様よりお電話です。お繋ぎいたします」転送。始業から終業までずっとコレだ。


 お客様相談室と勘違いして怒鳴ってくるクレーマー。何語かもわからない言語でかけてくる外国の人。取り次いだらいつも機嫌の悪い社員。高いだけで量の少ないオシャレランチに誘ってくる取次係の先輩たち。なんか冷たい主任のお局。ブラインド閉まりっぱなしで外の見えない仕事部屋。はちきれそうに浮腫むふくらはぎ。当たりの強いアイザック。フラッシュバックする、私のベッドの上ですっ裸になってる元カレと元職場のクソ同僚。私よりも要領が良くて、誰からも愛されるキュートな妹を愛してる両親。頼れる人もなく、引き攣れた愛想笑いを浮かべて、この町でひとりの私。


 疲れた。とにかく疲れた。はあ、何してるんだろう私。

 土地を変えたからって、とつぜん生活がハッピーで鮮やかになるワケじゃないってことぐらい分かってた。多少は気が紛れてる。そんでジェニー、この次はどうするのよ。とりあえず住んでるこの部屋から出るの? とりあえず勤めてる、誰にでもできる仕事はいつまで続ける気なの? 一生こんなかんじでやってくの?

 疲れた。とにかく疲れた……はあ……何してるんだろう私……




 目が覚めたら、まぶたと顔がパンパンに腫れてた。そりゃあ泣きながら眠りについたら、こうなるに決まってるけどさ。げんなりした気持ちで洗面を済ませる。

 ひとまずワインを一杯ひっかけつつ、出窓の外を眺める。すこぶる天気がいい。陽の光を受けて緑がかがやき、朝の早い時間だけど公園もにぎわっている。


 特に予定はない。このまま酒を飲んでは昼寝を繰り返す休日にするのも悪くはないが、閉じこもっていたら仕事のことを考えて鬱屈しそうだ。職場のムカつくやつの悪口を垂れながら、共用の廊下でぶっ倒れて嘔吐でもしたらざまあない。


 適度な飲酒でポジティブになり、そのへんをぶらつくことにした。黒地に白い水玉模様のワンピース、リボンつきのヒール、ピンクレッドのリップ、薔薇の香水。デートでもなんでもない、自分のためのオシャレがけっきょくいちばん楽しい。元カレの趣味に合わせたクソみてえな服はぜんぶ捨ててきたので、ワードローブもすっきりした。


 なんだか気分がよくなってくる。ポシェットをぶん回して階段を降りると、ルイーザと鉢合わせた。彼女は住み込みの掃除婦で、もう何十年もここで働いているらしい。背中も腰も曲がった小柄なおばあちゃんだが、掃除の腕前は確かだ。


 『チム・チム・チェリ―』の鼻歌を口ずさみながら掃き掃除をしている彼女と挨拶を交わし、観光街へ出て行く。とにかく働いて帰ってきて寝ることに専念していたので、この辺りは安い食料品店に薬局、酒屋しかチェックしてない。


 メインストリートは華やいでいた。商店や飲食店が軒を連ね、建築様式はバラバラで、「どう? ヨーロッパみたいでしょ?」とぐいぐいアピールされている圧はあるが、原因不明のインチキ臭さがぬぐえない。なんだか微笑ましくもあるので、不快感はないが。


 どこからともなく、バターと砂糖のかおりが漂っている。クレープやワッフル、あるいは……マフィンだろうか。ふと右手を見れば、マーフィー・マリンズ・マフィンの店舗が目に入る。


「アイザックが5つの時よ。記録的強風の日だったんだけど、小児歯科の検診があってね。ふたりで大通りを歩いてたの。あの子ってば昔から足がはやくて、行き先を知っている時は絶対に私の前をすたすた歩いてた。で、マーフィー・マリンズ・マフィンの前を通りかかったとき、強風に煽られたお店の看板があの子の目と鼻の先に落下したのよ」


 数日前、パブのカウンターで夕食を摂っている時にソフィアさんからそんな話を聞かされた。

「えっ? はあ? よく無傷で生きてますね」

 他の客と雑談を交わしているアイザックを振り返りつつ、率直な感想を口にする。


「そうよねえ。錆びついてた看板の支柱が折れて、地面に垂直に落ちてくるのがスローモーションで見えた。あまりに突然だったけれど、私は悲鳴をあげながらあの子の身体を掴んで、ふたりで後ろ側に転がった。看板から飛び散った破片で、私たちと通行人数名が軽いかすり傷は負ったけど、まあ、大事には至らなかったわね」

「いやいやいや、十分大事に至ってますよ! そんな目にあったら外歩けなくなりますって!」


 私のリアクションに、ボガード夫妻はワハハハ、と愉快そうに笑う。なんとなく、カウンターの一番端に座った例の黒人男性と目が合うと、彼は小さく肩をすくめて見せた。


「当時は新聞にテレビに大騒ぎでね、奇跡の生還! とか言われちゃってさ。で、それ以来、私とアイザックはマーフィー・マリンズ・マフィンの商品が未来永劫タダでもらえるようになったの。ラッキーでしょう?」

「はあ、まあ、そうですね」

「でも、アイザックにはうっすら当時の傷が残ってるのよ。額のすみっこのほうに、ハリー・ポッターみたいに……アイザック! あんたちょっとこっち来なさい」

「いい! いいですから別に見なくても! なんでもない! いいから!」


 結局アイザックのハリポタ痕を見せてもらってはいないが、彼を見かけるたび、なんとなく額に視線がいってしまう。

 マフィンは食べず、他のカフェでクロワッサンとカフェオレだけの朝食を摂った。


 特に何かほしいものがあるわけでもないが、雑貨店などをひやかして回る。なにか素敵なものを買ってもいいかも。アロマキャンドル、おもちゃみたいな指輪、或いはちょっとお高めの万年筆、レースのハンカチ……手にとってはみるものの、いまいちピンとこない。


 探すでもなく探しているうち、ひと際どっしりとした店構えの骨董雑貨店にでくわした。大きな店というわけではない。この街に流れる歳月と、バターのかおりをたっぷりと吸い込んだことが明確なたたずまいだ。かと言って、めちゃくちゃボロボロな老舗というわけではない。古いけど小奇麗で、独特のプライドめいたなにかがありそう、というか。


 ショウウィンドウ越しに店内をちらりと伺ってから、店の扉をひらく。来客を知らせるベルが、軽やかに鳴った。


 入口の正面突き当たりにレジカウンターがあり、ばっちりとお店のおじさんと目が合った。はちみつ色の照明をあびる、さまざまな骨董雑貨に埋もれることなく存在感を放つ男だった。



 互いにそれとなく微笑み合う。ねえおじさんその紫のストライプのスーツどこで買ったの? と思いつつ、店内をぶらぶらする。売り物の大きなダイニングテーブルに無造作に置かれた、ランプやら地球儀やらの値札をつまんでは「うっわ」となるのを繰り返す。


 オルゴールつきの小物入れの音を鳴らしてみたり、オードリー・ヘップバーンの写真集をめくったりしてるうちに、何組かの客が出たり入ったりした。杖をついたおばあちゃんがやってきて、紫スーツおじさんと親しげに言葉を交わしたあと、6万エレルの何かを買っていった。


 やっぱり、漠然と「何か素敵なもの」を探していたって見つからないのかもしれない。瓶詰のオリーブでも買っていくかあ、と思いつつ、ふと硝子ケースに目を落とす。


「何か素敵なもの」があった。

 蒲萄や草花の装飾が入ったシルバーのスプーン。スープ用のスプーンよりも大きく、くすみがかった銀色が重厚な雰囲気をかもしだしている。

 いままでアンティークのカトラリーに興味を持ったことはない。それどころか、食器にこだわりもない。いいなあ、と思うお皿などに出会うこともあるが、酔っぱらって割ったら悲しいので、安物しか買わない。なんなら今は、歴代の住人たちが置いてった食器をありがたく使わせてもらっている。


 シルバーのスプーンなら酔っぱらって割ったりしないし、捻じ曲げるエスパーな力もない。かといって、ちょっと贅沢すぎるのでは……


「ぜひ、お手に取ってご覧ください」

 はっとして顔をあげると、白手袋をはめた店主が硝子ケースの鍵をはずし、スプーンを恭しく持ち上げ、私に差し出した。あまりにも軽やかで無駄のない流れに気を取られ、言い訳する間もなかった。


 なにやら自信を感じさせる眼光を宿し、店主がこちらを見ている。ふしぎと押し売りのような圧はない。言われるまま、彼からスプーンを受け取る。


 私のために作られたのかと錯覚するほど、手になじんだ。持ち手の曲線も、シルバーの重みも心地いい。


「すごい、なにこれ」

 思わず呟いてしまうと、店主がにやりとした。もう聞かざるを得ない気がして、たずねる。

「これ、おいくらですか」

「1600エレル」

 ……私の日給よりちょっとだけ安い。ほんとうにちょっとだけ。


「これはベリースプーンといって、名前のとおり苺やラズベリー、やわらかいデザートをサーブするためのスプーンです。もっとも、使い方は持ち主の自由。優雅なディナータイムにヴィシソワーズをすくっても、忙しい朝にシリアルをかきこんでも」

「アイスクリームをバケツからやけ食いするのに良さそう」

「すばらしい!」


 店主がさも愉快そうに笑う。胡散臭いほど歯並びがいい。


 うーん、良い。良いぞ。スーパー金持ちの貴族のご婦人たちが、お高くとまったお茶会で、ちまちました果物をお上品に取り分けるのに使ったであろうスプーンを、疲れた電話取次係が安くて量の多いアイスクリームに突き刺してやるのだ。そんで汚い言葉を吐きながら一心不乱にやけ食いしてやる。背徳的だ。バッスルドレスの女たちの青ざめる顔が浮かぶようだわ……。


 えっ、そんなことのために日給とほぼ同じ額のスプーンを買うっていうの?

スプーンを弄べばもてあそぶほど、ずっと昔から肌身離さず、すべての食事を共にしてきたかのような馴染み深さを錯覚する。でも、一時の気の迷いなら? いざ買ってみて、舌触りが気に入らなかったら?


「……あのう、7日経っても頭から離れなかったら、買いに来ます」

「そう? かしこまりました。ただ……」

 店主は眉毛を不敵に歪ませながら、私の手からスプーンを受け取る。

「当店でお取り置きをできるのは、6000エレル以上の商品のみです。お客様が次回来店された際には、すでに買い手がついているかもしれません。よろしいですか?」

渋りながら頷くと、店主は白いクロスでスプーンをさっと磨き、硝子ケースに収めた。


 手ぶらで帰るのも癪だし、お店に悪い気がしたので、レジカウンターに陳列されたチョコチップクッキーの小箱をひとつ買った。

「これは私の、商売における常套句なのですが……少しばかり贅沢をすることが、機嫌よく生活するためのコツですよ」


 何を言うにも、店主の口角は吊り上がっていた。ひきつった笑みではない。余裕がある人の印のような、そういう笑みだ。


「ここは、ゆたかな人が来るお店ですね」

「そう? そうとも言えるかな。と、いうことは……」


 店主がなにか言いかける。縦縞模様の裾から伸びる角ばった手が、私の手のひらにクッキーの箱を乗せたままの格好で止まった。彼の視線は私の背後、店の外に向けられているようだ。


 つられて振り返ってみたものの、窓の外には観光客の往来があるだけだった。店主に向き直ると、彼はハッとして例の笑みをたたえる。


「と、いうことは、あなたもゆたかな嗜みを携えたレディだ。ようこそ、“アンダルシアの猫”へ」


 自分のことを、ゆたかだと思ったことはないんじゃないかしら。極端にまずしいわけでもないけど……あらゆることにおいて、真ん中よりちょっと足りてない気がしている。


 けれども、今日はちょっとだけ贅沢。帰り道、ちょっとだけ高いコーヒー豆を買った。焼き菓子に合うブレンドですよ、と薦められたのだから致し方ない。戸棚の中に、いつぞやのジェニーが置いていった手挽きコーヒーミルがあるのだ。


 たしかに、あの店主の言うおとりである。たまにはちょっとだけ、奮発すると気分がいい。引っ越してからというもの、楽しみなんて安酒のラッパ飲みぐらいしかなかったので、新しいものを見つけたかんじだ。スプーンはまだ保留だけれど。


「ただいまー!」


 ジェニー・ジョーキー・アパートメントの正面玄関を開けて、思わず大声を出してしまう。吹き抜けのエントランスに響き渡った。うわ、と思っていると、ロビーの花瓶に花を活けているルイーザと目があった。よかった、他には誰もいない。


「あらあ、おかえりなさい」

「きれい。ずいぶんとたくさんありますね。ラナンキュラス?」


 照れをごまかしつつ、ルイーザの隣に立つ。天使の絵が描かれた磁器の花瓶(のちに知ったが、マイセンのものらしい。ボガード夫妻が鑑定書を持っているとか)に、真っ赤なラナンキュラスが何輪も活けられていた。


「アイザックの坊ちゃんがね、買ってきてくれたんですよ」

「えっ? あいつが?」

「そうなんですよ。ふふ、ふふふ」


 花を愛でる趣味なんてあったのか……と思いながら、一輪手に取って眺めていると、頭上から大声が降ってきた。


「気に入ったなら部屋に持っていくといい。ルイーザに頼めば、いくつでも花瓶を貸してくれる」


いささか、ぶすったれた声だった。いつもの冷ややかな調子とは違う。なにがあったのかは知らないが、日頃の仕返しをしたい気持ちにさせられた。


「ええーっ、うっそぉ、どういう風の吹き回しぃ? シュドウェスト・メールの田舎娘にもお花を分けてくださるのねえ! ありがとう!」

 私の台詞を聞きながら、アイザックは腐った卵味のガムを噛まされてるようなツラで階段を降りてきた。そして私にこう言い残し、パブのバックヤードへ入っていった。


「君には、この街でやっていける素質が大いにある」

 ……なにそれ。




 実にのっぺりとした日々が過ぎていく。ストッキングは伝線するし、通勤電車は一本逃しちゃうし、まだ要領悪い新人なのに研修中マークのバッジを没収された。お局にちょっと注意されただけでへこむし、顎にニキビできるし、帰りの電車も目の前で出発して次の電車を待つ。そんな平日を繰り返す。


 で、1週間後。

「ああ、店長からお話は伺っております」


 店番をしていたのは、オールバックしましまスーツのおじさまではなく、めちゃくちゃキュートな女の子だった。私よりすこし年下ぐらいの、真っ赤なワンピースがよく似合う、黒髪ではちみつのキャンディみたいな目をした女の子。


「よかった! 硝子ケースに無かったから、買い手がついたのかと思って……ダメもとで聞いてみたんだけど」

「あなたが来てくれる気がして、ディスプレイから下げておいたの。ギュスターヴには秘密よ、ほんとうはダメなんだから」

 色白な人差し指が私のくちびるの前に立てられ、どきりとする。なんて小癪なんだ。


「でも、私が硝子ケースを見て、売れたんだと思って諦めてたかもしれないでしょう?」

「ふわふわのショートブロンドで、背の高いレディだって聞いてたから。わたしがあなたを捕まえるわ」


 きゅっと口角を持ち上げて、人懐っこく微笑む彼女を、私はすでに好きになっていた。ベリースプーンが欲しくて来たけど、そこそこのお値段なので躊躇いもあったわけで……しかし、彼女を前にして金額とかどうでもよくなった。肩の上でくるんと内巻きになった、つやつやの黒髪にさわってみたい。


 彼女はネイビーの包装紙でスプーンのケースを包み、白いシフォンのリボンまで巻いてくれた。まるで高級なアクセサリーか何かのように。まあ、高級なアクセサリーとか買ったことないんだけど。


「ありがとう。もったいなくて使えなくなっちゃう」

「それは大変、やっぱりリボンをほどいてしまおうかしら」

「やだ、それはだめ!」


 なんだろうこの感じ。すさみまくった私の気持ちが潤う。こんなすてきな女の子と仲良くなれたら楽しいだろうな。しかし、私は大勢いるであろう客のひとりにすぎない。厚かましい。でも……


「ねえ、しょっちゅう何かを買うことはできないけど、たまにここに来てもいい?」

「もちろん、いつでもいらして」


  ああ、もう何この子超カワイイんですけど! と叫びたくなった矢先だった。

 背後で来客のベルが鳴る。反射的に振り向くと、アイザックと目があった。つかつかとこちらにやってきて、私などお構いなしに彼女に声をかける。


「こんにちは、ミス・オリヴィエ」

「こんにちは、ボガードくん。背中になにを隠しているの?」


 ミス・オリヴィエはいたずらっぽく首をかしげる。ボガードくんの横に立つ私には丸見えだ、真っ赤なラナンキュラスのブーケが。いま私めっちゃニヤニヤしてる。


「これを貴女に」


 得意げに差し出されたブーケを受け取り「すてき、ありがとう」と微笑むミス・オリヴィエは、純粋に喜んでいるようにも、相手の気分を良くするための社交辞令がとても上手いようにも見えた。


「部屋の窓辺に飾るわ」

「それなら、店の前を通るたびに君の部屋を見あげてしまうな」

「ふふ、そうでしょう?」


 自分でもよく分からないが、私は今にも叫び出しそうになっていた。目の前で顔のいい男女が、なんかロマンスの香りを漂わせていてむずがゆい。むかつく男の弱点を握り、優勢に立った気がしている。けどなんかちょっと羨ましい。

 カウンターに置かれたままのスプーンの包みを引っ掴み、そそくさと退散を試みる。が、扉を振り返ると、今度は例のしましまスーツの店主と目が合った。


 どこからか帰ってきた彼は、私を見て悠然と微笑み、そのあとアイザックをみとめると、高らかに歌い出した。


「マーフィー・マリンズ、マーフィー・マリンズ、賑わいの街角バターのかおり、あなたと食べればとってもスウィート! だれでもハッピーな合言葉は? マーフィー・マリンズ・マフィン!」


 全員の視線が店主に集中する。それがシュデスト地方のローカルなテレビやラジオで流れている、マーフィー・マリンズ・マフィンのCMソングであることはすでに私も心得ていた。


「失礼、無性に歌いたくなってね」


 アイザックは、引き攣った笑みをどうにかこうにか口の端にちょんと乗せていた。

 真っ赤なラナンキュラスを見るのは二度目、私が前回このお店に来た時だ。あの時、店主が一瞬手をとめて窓の外に視線をやっていたのを思い出す。


 察するに……うーん、やっぱりニヤニヤがこみあげてくる。だめだめ、人の恋路を笑うなんてレディのすることじゃないわ。アイザックの背を力強く叩くと、思いのほかパァンと響いた。睨んでくる彼に、小さく舌を出して見せる。


「またお訪ねしますわ、御機嫌よう」と、出来うる限りのエレガントさで告げ、店をあとにした。心なしか、自分の靴音が心地よく聞こえる。なんだかご機嫌になり、意味もなく一回転。もしかして私って性格が悪い? まあいいわ、今にはじまったことじゃないもの。


 ジェニー・ジョーキー・アパートメントに着き、そのままパブに向かう。まだまだ夕暮れ前、客足はまだらだが、あの黒人男性がカウンターにいた。私も少し離れたカウンター席に腰をおろす。


「どう、買えたの?」

 厨房のほうから身を乗り出して訊ねるソフィアさんの前で、スプーンの包みを解く。そのまま彼女に手渡すと、感嘆の声をあげた。

 あたらしく手に入れたスプーンのひと匙目に、金色のビネガーをすくうと縁起がいい。というジンクスがこの地方にある、とソフィアさんから聞いた。ので、真っ先にここでフィッシュ&チップスを食べることに決めていたのだ。


「私にも見せてもらえないかな」

 しげしげとスプーンを観察しているソフィアさんと私を交互に見やり、黒人男性が声をかけてきた。「どうぞ」と答えると、彼は恭しい手つきでソフィアさんからスプーンを受け取る。まるで自らの大切な品であるかのように扱い、しばし観賞していた。


「洗うわね」とソフィアさんに取り上げられてから彼が問いかけてくる。

「とてもいいベリースプーンだ、シルバー製であることを示す刻印も入っている。仕入れたのはヴィルヘルム・カトラリー・ストアか、もしくはアンダルシアの猫?」

「ええ、アンダルシアの猫よ」

「成る程、目利きの選んだ品だ」


 彼は深く関心した面持ちで、角ばった顎を撫でる。いかにも、ハイソサエティな嗜みを心得ている、インテリジェンスの高い男性に見える。お召しになられてるクリーム色のしなやかな見目のスーツ、おいくらするんですか?


「私、アンティークに造詣なんかないんです。たまたまひとめ惚れしただけで」

「直感にしたって、センスが優れている証拠だろう。貴女もまた、優れた審美眼の持ち主というわけだ」


 ウッドベースをはじいたような、低く心地いい余韻を与える声音でなんかいい感じに褒められ、だらしなく笑ってしまう。と同時に、急に靴の傷とか服の皺とか気になりだした。


「私はルイス・アダムズ。ルイスと呼んでくれて構わない。よくお見掛けするが、挨拶する機会が巡ってこなくてね。私もここの住人なんだ」


 大きな手を差し出され、思わずかたく握り返す。この街に来て、はじめて握手を求められた。もう絶対いい人じゃん。


「もううっすら知ってるかもしれないけど、私のことはジェニーでいいわ。」


 なんだか今日いちにちで、デタラメ・リトル・ヨーロッパに受け入れられた気がしている。多少は肩の力を抜いてもいいでしょう。だって私には、この街でやっていく素質が大いにあるっていうじゃない。


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JENNY JOKEY APARTMENT 小町紗良 @srxxxgrgr

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