第8話


「っ……」


 僕は言葉を失った。返す言葉などどこを探しても見つからなかった。

 なぜなら僕は過去に、彼女のいう通り、人を見殺しにしたのだから。

 僕のクラスメイトであった彼女・倉科藍那は、中学時代、


 僕の目の前で自殺をした。


「でも、あれは、お前が勝手にやったことで」

『二言目にはそれだね。笑っちゃうくらい。他に言うことはないの?』

 無理やりひねり出した言葉も、簡単に論破される。当たり前だ。僕はこのやりとりを、すでに脳内で数百回は繰り返している。そのうち半分くらいは、都合よく、彼女が僕の言い分を受け入れ、許し、よほどありえない甘さの慈愛の言葉で以って、会話と僕の葛藤を終わらせてくれる。けれどそれは所詮、幻だ。現実の彼女が許してくれることなどない。永遠に。


 彼女は、出会った頃から、とても不安定な少女だった。


 中学では、たまたま同じクラスになっただけで、性格も趣向も違う僕たちに接点は特になかったのだが、話すきっかけになったのは、にわか雨に降られてしまったことだった。

 雨から逃れるように駆け込んだバスターミナルで見かけた彼女は、スマホを弄るでも単語帳を見るでもなく、ただただ窓の外の虚空を見つめていた。普通ならば放っておくところだが、彼女は仮にもクラスメイトだったし、あまりにも熱心に見つめているので、外に何かあるのだろうかと思って、僕は声をかけた。すると、彼女は答えた。

『ねえ、雨って、避けようのない弾幕みたいだよね?』

 僕が困って「そうだね」と答えると、『そんなこと思ってもいないくせに。いいんだよ、無理しないで』と笑顔で言われた。笑顔ではあったが、彼女は少し寂しげだった。クラスでも誰かと喋っているのを見たことがなかったし、そのこともあって若干の罪悪感を抱いた僕は、とっさにこう言っていた。「よければ友達にならないか」と。

 彼女は少し驚いた顔をしたが、頷いた。それが、全ての始まりだった。


『雨の日は好きだったよ。とってもね。君もそうだったでしょう? なんていっても、君と出会った日も雨が降っていたんだから。でも君は、もう、そんなことでさえもすっかり忘れてしまったんだよね』

「もうやめてくれ……頼むから……」

 しかし呻き声でそう訴えても、藍那の言葉も、周囲の霧雨も止まらない。さながら弾幕のように。

『君の気持ちもわからないでもないけれどね。狂っているのは私で、君は悪くない、そう思いたいんでしょ? 声をかけたのが不運にもメンヘラ女で、そいつがたまたま精神疾患を拗らせて死んだだけ。自分が関与しようがしまいが、結局は死んでいた。そう思いたいんでしょ? でもね、たとえそうだとしても、私を救うのを諦めたことは事実でしょう。だから私が君を恨んでも、構わないでしょう?』


 倉科藍那はとても大人しい女子中学生だったけれど、時々人が変わったように乱暴になることがあった。そこに至るまでの過程や葛藤は色々あったけれど、最終的に僕はそれが恐ろしくなって、彼女から離れたのだ。


 もちろん、彼女の心を開かせる努力はした。


 けれど藍那の行動は変わらなかった。いつもは静かで、無害な獣のようで、しかし定期的な発作のように、唐突に、狂人になった。

 彼女は人こそ殺さなかった。

 けれど……


「……」


 僕は目を閉じた。あの時のことは、今でも鮮明に思い出せる。なるべく思い出さないようにはしているが、思い出そうと記憶の引き出しを引っ張りさえすれば、それはまるでバーチャルリアリティみたいに目の前に広がる。


 彼女の奇行は、最初はただ「買ったばかりのシャーペンの替え芯を一気に全て折ってしまう」とか、「古着を残らずカッターや果物ナイフで切り裂く」とか、いわゆる若さ故のフラストレーションの発散のような、そんなありふれた形をとっていた。僕は異性の友人として、時々彼女の話に飽きるまで付き合ってあげていた。悩みを打ち明けられたら、適度に助言もしていた。僕はそれで自分の役目を果たせていると思っていたし、彼女もそれでなんとか、行き場のない苛立ちをやり込めることに成功していると思っていた。

 でも、結果から言って、そんなことは全くなかったのだ。


「藍那、どうしてだ? どうして、今になって、僕の前に出てくる?」

『私は私の好きな時に出てくるし、君は私の好きな時に苦しんでもらうの。そうでなくちゃ、割りが合わないわ。だって私はもう死んでいるんだもの』

 

 僕は、時々奇行に走る彼女のことを、それでも友達だと思っていた。当然だ。若い頃には誰だって、少しくらいエネルギーを持て余すものだし、それくらいで人とのつながりを断ち切ってしまっていたら、誰とも付き合えない。それに中学生の僕にとっては、ある意味、特別な友達を持てたようで嬉しくもあったのだ。

 でも、あの日、僕は怯んでしまった。 

 そのことを責められる人間なんて、そうそういないんじゃないか、と今でも思う。なにせ雨の中、ところを見て、逃げ出さない男子中学生がいたら、それこそ異常だ。世間の大多数の人間は、確実にそう考えるだろう。たとえ、彼女が内側にどれだけどす黒くて重苦しいものを抱えていたのだとしても……それを精神の専門家でもない一中学生が解決できるだなんて、きっと誰も思わない。


 だから距離を置いた。

 彼女は本当に犬を殺し、そして、あえてそれを僕に見せつけたのだと、直感的にわかっていた。見間違いや誤解ではない。友人として接していたからこそわかったことだ。それがどこの誰の犬なのか、なぜ殺したのか、どうやって殺したのか、そんなことを考える余裕はなかった。僕はただ彼女から物理的に、そして精神的に逃げることしかできなかった。それを咎められる人間なんて、きっとこの世にはいないはずだ。


『とっても滑稽だったよ。君のよそよそしい態度。私を見る時の、あの青ざめた顔』


 倉科藍那の犬殺しは、警察沙汰にもならなかった。殺しても気づかれないような野良犬を殺したのかもしれない。僕はただ彼女から逃げ、隠れ続けた。彼女はそれを気にもとめていないような様子で、学校生活を送っていた。

 そしてある雨の日、僕の目の前で、彼女は唐突に、死んだのだ。


 

 

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