第7話


「な、」



 ふうっ。


 煙を吐く音がする。

「全く、迷惑なんだよね。どいつもこいつも。自分の問題は自分でカタをつけて欲しいもんだ」

 とっさに身をかがめた自分の頭上で、今度はふぉんっ、と、空を切る音がした。顔を覆った腕の隙間から垣間見た曇天には、確かに、宙に放られたタバコの吸い殻と、華麗に振り回される閉じたビニール傘があった。

「僕はほらあれだ、低血圧だし、出来るだけだらだらこの世を満喫したいんだよ」

 濡れたビニールに、停止した雨粒が当たり、キラキラと光を反射しながら小気味好い音を立てた。傘の切っ先に切り裂かれた影たちは、小さく分裂して、また宙を踊る。

 彼が舌打ちと共にボンネットに飛び乗るのと、彼の犬がワンと一声吠えたのは、ほぼ同時だった。

「もっと真面目で血気盛んな奴のところに嫌がらせに行けよ。……頼むからさ」



『君はいいの?』



 気づけば、そこは違う場所だった。

 先ほどの彼も、透明な犬も、車も、街も、どこにも見当たらない。ただ一つ共通していたのは、自分が静かな雨霧の中にいるということだけだった。

 そして白い霞の奥に、僕は、忘れもしない長髪の少女の後ろ姿を見る。


藍那あいな……?」

 

 無意識に放った自分の声は、ひどく掠れて、今にも雨に吸い込まれてしまいそうなものだった。僕は少女の影に向かってもう一度問いかけた。

「藍那、なのか?」

 少女はこちらを振り向いた。その顔は紛れもなく、彼女……倉科くらしな藍那のものだった。

『あら。私のことを覚えていたなんて、意外。もうとっくに忘れ去られていたと思っていたのに』

「そんな……そんなことないよ」

『あなたは私を見捨てた。見殺しにしたの。あんな善人みたいなことを言っておいて、結局は他のみんなと同じだった』

「それは……」

『あなたは自分のことを、他のみんなと変わらない、一般の人間だと思っているんでしょうけれど。でも違うよ。あなたは化け物。人一人の信頼を裏切って、人を見捨てて、それなのに涼しい顔して生きている。雨の日に行き交う傘の群れの中に、平然と紛れて歩いている。でもね、あなた自身は紛れ込めていると思っていても、外から見ればすぐにわかるものなのよ。だってあなたの傘だけは、』

 藍那の額から、たらりと、鮮血が伝った。

『いつも血に染まって真っ赤なんだから』


 

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