絶滅ボタン

二石臼杵

滅びの音

 自宅で通帳の残高を確認しながら、神に思いを馳せた。

 神よ。なぜあなたはこのような試練を与えたもうた。

 なぜ俺の口座には、三千円しかないんだ。

 切れかけた蛍光灯の下でもう一度通帳を開く。三、六、二、五。やっぱり四桁しかない。三千六百二十五円。それが今の俺の全財産だ。

 表示される数字が変わるかしらと何度も体重計に乗る人の気持ちが今わかった。人間、どんなときも希望は捨てられないのだ。

 かくいう俺も、おそるおそる通帳を開いたり、老眼のように手で遠く顔から離した状態で開いたりと、無駄なことをして時間をどぶに捨てている。

 俺は今の時間と同様に、無駄遣いをしすぎたのだ。歯止めが利かなくなって、誰かに飲みや食事に誘われたら我が身を顧みずにほいほい乗った。

 その結果が全財産三千円。残高は安いのにつけは高すぎる。今上手いこと言ったから誰か座布団の代わりに金をくれ。

 もちろんそんな酔狂なやつがいるわけがない。そう思った矢先にインターホンの音がした。借金取りか。泥棒か。金ならないからどうぞお帰りください。

 しかしそいつは普通にドアを開けて入ってきた。俺は目を疑う。

 ドアの鍵は閉めていたし、なんならチェーンロックまでかけていたのだから。だがそいつはいっさいの鍵を無視してドアを開けた。鍵は横に閉まったままの状態でドアが開き、開くドアとくっついたままのチェーンロックはゴムのように伸びて来客を通したのである。ドアが閉まるとチェーンロックは元の長さに縮み、再び密室になった。

 やって来たのは白いスーツの男だった。日本人離れした顔立ちだが髪は黒く、眼鏡をかけている。


「どうも、悪魔です」


 男は単刀直入にそう告げた。なんの疑問も挿む余地はなかった。

 今は何事もすんなりと受け入れるしかないのだ。心の余裕とは、懐の余裕があってこそ生まれるものなのだから。


「悪魔がなんの用だ。願いを叶える代わりに魂をよこせと言うつもりか」


「少し違います」


「違うのかー」


 俺は肩を落とした。魂なんてあるかどうかもわからないものならくれてやって構わないから、願いを叶えてもらおうと期待したのになあ。


「じゃあなんのために来たんだ」


「これを渡しに」


 悪魔は懐から小さな赤い指輪のケースを取り出し、俺に差し出した。悪魔に、というか男に求婚される理由が思いつかない。なんの真似だ。


「ああ、誤解しないでください。入れ物はなんでもよかったんですよ」


 悪魔がケースを開けると、中には指輪ではなく真っ赤な丸いボタンが収まっていた。非常ボタンによく似ている。


「このボタンを押すと、一億円が手に入ります」


「本当か!?」


 すかさず押そうとした俺の指を、悪魔はケースをひょいと横にずらして避けた。


「利用規約は最後まで考えて聞きましょう。そうしなかったから、今のあなたがあるのでは?」


 返す言葉もない。

 悪魔はこほんと咳を一つ。


「いいですか。このボタンを押せばあなたは一億円を得ます。しかし、その代わりに地球上に住んでいる種族が一つ滅びます。何が滅びるかはまったくのランダムで、たとえ私にも神にもわかりません。猫かもしれないし、人間が滅びるかもしれない。もちろんあなたごとね」


「人間は例外じゃないのか」


「例外などありません。自惚れないでください」


 悪魔の声はきんきんに冷えていた。

 しかし困った。一億円手に入る代わりに人類が全員滅んでしまったとしたら、俺は結局一億円を使えないじゃないか。それに、牛が滅びれば牛乳もステーキも二度と味わえなくなるし、確か蜂が滅んだらその数年後に人間が滅ぶという説も聞いた気がする。


「いいではありませんか。どうせここで押さなければあなたには野垂れ死にする未来しかないのです。それに世界のどこかでは毎日のように新種の生き物が発見されています。一日一回押したとしても差し引きゼロになるのではないですか?」


 悪魔を名乗るだけあって、誘惑するのが非常に上手い。悪魔なんぞやめてセールスマンになればいいのに。


「わかったよ。一回だけだ」


 ついに俺は折れた。いや、最初から折れ曲がってはいたのだ。どうせ。

 震える指で、ボタンを押し込む。かちりと音がした。何かの種が滅びる音だ。いったいどの生き物がいなくなるのだろうか。

 その答えはすぐにわかった。悪魔が喉を押さえ、苦しそうに呻きだしたのだ。


「ばかな……こんな……」


 そこまで言って、悪魔は溶けるように消えていった。ボタンの入ったケースがころんと床に転がる。

 悪魔の言っていたことは正しかった。例外などなかった。たとえそれが、悪魔自身であろうとも。

 すべての悪魔(悪魔が他にもいたとすればだが)が絶滅したのだ。ふと通帳を開くと、記帳もしてないのに残高一○○○○三六二五と書いてある。この目で現金を確かめたわけではないが、おそらく本当に一億円を得たのだという実感は湧いてきた。

 さて、問題はこれからだ。俺は床に転がっていたボタンを拾う。これでもう、一億円を手に入れる幸福の味を知ってしまった。もう一度ボタンを押してみたいという欲求は絶対に消えることはないだろう。本当の悪魔とは実体を持った存在ではなく、人の心の中にいるものだ。

 知らず、俺は笑みを浮かべていた。何が滅ぼうと関係あるものか。また金に困ったときは、再びボタンを押すだけでいいのだ。

 悪魔の言う通りだ。新種なんて毎日生まれている。俺は今日、新種の悪魔となったのだ。

 第二の誕生日を迎えたのを感じた俺は、とりあえず自分へのプレゼントとしてボタンを押すことにした。

 気づけば、大金を得ることよりも、次に何が絶滅するのかが楽しみにすり替わっていた。

 かちり。俺の良心が滅ぶ音がした。

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