帰還兵

スヴェータ

帰還兵

 遥か南方での戦闘。何人もの敵兵を殺し、何人もの戦友を見送った。その後、敗戦に伴い帰還。戦地に足を踏み入れてからおよそ3年の時が経っていた。


 港には慰みで釣り糸を垂らす男が数人いるばかり。実に閑散としていた。きっと出迎えのピークは過ぎ、敗戦国での貧しい日々が始まっているのだろう。僕は遠くへ出ていたから、他の兵士たちより遅い帰還だったのだ。


 港からは汽車に乗り、最寄りの駅まで着くと車を拾った。実家は山の麓の小さな町にある。部隊では最も辺鄙なところの出身だとからかわれたものだった。


 景色が逆さまに再生される。思えば僕がここから港へ向かった時、勇ましいラッパと太鼓の音が鳴り響いていた。沿道は旗を振る人々で溢れかえり、歓声や激励を次々とこの身に受けた。


 それが、今やどうか。沿道にいるのは物乞いか孤児。あるいは、ただ朽ち果てる時を待つ人々ばかり。音はなく、ただこの車が走る音だけが耳に届いている。


 不思議と僕は安堵した。やっと世界が正常な形に戻った気がしたのだ。この絶望的な景色こそが真実。正常である証拠。負けて良かったとまでは思わないが、これで良かったとは思えた。


 運転手は乗り込む時からずっと無言だったが、降車の際にギロリと睨み、初めて口を開いた。ここまでの運賃。割高に思えたが、黙って出した。誰も彼も、自分が生きることに必死なのだ。


 懐かしい。左右にずらりと家が並び、それぞれに洗濯物がはためいている。かつてその家の息子の名が華々しく書かれていた軒先の旗立てには何もない。帰る場所がこうして健在だったことが、僕はとても嬉しかった。


 歩を進める。家事をする各家の女が僕に気付くと、よそよそしく会釈した。ここら一帯は皆知り合い。しかし髭も髪ものびてしまったし、数日風呂に入れず汚らしい格好をしていたから、きっと僕だと気付かなかったのだろう。


 実家の斜向かいには幼馴染の家がある。チラリと覗くと、おばさんと目が合った。おばさんは目を丸くしたかと思うとプイと横を向き、足早に奥へと引っ込んでしまった。


 立ち尽くしていると、背後から母の声がした。振り向くと母は青ざめていたから、抱き締めようと手をのばす。途端、パシンと左頬が鳴った。母は泣きながら僕を平手打ちしていた。


 腕を引っ張られ家の中へ。母は青ざめ、泣いたままの表情で「なぜ戻って来た」と絞り出すように言った。僕は全てを悟った。あの道を通って出て行った者は、帰って来てはならなかったのだと。


 帽子を取って頭を下げる。水をかけられたところで顔を上げると、柱の陰から姉が蔑みの目を向けていた。僕はすぐに立ち去ろうとしたが、「目立つ」とたしなめられたため、夜を待って家を出た。


 敗戦国には外灯を灯す余裕などない。軍から支給された懐中電灯もとうに壊れていたから、僕は暗闇をあてもなく彷徨った。どこを歩いているのやら、生まれ育った町なのに全く分からなかった。


 空が白み始めた頃には、いつの間にか港に戻っていた。まだ1人、釣り人がいる。近付いてトンと背中を蹴ると、釣り人はドボンと海に落ちた。どうやら死んでいたらしい。


 いつから僕は、動かない人間を足蹴にするようになったのだろう。母といい、姉といい、いつから僕に「立派」であることを求めるようになったのだろう。父や兄を「立派」とするため?生きている僕より、死んでしまった彼らのため?


 正常に戻った世界を、異常な世界に慣れた僕たちは受け入れられずにいるらしかった。空を見る。戦闘機ではなく、カモメが飛んでいる。当たり前なのに、僕はそれを「珍しい」と思った。


 僕は泣いた。帰還してから初めて泣いた。頬を伝った涙を風が撫でる。冷たい感触が、何だか楽しい。もう風が吹いても毒ガスのことを気にせず、ただ心地良いと思えばいい。幸せ。それは僕が戦場で失くしたと思っていた感情だった。


 こうして僕は、自分が徐々に正常な世界へ順応していくのを感じた。軍からくすねた銃やナイフは、もう要らない気がした。これは僕が何人もの命を奪ってきた「異常な世界」のものだから。


 背後から姉の声がする。振り向いて見ると、僕を散々探し回ったか、汗まみれになっていた。手渡されたのは小さな包み。どうやら毒薬らしかった。順応できない姉の、精一杯の気遣いなのだろう。


 服薬を見届けるまで帰らないという姉に、僕は戸惑いながら微笑んだ。しかし姉の表情は崩れない。しばし手にのせた毒薬をジッと眺めた。


 ここまで僕は死ぬことを求められているのか。悲しいというよりは、哀れな気持ちになった。もしかしたら、僕が異常な世界における正しさに則って死ななければ、姉たちは前へ進めないのかもしれない。


 誰も彼も、自分が生きることに必死なのだ。姉の場合は、母のことも気にしているのだろう。それなら僕は、死ぬべきか。出征の時に諦めた命。今さら惜しいとは思わない。心は決まった。その上で、姉には見せておきたいものがあった。


「姉さん。薬は要りません。代わりに、まずあの男を見てください。帽子を深く被った、釣りをしているあの男です」


 言い終えると、僕は先程来たばかりの釣り人に銃を向けた。姉は驚いた様子だったが、構わず引き金を引いた。釣り人は乾いた音の直後、海とは反対側に血を流して倒れた。


「うまいもんでしょう。僕はこうして戦場を生き抜いて来ました。では次に、僕を見てください」


 そう言うと僕は座り込み、口を大きく開けて銃口を突っ込んだ。姉が慌てて止めたのを合図に引き金を引き、僕はその場に倒れ込んだ。


 僕が見せたかったものは「死」。それも僕が生み出した、僕による「死」だった。弟が人を殺す姿を見て欲しい。弟の苛烈な死を見て欲しい。そうして異常な世界を刻み込んだ上で、正常な世界に順応して欲しい。これが僕の望みだった。


 その後実際どうなったのかは、僕の知るところではない。願わくはこの「異常な死」を、いつまでも覚えていてくれますように。

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