ハムスターと狼たち

縞あつし

第1話「宮川沙比」

   序章


「なんで私、こんなところにいるんだろ」

 誰にも聞こえないように、押し殺した声で沙比さくらは呟きました。

 仮に聞こえたとしても、その相手はハムスターとチーターだけなのでしたが。その上、片方は沙比を食い殺すと脅してきましたし、もう片方は沙比がそこにいると知っているのかさえ分かりません。ここに入ってからいったいどれほどの時間が経ったものか、それもまるでわかりません。ええ、まったくひどい状況でした。

 さきほどの言葉はつい、口をついて出たものでしたが、それは一週間前の、あの生活を急に思い出してしまったためでしょうか。あのどこにでもあるような、それでいて沙比がもう疲れ切っていたあの生活。あんな、落ち葉の枚数を数えるような日常でも、懐かしく感じたりするものでしょうか。

 そこは暗闇でした。沙比よりもずうっと背の高い古びた衣装ダンスの、一番下の段、湿っぽい引き出しの中、そこに身を隠すように縮まっていました。いえ、正真正銘、隠れていたと言って差し支えないでしょう。

 そこに潜む間中、ほんの少しも身を捩らすことさえ敵わず、時折、額のこぶや手の平の傷が思い出したようにうずきます。変化のない世界は、沙比の気を狂わそうとたえず暗闇のなかに潜み、機会を窺っているようでした。

 沙比はひとり、息苦しさの中で、かつての生活と、小さな怪物ハムスターとのゲームを改めて天秤にかけました。

 答えは、やはり出すまでもありませんでした。

 さまざまな苦痛を一心に耐えながら、沙比は、そのまま息を殺し続けました。


 間奏


 記憶の底にあるあの光景は、一体いつのことなんだろう。

 きっと誰もが、そんな記憶を持っているんだと思う。

 時と共に、記憶の底にあった欠片は埋もれていってしまう。海の底に落ちたビンが、一秒ごとに新しい砂や塵に埋もれていくみたいに。埋もれたビンは海の底との境界線がだんだん曖昧になっていって、そのうち本当にあったのかさえ分からなくなって、やがて忘れられてしまう。

 でも時々、その破片が砂底からひょっこりと顔を出すときがある。

 それが、あの光景。涙に濡れて、ぐちょぐちょになった光景だけど。


 1、沙比とハムスターと霧隠れ


 法事というものがあります。

 ざっくりとした説明では、死者の年忌に営む仏事、ということになります。

 つまり、亡くなった方の親族が、亡くなった日や年から数えて、ある決まった年月を経て集まり、その方を偲んで仏事を行うという営みなわけですが、核家族化が進み、仏事からも隔たることの多い現代では、親類が久しぶりに会する場という意味合いが強くなっているところも、あるとかないとか。

 ちなみに、沙比にとっては、ただの親戚の集まりという表現が、せいぜい許容の限界でした。まあ、世の高校生にとっては概してそんなものですが、沙比の場合、どうにも根深いしがらみ、もとい怨念がかかわっていて、ええ、法事とは、子どもを殺す監獄とさえ思っていたのでした。

 というのも、僧侶が念仏を読み続ける三時間、一帯はひどく厳粛な空間に支配され、子どもは退屈と苦痛を忍ばねばなりませんでした。誰も理解しない、理解できない読経の拝聴が義務づけられ、誰もその空間を壊してはいけないという暗黙の圧力が部屋の隅々にまで張り巡らされている、それが沙比の目にする法事というものでした。子どもが足をぷらぷらさせれば、隣に座る鬼婆が、黄色いふたつの閃光をその足に注ぎ、次に退屈そうな顔に注ぐ、しまいに子どもは震えながらぴしっと足を揃え、泣きそうな顔になってその三時間を過ごすのでした。しかもその読経、誰も理解しないのに、この上なく尊いもののように扱われている辺り、沙比はカルトでも見ているような恐怖さえ覚えたものです。

 加えて親戚の集まりというのも、沙比にとっては、この世の下らない要素をぎっちり詰め込んだ象徴みたいなものでした。学校と同じように。

 その日はまさしく、沙比のさほど遠くない親戚の、百回忌に当たる日でした。


「キミももう高校生でしょう。なんとなく、分かってるんでしょ? キミみたいなひとがこの先、どうなるのか」

 それがハムスターの第一声でした。

 かつてやっていたアニメそっくりの、オレンジ色のゴールデンハムスター。

 最初はただ、後ろ足で立つハムスターが今にも話し出しそうに見えて、ちょっと話しかけてみただけでした。その黒くて小さな瞳が沙比の話すことをちゃんとわかってくれるような気がしたものですから。


 そのすこし前、沙比はトイレに行く口実でお斎をサボる場所を探していました。その時、どこからか、からからと何かが回る乾いた音を聞いたのです。

 法事の後に必ずくっついてくる金魚の糞、それが「お斎」と言われる会食です。わかりきったように子どもの口に合わない懐石料理が出され、親戚そろって親戚の話をします。

 ええ、そう、懐石料理などというものは子どもの口には合わないものなのです。残せば後で、親から雷鳴の鳴るようなお怒りお叱りが待っています。

 悲しい哉、親戚の話にしても、金に抜け目のない大人たちが、家の体裁と威厳を保とうと苦心する場所でしかありませんでした。金と名、その両方をいかに失わないか、常に振りまく笑顔の裏側はそんなものでした。小さい頃から、沙比はそんな空気を肌で感じてきたのです。

 だから「ちょっとお手洗いに」と微笑みながら席を立ったのですけれど、母親から「早く戻ってきなさいね」と微笑みながら声をかけられました。

 流石に母親にはバレバレだったようです。目が笑っていませんでしたから。


 乾いた音は、どうやらお寺の裏側にある小さな納屋からするようでした。

 なんとなく気になった沙比は、サボる場所を探しあぐねていたこともあって、とりあえず音のする方へ、行ってみることにしました。

 忘れられたような古びた納屋で、歩くと床が軋みました。からからと、乾いた音は奧の方から聞こえてきます。

 底が抜けるのを心配して、沙比は慎重に足を運びました。その甲斐なく、ずぼずぼ床は抜けました。床下にはムカデやらゴキブリやらゲジゲジやら、魑魅魍魎の類いがうじゃうじゃいることでしょう。想像するだけでぞっとしません。抜けるたんびに、もう引き返した方がいいんじゃないかと自問自答しながらも、怖いものみたさというやつでしょうか、あとちょっとくらいなら、と、足は止まりませんでした。ギャンブルと同じ構造ですね。嵌まったら、抜けられない、蟻地獄。

 さて、それはともかく、埃を被った床や棚には、同じように埃を被った雑貨が粗雑に置かれていました。褪せて判別できない写真の入った、ひび割れた額縁や、ひび割れた鏡、朽ち果てた椅子やテーブル、服らしき大量の布、欠けた皿、柱時計、そして西洋風の鎧までありました。どれも見るに無残な姿でしたが、昔はさぞ高級品だったのでしょう、表面は煤けていますが、黄金の名残がどの雑貨にも窺えます。

 欠けて曇った姿見に、沙比の全身がぼんやりと浮かびます。喪服用のドレスに身を包んだ、長い黒髪の、華奢な姿。一見しておとなしそうな、あるいは、拭けば消えてしまいそうな自分の姿は、欠けた鏡のなかで歪んで見えました。沙比はすぐに、鏡の前から離れました。

 いったいこの納屋は、かつて、どんな人物の所有物だったのでしょう。きっと、貴族かなんかだったに違いありません。そこは貴族の名残や、その没落の跡を見ているようで、沙比の想像はささやかに膨らみました。

 そして、それは納屋奥の、窓から薄い日が差す場所にありました。

 錆び切って真っ赤になったゲージが、舞う塵の中に霞んでいます。その中で、手の平サイズのハムスターが回し車を駆けていました。

 ゲージにはちょっと奇妙なところがありました。

まずゲージの扉が開けっ放しになっています。しかも埃が薄く積もり、誰かが触った形跡もありません。

 よっぽど間抜けな飼い主なのか、それとも錆びすぎてもう閉まらないのか、どちらにせよハムスターが逃げる気配はまったくありませんでした。

 昔、例のアニメに影響された沙比の一家がハムスターを飼っていたころは、その小動物は扉を開けた瞬間に脱兎の脱走を開始していたものでした。ベッドの小さな隙間から傷つけることなく引っ張り出すのが、いかに難しかったことか。

 加えて餌も水もありません。しばらく供給もなかったご様子です。

 それなのにとても元気そうでした。からからからから、終わりのない運動を続けています。

 ハムスターは餌でもくれると思ったのか、それともただ単に疲れただけなのか、車輪を回すのを止め、ゲージの入り口に小走りで近づいてきました。

「あんた、馬鹿なんじゃないの? せっかくゲージが開いてるのに、逃げないなんて」

 沙比は思わずそう声をかけていました。いつの間にか檻の前にうずくまって、自分でもまったく意識せずにそうしていました。その小さな瞳が綺麗でした。

「ほんとに馬鹿だね……。出口なんていっつもそこにあるのに……」

 そうして、ハムスターが声をかけてきました。

「キミももう高校生でしょう。なんとなく、分かってるんでしょ? キミみたいなひとがこの先、どうなるのか」

 最初は特になんとも思いませんでした。

 アリスだってウサギがしゃべっても変だと思わなかったし、沙比は話しかけられている自覚もありませんでした。

「そりゃあ、ちょっとはね。でも、どうしようもないじゃん」

 ハムスターに声をかけるなんて変な自分。

 沙比は頭のどこかでそう感じていただけでした。

「大人みんな、嘘と金と世間体ばっかり。下らない大人しかいないけど、そんな大人を乗せて地球はずっと回り続けてきたんだもん。からからからから……。どうせ無くなんないし。どうせ……」

「そうだねえ、分かってるんじゃん。彼らは所詮、豚だよ、豚。食べることしか脳のない家畜。太るだけ太って、いつか死ぬその時をただなんとなく待ってるだけ。テキトーに生きながら」

 限界にある人はちょっとくらいおかしなことが起こっても、気にする余裕なんてないものです。餓死寸前の人は、泥水でも構わず飲む。

 沙比もまた、絶えず繰り返される日々の中で限界だったのでしょう。

「キミみたいな狼は、大概、豚たちからは嫌われるよね。家畜は馬鹿だけど数が多いし、何より身の保身だけは気にかけるから。くだらない見栄と、俗物の餌……あとそうねえ、弱者の恐怖かな。そういったもんに駆り立てられて、キミらをなんとかして潰そうとする、まあ、そういうもんよ。社会の外れ者を、彼らは、放っておけないんだから」

 それでも流石に沙比は思いました。

 ハムスターから話しかけられるなんて、大分おかしいんじゃない? 私の頭が。

ようやく沙比にも自分の置かれた状況が理解できたようです。

「あの手この手を使って、飼い慣らすか、そうじゃなきゃ、餓死よ、餓死。なんとかして手の内に収まるようにしたいんだって、彼らは。私はそんな風に牙を抜かれて、潰されていく狼をこれまで何人何人も見てきたんだから」

 いつの間にかハムスターが熱弁を振るっていました。ご大層に、畏まった身振り手振りまで加えて、頗る活力にあふれた感情表現です。小さな前足で握り拳を作り、さも怒りに満ちている、という感じでした。

 ただ端から見れば、とても滑稽です。

「あんたが話してるの? それとも私の頭がおかしいだけ?」

「何をそんなに驚くことがあるの? こんな愚かな人間だってしゃべれるんだよ? ハムスターがしゃべれない道理がどこにあるの?」

 ハムスターは図々しくそう言い放ちました。その言い草、少々イラッとくるものがあります。けれど聞く方のことなど、ハムスターはとんと構いません。

「それよりキミはどうするの? 社会は所詮、キミが肌で感じてきた通りのものでしかないよ? 人のため、子どものためと言い張りながら、その実、自分のことばかりで虚構だらけ。これまでみたいに、信じる度に裏切られ、傷つくのはキミだけよ。友人、親族、恋人、理想、正義、夢、世界、すべてに裏切られる。終いには自分にさえ裏切られることになるでしょうね。そのままそんな生を送り続けるの、宮川沙比?」

 ハムスターの真っ黒な瞳は、沙比の過去の何もかもを見透かしているように深淵でした。まるで吸い込まれそうなほどに。

 あれ、そういえば、私、名前なんか言ったっけ?

「未来に希望なんてないない。キミみたいひとには特にね」

「…………そんなの、知ってるし」

「私はね、どっかの馬鹿な大人みたいに、『自分の意志で選べ』とか、『自分で決めろ』なんて言わない。そんなこと言うやつは、もとからありはしない責任をどっかに作っておきたい小心者か、それか思考停止した能なし、もとい脳なしだから。ただキミにその気があるなら、私に付いてくればいい」

 そう言って、小さなハムスターはのっしりとした足取りでゲージへと戻っていき、回し車の中へ消えていきました。

 すると、本当に消えました。ええ、ハムスターの小さな身体は車輪の中からすっぱりと消えてしまい、後には何も残っていませんでした。

「付いていくって言っても……」

 ひどく困惑しながら、沙比はゲージの中を見つめて言いました。

 腕一本さえ入らない回し車の中に入れ、とでも言っているんでしょうかね、あの偉そうなハムスターは。

 もっとも、もうすっかりあり得ないことを目にしたものですから、何が起ころうとも、沙比はだんだん驚かなくなってきたのですけれどね。ええ、ですから、きっとなにかが起こるような気がしたんでしょう。

 沙比はふと、回し車に手を伸ばしていました。その指先が触れるかいないかという頃、一瞬で沙比の姿は納屋から消えてしまいました。

 いつの間にか目の前には水車がありました。昔の小屋についていたような、木造の回し車でした。ただし、その大きさは沙比の知っている比ではありませんでした。直径十メートルはあろうかという巨大な水車が、水を吐き出しながら回っていました。

 そして、その水車を遙かに越える体躯をした洋館が、その後ろに聳え立っていました。

「よし。付いて来たね。宮川沙比」

 さっきの一回りも二回りも大きくなったハムスターが、館の前で沙比を怪しく、その前足で手招きしていました。


 洋館の周りは真っ白な霧で覆われていて、何も見えませんでした。太陽が出ているわけでもないようです。にもかかわらず、一帯は昼間のように明るいのが、奇妙でした。

 しかし、沙比がそれに気づくことはありませんでした。

「宮川沙比、キミはどうせこのまま生きていても苦しみの中ですぐに死ぬか、骨の抜けた皮のまま生き続けるかのどっちかでしょ。ね、そうでしょ?」

「……まあね」

 なんでそんなことまで知っているのか、さっぱりわかりませんが、確かにそれは当たっているような気がするので、頷かないわけにはいきません。なんでも見通されているようで、いくぶん小鼻をふくらませる沙比でしたが。

「きっとキミはどちらも望まないでしょ。それなら、ゲームをしよう」

 ハムスターは大きくなったせいか、小さくかわいらしいという雰囲気は欠片も残っていませんでした。黒玉よりも黒く深淵な瞳、揺らめく炎のような体の色、前歯は齧歯類より食肉類のそれに近い気がします。

「ゲーム?」

「そう、ゲーム」

 沙比の膝くらいの背丈になっていたハムスターは、重々しい館の扉を暖簾でも押すようにいとも簡単に開けました。

 沙比が押しても、ぴくりともしませんでした。

「さあ、こっちだよ。宮川沙比」

 沙比は流石に少し不安を覚えました。

 ハムスターはすでに館に入って、急かすように顎をしゃくっています。

 扉が閉まったらどうしよう。沙比の力では開きそうもありません。

「なに? 不安なの? それなら先に教えるね。キミの為すべきことはただ一つ、この館から脱出すること、それだけ」

 それはつまり、簡単には出られないということです。先に聞いて沙比の不安は増しました。

「なに? 戻るなら戻るで好きにしたら? ま、私はどっちでも構いやしないから」

 言うだけ言うと、ハムスターはそのまま奥へと歩いて行ってしまいました。

 確かにハムスターの言う通り、沙比にはこれ以上失って困るものはとくになかったのです。それにあの日常に戻ったところで、待っているのもまた、ハムスターの言う通りでした。やはりどうやら、何もかもお見通しのようです。

 その事実にどうにも釈然としないものを感じながら、沙比は耳を澄まして恐る恐る館に足を踏み入れました。背後で急に扉が閉まるかもしれません。そう思って警戒していたのですが、物音一つしませんでした。

 ほっとして振り向いてみると、扉はすでに閉まっていました。


「実はね、この館にはもう一匹、生き物が住んでるの」

 洋館はまさにどこかの映画で見たような、古びた大豪邸といった趣でした。

玄関に入ってすぐに吹き抜けの巨大なホールと大階段が現れ、そこを中心にして数え切れないほどの部屋が屋敷中に広がっています。部屋はどこも大量の家具が置かれていて、その上内装がとても似ている上、隠し通路や不意に訪れる階段もあり、まるで迷路のようでした。

 沙比とハムスターは丁度、螺旋の大階段を上がり切ったところでした。

「足が速くて、獰猛で、それなのに、しなやかなその身体は足音一つ立てずに動くことができるの。ナイフよりも鋭い牙、肉を容易く切り裂く爪が、灯火をゆらゆらと……」

 もし小さい頃にこんな屋敷に住めていたら、さぞ楽しかったろうな。

 部屋から部屋へ渡り歩いていた沙比は思わずそう思いました。

 ハムスターの話など聞いていませんでした。

「チーターよ」

 ハムスターが振り向いて前歯を光らせます。

「は? 何が?」

「宮川沙比、キミ、聞いてなかったの?」

 その通り。

 どんな反応を期待していたのでしょう、ハムスターは不満そうに鼻を鳴らしました。

「まあ、いいや。どうでもいいことだし」

 ハムスターに案内された館は、八階までありました。

 他に人らしき姿は見当たりません。

 どの部屋にも淡いオレンジの灯りが点り、埃一つない床を照らしています。電気ではなく、炎でした。ロウソクのような弱い火ではなく、城の中にいるわけでもないのに、天井近くに下げられた松明で赤々と波打っています。

 キッチンとダイニングには溢れるほどの料理が盛られていました。いったいこんな無人の屋敷で誰が食べるというんでしょう。幽霊でないことを祈るばかりです。

壁には様々な絵が飾られていましたが、その中で一つだけ、沙比の気になったものがありました。

 兄妹でしょうか、沙比よりずっと幼く見えます。他の絵は、絵画の知識に疎い沙比でもどこかで見たことがあるようなものばかりでしたけれど、その絵は有名な画家が描いたというものではないようです。

 育ちがいいと一目でわかるその二人は穏やかに笑っていて、喜びと悲しみが同居したような、不思議な表情をしていました。

「宮川沙比、このゲームにルールなんてないんだ。ルールはないけど、事実がある。まずは一つ」

 もう一つ、沙比の気になったことがありました。

 なぜか、どの部屋にもチェス盤が置かれていたのです。材質は木造、ガラス、大理石と様々で、大小も様々、そして置かれた場所は丁度灯りの真下にあたります。白と黒に分かれているはずの駒は、どれも罅割れ、欠けていて、黒ずんでいました。そのせいで、どれ一つとして同じものはないようです。その、形は全部違った駒が、黒という一色で統一されているのが、奇妙で、関心を惹きました。

 沙比は何気なく、手近にあったガラス製のポーンをひとつ、手に取り、じっと見つめました。

 大きめのジャムのビンくらいのサイズで、重量もばっちり、振れば凶器になりそうです。沙比はチェスに馴染みがありませんでしたが、それでも駒がこれほど大きいことに驚くほどでした。

 それを見つめていると、ふと気づいたことがありました。

 あれ? 私このポーン、どこかで見たことがあったっけ?

「私はね、チーターから逃げてるの」

 吸い込まれるように駒を見ていた沙比は、ハムスターの低い声で我に返りました。

 ハムスターの姿は松明の明かりに揺らめいていて、その影は大きく、小さく形を変えています。

 このハムスターが怪力なのはすでに承知の通り。

 この小動物でさえ、おそらく沙比では手も足も出ないことでしょう。

「チーターは私を探してる。宮川沙比、チーターがキミを見つけてどうするのかは、私は知らん。歩く人形と思うかもしれないし、気まぐれで喉元に食らいついてくるかもしれない」

 つまりチーターから逃げないといけないということか。沙比はそう解釈しました。

 ルールではなく、ただそうする必要があると。

「二つ、私はキミを食い殺す」

「は?」

 なぜだか急に脅されました。

 これは滅多にお目にかかれないシチュエーションです。ハムスターに食い殺すと脅されるなんて、アリスもびっくりでしょう。

「もちろん、何もなしに殺したりなんかしないよ。単に人間を殺したいだけならそこら辺を漁ればいい話だし。だからね、十秒」

 十秒以内に脱出できなければ殺すと。馬鹿かこいつ。ここ八階なのに。

 沙比がそう冷めた視線を送ると、ハムスターは悔しそうに首を振りながら、ゆっくりと部屋の中を歩き出しました。

「私ね、怒鳴り声が嫌いなんだ。あの大人たちの、いたいけな子どもたちを叱る怒鳴り声がなによりも嫌いなの。それがあんまりにも嫌いすぎるんで、とうとう大きな声がどれも嫌いになっちゃった」

 一歩一歩、ハムスターは実感を踏みしめて話しているようです。

「ひどい話だよ。大声で歌いたい時もあるでしょ。大声で泣いて笑いたい時もあるでしょ。大声で叫んだりするのが何より生きがいって子もいる。そんな子らは大概狼なんだよ。それなのに、クズな大人のせいでそんな狼たちと長く居れなくなっちゃった。だから十秒なの」

 ハムスターは沙比へ向き直ると、黒い瞳に一層濃い影を落としました。

「宮川沙比、キミが十秒大きな声を出し続けたその時は、私はキミを食い殺す。何をする暇も、何を感じる間も与えずに、一瞬で喉を噛み切るから」

 このハムスターはきっと冗談を言わない。

 短い付き合いですが、それくらいは沙比にもわかっていました。

「音はいいわけ? 大きな音は。例えば、楽器とか」

「楽器と人の声が同じに聞こえるの?」

「まあ、そういうこともあるかなって」

「残念ながら私にそんな才能、ない。とにかく、人の大きな声が駄目なの。声と音。言葉からして区別があるでしょ。ともかく、声よ、声」

 つまり、声でなければ、どんな大きな音でもいいわけです。

 こういうことはあらかじめしっかり確認するのに限りますからね。世間は騙すことばかり考えますから。

「この二つ目はね、逆に言えば、キミが死にたくなった時、いつでも楽に死なせてあげるってことだよ、宮川沙比」

 ルールと事実。なんと線引きの難しいものでしょう。いや、ある意味簡単です。守る前提が、あるか、ないか。

「そして最後、この館を出られたその時は、キミの望みが叶う」

 きっぱりと断言されました。

 そして事実とまできましたか、沙比でさえわかってないことなのに。

「ねえ、チーターっていうけど、そんなの居なかったじゃない。部屋は全部見て回ったんでしょ?」

「そりゃあ、そうでしょ。チーターから逃げてるのに。見つかるわけにはいかないでしょ?」

 そうは言っても、さっぱり隠れているようには見えませんが。

 むしろ見つけてくださいと言わんばかりに、堂々としゃべりながら歩いています。いいんでしょうか。

「それならもうちょっと用心してもいいはずでしょ」

「そう? 用心したところで見つかる時は見つかるし、見つからない時は見つからないもんよ。事故や災害と一緒」

「それでも、何かしら準備しとくもんじゃないの? その、可能性を減らすために」

 ハムスターはあからさまに眉を顰めました。なんとも表情豊かなハムスターです。

「キミも大分飼い慣らされてしまったと見えるねえ、宮川沙比」

 ため息を盛大に吐いて、ハムスターは首を振りました。

 このハムスター、表情豊かなだけでなく、言いたいことは隠さずに直接、沙比にぶつけてきます。なんならあの親戚たちや級友たちよりもずっと表情豊かに思えました。人前では微笑みばかりで、仮面の裏側では、陰口ばかりの生身の人間よりも。

「可能性を減らすなんて言葉は、あの豚たちの言葉でしょう? 準備? 準備がなによ。勉強、大学受験、就職、全部準備でしょ、可能性を減らすための。その準備した先になにが待ってるって? 安定した生活? 幸せな生活? ふん、嘘ね。ただみんな怖いだけじゃない。生きることに真剣に向き合わず、外れることばっかり怖がって。可能性を減らすっていうなら、その減らされた可能性は夢の可能性とか、豊かな創造力の可能性とか、生きる可能性よ。キミはそんなのにうんざりしてたはずじゃなかったの?」

「…………うん」

「なら、同じところまで墜ちてどうするの? どうしたの、賢い狼さん。キミはわかっていたはずでしょ? 大学受験、大企業への就職っていう大きな物語はもう滅んでいるって、よく知っているでしょ? 向こう十年、二十年の間にその準備はすべて無に帰るって、キミは親戚や友達から学んだんでしょう? 違う? だからここへ来たんでしょう?」

 確かに。

 これには、沙比も頷かないわけにはいかないのでした。

「なら構わないじゃない。チーターは現れる時に現れる。堂々としていればいい」

 ハムスターの姿を、灯火が陽炎のように揺らめかせ、踊らせます。ふと、そのまま揺らいで、どこかへ消えてしまいそうな気がしました。

 沙比は急に不安になって声をかけました。

「ねえ、あんた、チーターに見つかったらどうなるの?」

「さあ?」

「さあ、って……」

「きっと食われるんじゃない?」

「……そう」

「宮川沙比、死は素晴らしいものよ。それを忘れちゃ、いけない」

 そう言ってハムスターは部屋を出ようとしました。

「ねえ、あんた名前は?」

「昔は私にも名付け親っていうのが勝手につけた名前があったんだけど、それはもう捨てちゃった。だから好きに呼んだらいいよ」

 ハムスターは振り返ることなく答えると、そのまま隣の部屋へと消えていきました。その後ろ姿が、少し淋しそうに見えました。

 沙比が一人残されると、もう物音一つしなくなりました。

 さて。とりあえず……。この館から出るか。

 …………そんなの簡単でしょ。

 沙比は手近にあった重厚感のある椅子を大きく振り上げて、力いっぱい窓にぶつけました。窓に向かって椅子を投げつけるのは格別の爽快感がありました。自転車で急坂を思いっきり駆けていくような心地よさ、それを味わえたはずです、

 椅子が窓に跳ね返って沙比の頭に強打しなければ。

 鉛をひどくぶつけられたような衝撃を受けて、そのまま沙比は、しばらく気を失いました。


 沙比の日常生活だって、親戚の集まりと大して変わりません。どうやって知ったのかは謎ですが、まさしくハムスターの言ったようなものでした。

 規則ばっかりの学校に、退屈な授業。いい成績といい進路ばっかり求められて、教室でも部活でも海藻みたいに纏わり付く人間関係。いい人、かわいい人、行儀のいい人、人気のある人、勉強できる人、将来性のある人……。求め続けられる人間像は、ちょっとした綻びで、すぐ崩れ去っていきました。嫉妬、軽蔑、差別、優劣、不信、陰口とに彩られた生活。それを何度も何度も繰り返しました。何度も期待して、その度に裏切られて、また、今度こそはと。

 程度が違えど、いつの時代も、どんな場所でも、きっと誰もが経験している、そんな当たり前の日常。

 沙比は、根はとっても真面目な子でした。聡明で、そして優しかったのです。

 だから余計に疲れ、傷つき、ぼろぼろになりました。特に、親友であった聡子との関係なんかは、もし悪魔がいるならその絶好の標的になっていたでしょう。親に心を開けなかった沙比がすべてを聡子に打ち明けていたことが、かえって沙比を苦しめました。信頼の裏には、大きすぎる代償が待っていました。

 沙比は、もう、この先同じことの繰り返しなら、生きていく必要はないと思うくらいには限界でした。

 賢い分、世界がよく見えました。

 自分の周りからそれが消えることはないと確信し、将来に絶望するのには、それで十分すぎました。

 だったら、いっそのこと……。


 えっと、ここどこだっけ……。

 そういえば私、変な夢を見ていたような……。

 ぼやけた視界には、茶色い何かが映っています。焦点が合い、それが倒れた椅子だとわかってくると、だんだん意識がはっきりしてきました。

 遅れて鈍い痛みがやって来きます。だいぶ強くぶつかったらしい、沙比はおでこを摩ると、腫れ上がってこぶになっていました。

 まあ、夢じゃないか。

 こぶを摩りながら沙比は立ち上がりました。

 窓ガラスも、椅子も、床も、傷一つありません。そのままでは、ただ椅子が倒れただけにしか見えませんでした。

 一体何があったんだろう。

 頭痛に顔をしかめながら、横になった椅子を持ち上げました。ずっしりと腕に伝わる質量。これでガラスが割れないはずはありません。

もう一度。今度は、慎重に、でも、できる限りの力で。

 綺麗な放物線を描きながら椅子は窓ガラスにぶつかりました。やはりガラスはぴくりとも動かず、椅子も壊れることなく沙比と反対側へ落下し、そのまま動かなくなりました。

 沙比は横たわる椅子をぼうっと見つめました。

 そして石壁のように直立するガラス窓。

 沙比は椅子を乱暴に掴み、手当たり次第にそこら中の壁や窓に向けて振り回しました。

 けれどいくらやっても、椅子も、木造の壁も、ガラスの窓も、折れることもなければ、凹むことも割れることもありません。

 だんだんとやり場のない無力が沙比を支配し始めました。理不尽な壁に突き当たったやり切れなさ。空気を掴もうとするときに感じる無力。それに抗うことができない自分に対する、焦りと、怒りと、失望と。

 その力に流されるまま、沙比はがむしゃらにガラスを叩きました。

 それはまるで、鉄の壁を叩いている気分でした。何度も何度も握り拳を振り上げました。皮膚が裂けて温かい血がとくんと流れ出しても叩き続けました。

 窓を思い切り蹴り飛ばして、沙比だけが弾き飛ばされました。尻から勢いよく落ち、全身を鞭で打ったような衝撃が襲ってきました。

 しかし、ガラス窓はそよ風にでも吹かれたように変わらずそこにありました。

 もう自分でも訳が分からなくなり、沙比は傍に落ちていたものを力任せに殴りつけました。あのポーンです。もはや白黒判別のつかないポーン。

 沙比の手に激痛が走りました。

 手の平には、鋭いガラスが刺さっていました。見ると、チェスの駒は、粉々に砕けていました。

 窓には傷一つありませんでした。

 窓の外は、霧に覆われて真っ白でした。



 それから沙比はいろいろと試してみました。

 タンスにしまってあった陶器のティーカップ、甲冑が持っていた長剣、羊の剥製。棚を丸ごと倒したこともあります。けれど、どれも駄目でした。ぶつける方もぶつけられる方も傷一つつきません。

 傷に当てる布を探していくつかの服を破ろうとしたが、無駄でした。それで沙比が着ていた喪服用のドレスを裂いて、包帯にしました。

 唯一、チェスの駒だけは違いました。

 どの部屋にある駒でも、その素材がなんであっても、簡単に砕けたのです。

 そして不思議なことに、どの駒も、どこか見覚えがあるような気がしました。沙比はこれほど大量のチェス盤どころか、そもそも実物さえ見るのは初めてのはずなのですけれど。

 沙比はとりあえポケットに入るだけチェスの駒を入れ、重くてろくに振れそうもない剣と盾を持ち、他に館を出られる場所がないか探し始めました。

 隠し通路や隠し部屋はいっぱいあったのですが、外につながる道はどこにもありませんでした。屋根に出られそうな場所もなく、抜け穴もなく、あと探していないのは一階から下だけでした。

 地下はどうでしょう。

 いかにも何かありそうだと沙比が目星をつけ、二階から降りる階段に足を置いた瞬間、気配がしました。

 なるほど、現れる時に現れる、ね。

 向こうが分かっているのかは定かではありません。

 ただ確かに沙比は感じたのです。

 沙比は忍び足で近くの部屋へ戻り、どこか隠れる場所を探しました。

 いくつもタンスや棚がある中で、外の様子を覗えそうなものを選んで、引き出しを開けました。

 それは沙比よりずっと背の高い古びた衣装ダンスでした。中身は元から空で、小さな穴が引き出しにいくつか開いていました。

 相当大きなタンスだったのでしょう、一番下の段に横になると沙比の身体はすっぽり嵌まりました。剣と盾は入らなかったので、タンスの傍にそっと置いておきました。

 できるだけ音を出さずに、一つ上の段の底に手の平を押しつけながら、引き出しを閉めていきました。

 中はだいぶ湿気ています。おまけに真っ暗で何も見えません。どうやら一番下の段の小さな穴まで、天井で燃える灯りは届かないようです。

 沙比はため息を一つ漏らすと、そのまま息を殺し続けました。


「なんで私、こんなところにいるんだろ」

 沙比は思わずそう呟いていました。

 もうどれだけ時間が経ったのかもわかりません。

 一時間かもしれないし、十分かもしれない。すでに一日経ったってこともあり得ます。

 その間に、様々な光景が泡のように浮かんでは消えていきました。

 学校の下らない生活、親戚の息苦しい会合、楽しくももう戻らない過去、生まれたての真っ白な記憶。

 身を捩らすことは敵わず、指先さえほとんど動かせません。額のこぶも、手の平の傷も時折、思い出したように疼きました。暑苦しくて汗にまみれ、拭くこともできない、その気持ちの悪いこと、悪いこと。

 外から物音はしませんでした。沙比の心臓の音が聞こえるだけです。

 変化のない世界は気が狂いそうになりました。人間、なかなか無には耐えられないのでしょう。

 それでもかつての生活よりはましだと思う辺り、沙比はハムスターの言う、狼なのでしょう。

 ここにはあの生活にはなかった何かがありました。あのハムスターのせいでしょうか。

 あのハムスターも今頃、こうやって身を隠しているんでしょうか。

 そう沙比が考えていると、不意に、気配が湧きました。ゆらりと、湯気のように漂ってきたのです。

 変わらず外に音はありません。

 沙比は自分の鼓動が早まるのを感じました。

 チーター。

 チーターがこの辺りを探っているようでした。ゆっくりと、鋭敏な嗅覚を使って、物音一つ立てずに。どうやら、このタンスの周りを回っているらしい……。

 沙比はかすかな音一つ出ないように細心の注意を払い、ポケットに手を伸ばして駒を握りしめました。

 漏れ出そうになる息を押し殺そうとするのに反して、鼓動に従い、息が荒くなっていきます。深呼吸、深呼吸……そう言い聞かせるのが精一杯。

 獣はまだこの周りを回っています。どうやら向こうも気づいている様子でした。

その気配が突として消えました。

 瞬間、真っ暗な視界が揺れました。地震かとも思いましたが、そんなわけはありません。どうやら、チーターはタンスごと倒すつもりのようでした。始めは小刻みだったのが、だんだん横に大きくなっていきます。

 狭い引き出しの中で沙比の身体のあちこちがぶつかり、次第に外の灯りが入り始めました。このままじっとしていても、引き出しごと投げ出されるのは時間の問題でしょう。

 意を決して上の段に指をかけ、引き出しごと自分の身体を引っ張り出しました。それと同時にもう一方の手で投げられるだけ、真上に駒を放り投げます。

 チーターは天板に乗って、身体全体でタンスを揺らしているようでした。黄色に斑の巨体が、放り投げた駒の隙間から僅かに見えました。

 沙比はすぐさま起き上がって部屋の出口へ向かって飛びました。剣と盾は遠いと判断。背後で駒の砕ける音が響き渡ります。

 廊下に出てから大階段は三歩の距離。その階段まで行かずにすぐに手摺りを飛び越えました。宙に残された長い髪が一房断ち切られ、一寸前に沙比のいた場所を、 巨獣が列車のように凄まじい圧力を残して通り抜けました。

 沙比は、二階から六メートルの距離を垂直落下。ハンマーを打ち付けたような激痛が足裏全体を占めました。ひびくらいは、入っているかもしれません。

 ちらりと二階を視界に収めると、獲物を捕り損ねたチーターはそのまま正面の部屋に頭から突っ込んだようです。けれどそんなのは気休めにもならないでしょう。

ハムスターに案内された時は地下室なんてありませんでした。けれども探さないわけにもいきません。

 とりあえず、すぐ近くのダイニングへと駆け込みます。ちょっとは沙比の臭いを紛らせることができるかもしれませんから。

 沙比は椅子を何脚か組み立て、扉の前に即席のバリケードを作りました。

 間髪入れずに扉を衝撃が襲い、激しく揺るがしました。もう来たのでしょう。チーターは何度か体当たりをして、諦めたのか衝撃はやみました。流石鉄壁の扉。この扉も他の階の家具と同じく、いくら壊そうとしてもぴくりともしないのでしょう。もちろん、のんびりしている暇などありません。

 ダイニングは、数十人は入れるだろうという広さで、真ん中に置かれた大テーブルには和洋に関係がないどころか、中華、インド、韓国、タイといった諸アジア料理から、見たことのないような料理まで、何でもごちゃ混ぜに詰め込まれていました。

 なぜかダイニングにまでチェス盤が置かれていて、一応、持てるだけ駒を回収しておきました。武器としてはこの上なく心許なかったのですが、ないよりはましでしょう。

 ダイニングに地下室らしいところはなく、キッチンも同じでした。きっと今頃、ハンターは獲物を捕らえるために静かな足取りでこの近くへ忍び寄っているはずです。沙比はキッチンから包丁を一本持ち出して、隣の部屋の敷居をくぐろうとしました。

 ハムスターに案内された時、隣には確か……。

 そうです、確か大きな歯車があったのです。木造の大きすぎる歯車。ずっと回り続けていて、あれは何だろうと思っていました。

 今思えば、あれは水車の裏側ではないでしょうか。なんで今まで忘れていたのでしょう。沙比は水車からやって来たのです。

 沙比がそこまで考え、敷居をくぐった先は果たしてその歯車がありました。

 そこで沙比の足が止まりました。そこにいたのです、猛獣が。歯車がある反対側の壁には、奇妙な機械が複雑に立ち並んでいて、その隙間を縫うように音もなく歩いていました。

 沙比は引き返すか一瞬ためらって、立ち止まりました。

 今なら、まだ向こうは気づいていません。

 沙比は右手に収まっている包丁をじっと見つめ、強く握りしめました。

 深呼吸して、大きく振りかぶり、無防備に背中をさらすチーター向けて投げつけました。

 包丁は回転しながら吸い込まれるように猛獣目がけて飛んでいき、そして、そのまま体の中へ消えました。

 刺さったのではなく、消えたのです。

 驚きに目を見張る沙比の前で、包丁はチーターの体を通り抜けていきました。そのまま壁に当たって、欠けることも、猛獣を傷つけることもなく床に落ちました。

無傷の猛獣は、ゆっくりと沙比の方へ体を向けました。

 生きているように揺らめく炎に照らされて、鋭い牙が赤く輝きます。

 沙比が片手にいっぱいの駒を投げて屈むのと、チーターが床を蹴って跳躍するのは同時でした。

 散弾のようにチェスの駒は広がり、いくつかは逸れ、いくつかは矢のごとく飛びかかるチーターに直撃しました。

 幸いその一つが目に当たり、猛獣は呻いて、僅かに進路を逸れました。

 逸れた駒はほとんど床や壁に当たって砕けたのですが、しかし、一つだけ、天井近くの松明に当たったものがありました。

 松明はその衝撃で揺れ、炎が一瞬消えました。炎はそのまま燃え続けていましたが、屈んだ勢いで転がるように歯車の前へ移動した沙比は、その一瞬を見逃しませんでした。

 沙比は歯車に手を置いてじっと見つめました。来るときはハムスター小屋のあの回し車を見つめていたらいつの間にかこの世界にいたのです。それなら、帰る時も同じに違いありません。

 歯車の歯一枚一枚を確認するように眺めました。

 特に何も起こる様子は、ない。

 目を瞑って、それからゆっくり開いてみます。

 やはり特に何も起こる様子は、ない。

 やっぱり裏側じゃ駄目なのか……。

 そう思った瞬間、沙比はさっと身体を伏せました。沙比の頭を掠めるように猛獣の身体が通り過ぎ、そのまま歯車にぶつかりました。

 沙比は慌てて距離を取ろうとして全身で床を蹴りました。

 そしてチェス盤につまずいて派手に転びました。起き上がりかけて、代わりにチェス盤を拾い上げ、盾のように真上にかざしました。そこに間髪入れず猛獣が飛び乗りました。

 身を捩らしてチーターから離れようとするのですが、如何せん、重すぎました。

すぐ目の前に猛獣の牙と爪がありました。ナイフよりも鋭い牙、肉を容易く切り裂く爪。誰かの声が蘇ります。

 猛獣の頭ごしに、その牙と爪を照らす松明が視界に入りました。丁度真上でした。

 灯りに気を取られていた沙比の柔らかい頬から首元にかけて、深く、紙でも裂くように容易く、獣の銀色の爪が切り裂きました。

 赤く濁った液体が宙に飛び散ります。細かい血管の一本一本が痛みに耐えきれず絶叫を上げていました。沙比がまるで経験したことのない痛みでした。学校のジャングルジムから落ちて腕を骨折した時も、これほど痛くはなかったはずです。皮膚の内側から無数の針を突き刺されているような痛みでした。

 痛みに滲む視界の中、沙比は歯を食いしばりながら、手元にあった最も大きい駒を力いっぱい投げつけました。

 チーターは顔だけをさっと引き、駒を避けました。もちろん、沙比の狙いはそれではありません。岩石のような重と積を持つ駒は狙い違わず松明に命中し、炎はそのまま猛獣の上へ落ちていきます。

 チーターは苦痛の叫びを上げながら、のたうち回りました。松明はチーターの身体から落ちるとチェス盤を燃やし始めました。沙比は慌てて火から逃げようとしましたが、チーターの重みにのしかかられていた足が思うように動きません。そのままがむしゃらに這って距離をとろうとしました。

 体中、いたるところが痛みに支配されていました。

 額のこぶは腫れ上がり、右手に巻いた黒い包帯は血に塗れています。足は二重の鈍痛で動かずに、頬からは止めどなく血が溢れています。

 沙比は自分の血で水たまりができた床の上を這い進みました。意識が朦朧として、前後さえ定かではありませんでした。

 ぼやける視界に、散乱したチェスの駒が這う行く手を阻むのが見えました。沙比は一つを掴んでどかそうとしました。今の沙比にはそれさえも一苦労でした。

 ええ、最後の綱は切れたのです。そもそも冷静に考えれば、水車は館の脱出に関係がないではありませんか。ハムスターはこの館からと言ったのです。この世界からではない。それでも水車は望みの綱でした。地下室なんて都合のいいものはないのでしょう。

 どうすればいいのか皆目見当がつかなくなった沙比は、無理して這うことが馬鹿らしくなっていました。それにこの出血では、長くはないでしょう。

沙比は、動かしかけた手を止め、駒を見つめました。どかしたところで、もう意味はないと思いました。どうやらそれは、クイーン、らしい。まだ視界がぼやけ、よく見えません。

 けれどふと、あることに気づいて、目を凝らしました。定まった視界はどんどん明瞭になっていきます。確かに、間違いない。その駒は、かつて親友だった聡子の姿そのものでした。

 それで沙比はすべてを理解したのでした。どうしてかとっても可笑しくて、それでいてとっても悲しくて、大声で笑い、泣きたい気分になりました。けれどもそれは沙比の為すべきことを、すべて為した、その後のこと。

 チーターは激しく床や壁に身体をぶつけて火を消すのに必死でした。

 おそらく、あの程度に死にはしないでしょう。

 けれど今は時間稼ぎができればそれで十分でした。

 為さねばならないことはわかったのです。

 足が僅かに軽くなっていました。結果的に、ほんの少しだけ足を休めたことになり、それが幸いしたのでしょう。痛みはありましたが、しっかりと動く。

 血で足跡を残しながら、足を引きずって沙比は往くべき道を歩いて行きました。


 沙比は一部屋ずつ、しっかりと炎をチェス盤の上に落としていきました。

 松明は沙比の身長では到底届かない位置にありました。そのため、あのタンスの傍に置いていた剣を使いました。振り回せなくても、掲げることくらいはできました。

 一階分済めば、上に上がって同じことを繰り返す。

 チェス盤を燃やした炎は、そのまま館の床や壁を燃やしました。あれほど強固だったガラスも、椅子も、火の粉に変わっていきます。

 改めて見れば、黒ずんだあの駒たちは、喪服や制服を着た親戚や級友そっくりでした。それがチェスを見たことのない沙比が、駒に見覚えのあった理由でした。

 そろそろ猛獣が復讐の業火を運ぶ頃でしょう。

 後ろを振り返ると、丁度、背中を焼かれたチーターが沙比と同じ階に上がってきたところでした。

 

 沙比はまさに今、死の淵にいました。

 すぐ後ろからは凶暴なチーターが迫り、沙比の身体は布きれ同然でした。そうでなくても館は燃えています。その上、どんどん上階に上がりながらその炎を拡げているのだから、死は確実でした。

 ただ不思議なことに、いや、むしろこんな状況だからこそ、沙比は生を実感していました。

 飽きと虚無だけに満たされた生とも、ただただ苦しいだけの生とも違う、肌で感じる生でした。身体を走る痛みを感じ、身体に伝わる鼓動を感じ、身体を巡る血流を感じる生、それがありました。そこに足を踏み置くに値すると思えたのは、生まれて初めてでした。

 これがあいつの言っていた、死の素晴らしさというものなんだろうか。死によってのみ、生は実感を得るということなのだろうか。

 沙比は最後の松明を落として、ゆっくりと後ろを振り向きました。

 目と鼻の先に、獣はいました。しかし、襲いかかってくる気配はまるでありませんでした。

 チーターの姿は炎の中で揺らめき、そして消えていきました。

 燃えていく。館が燃えていく。窓から見える白い空はひび割れ、暗闇を讃えていました。

 すべてが済んだ沙比は泣きながら大声で笑いました。狂ったように泣き続け、笑い続けました。自分がしたこと、望んでいたことが、可笑しくて、悲しくて、声が枯れるほどに叫びました。

 そして、どこから現れたのか、ハムスターが沙比の首を噛み切りました。

 痛みも苦痛も感じる間もない、一瞬の出来事でした。

 ハムスターに殺される直前、沙比はこんな言葉を耳にしました。

「宮川沙比、この勝負、キミの勝ちだよ」

 しばらくして、少女の身体は、チェスの駒とともに、炎に飲まれて消えました。


   終


 翌日、どこかの雑誌で、こんな記事が載っていました。


 一ヶ月に渡る一連の奇怪な死亡事故、及び死亡事件はここへ来て、とうとうかつてないほど悲惨な一ページを歴史に刻むこととなってしまいました。

 これまで亡くなった方を総じて見送る告別式に集まっていたほぼ全員が焼死。奇跡的に生き残ったのは、高瀬留佳さん(13)、高瀬有紀くん(10)、高梨都子さん(8)、川上芳樹くん(6)、沢辺遙香さん(0)の五名で、証言によりますと、焼死した全員は、どこからともなく火に包みこまれたということです。謎が深まるばかりのこの一連の事件、早急な解明が望まれます。

 なお、行方不明になっていた宮川沙比さん(17)は依然として行方がわからず、何らかの事件に巻き込まれたとして……。


 この島国にはかつてたくさんの狼たちがいた。彼らは一匹残らず、心ない大人どもに絶滅させられてしまった。

 けれども、狼たちの澄んだ瞳を持った者は現代にも生きている。

 宮川沙比もその一人だった。彼女は、どの道長くはなかった。だからその前に、私が心の奥底で燻る火に薪をくべてやった。最期くらい、押し込めていたすべてをはき出してもいいんじゃない?

 人殺しだって? いや、宮川沙比は、可能性を絞る戦いに明け暮れている盤上の戦士たちを、ただ壊し、燃やしただけだよ。まあ、燃やす必要はなかったんだけど。

 チーターがどうなったのか、それは言うまでもないでしょう? まあ、私がチーターから逃げているっていうのは、あながち嘘じゃない。

 狼が豚たちに食われてる。それが現状。そんなのはおかしいでしょう? 三匹の子豚の物語みたい。

 だから私は、狼たちの背中を少しだけ押してやるんだ。狼たちはもともとその力を持っている。ただ、人間に飼い慣らされるうちに疲弊してしまう。それは仕方のないこと。だからほんの少しでいい、ハムスターの前歯を貸してやるんだ。

 宮川沙比はもうああするしかなかった。だけど、他の狼たちは違う。いろんな可能性があるだろう。私はその狼たちのために、今日も回し車を駆けている。

 何故、私がそんなことをするかだって? もちろん、あの一枚の砂に埋もれた光景のせいだ。あの楽しく、そして悲しかった、唯一の幸せな記憶の断片が、私にそうさせるんだ。あの狼たちとの、海に沈んだビンの欠片が。

まあ、もう決して戻りはしないものだけど。

 最後に一つ大切なことを言い忘れていた。

 宮川沙比は、決して誰かひとりを嫌ったり、恨んだりしなかった。いや、できなかった。だからこそ、彼女は狼だった。

 そして、だからこそ、彼女はすべてを燃やしたかったんだろう。嫌うこともできず、恨むこともできず、ただ己が苦しいだけ。すべてを灰に帰して、どこかへ消えてしまいたかったんだろう。

 その苦しみを共有できるひとは、きっと狼だ。

 狼たちよ。満足な豚になるな。人間に屈するな。狼王のように、誇り高くあれ。

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ハムスターと狼たち 縞あつし @shitsuamashi

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