【27】狂気

 ジャングルで眠っている肉体に意識を戻した三人の頭上に、容赦なく太陽が照りつける。


 この辺一帯は背丈ほどの植物が茂っている。横になるのは難しかったので、樹木にもたれて膝を抱えて座り、倉庫に意識を移動させた。


 背を伸ばした純希は、目の前の植物の葉が気になった。何気なく葉を捲ってみると、黄色みを帯びた蝶の卵が隙間なく整然と並んでいた。


 密に生みつけられた蝶の卵に寒気を感じて、鳥肌が立った両腕をさすった。気持ち悪い蝶の卵を潰す気にはなれないが、もし試してみても潰れないのだろう。


 (島の生体は不思議な力で守られているんだ。虫の卵も石のように硬いはずだ)


 生体と死体の差について話し合っていたときは、全員がカラクリを解こうとしていた。それなのに、いまになって恐怖を感じる理由はなんだろう。自分にはない感情だ。そして失踪した由香里にもなかった感情だ。みんなも現実世界が恋しいに決まっている。


 「なぁ……類」


 類は純希に目をやった。

 「何?」


 「しつこいようだけど、現実世界の理沙に逢いたいんだよな?」


 「当たり前じゃん」


 「だったらどうして、カラクリを追究しようとすると避けるんだ? 怯えるものなんてないはずだよな?」


 失踪した由香里も純希もおかしな質問ばかりしてくると思った。

 「怯える? 俺が? そんなわけないじゃん」


 囁きに関して、綾香たちが一同に打ち明けるタイミングはわからないが、自分たちはいまからジャングルを歩かなくてはならない。


 進む方向を変えるためにも、それを類に確認する必要がある。もし囁き声が聞こえているなら、本来の類に戻ってもらわないと困る。


 「カラクリに怯える要素がないなら方向転換するぞ。浜辺を目指すなら俺が進もうとしていた方向だ」


 「嫌だ!」断固拒否する。「明彦だって反対する」


 「いや」明彦は類に言った。「廊下で話し合ったんだけど、純希が言った方向に進んだほうがいい」


 「けど、幽霊も純希と同じ方向を浜辺だって言ってたじゃん」


 純希が言った。

 「かもしれないけど、俺が進もうとしていた方向はまちがいなく浜辺だ」


 「浜辺かどうかわかんないだろ? けっきょくは方向感覚を失ったから、こんなことになったんだ」憤然とした類は、純希に言ってから、明彦に訊いた。「どうしていきなり純希の意見に変えたんだよ?」


 明彦は、自分の身に起きている異変を類に説明した。

 「まちがった考えを囁いてくる声が聞こえていたんだ。それに逆らえなかった。カラクリを解こうとすると不安に襲われた。だけど、その声に従うと不思議と不安が和らいだんだ」


 「囁き?」


 「ああ。不思議と自分の声なんだ」


 「自分の声……」


 「もうひとりの自分が、本来とるべき言動と真逆の考えを囁いてくる。その声に従うほどカラクリの答えから遠ざかってしまう。だから俺は、囁いてくる内容と真逆の行動をとることにしたんだ」明彦は真剣な面持ちで類に言った。「じつはさ……倉庫で嘘をついた。俺にも理沙が衰弱しているように見えたんだ」


 明彦たちが廊下に出ているあいだ、ずっと理沙を見ていたが、いつもどおり笑顔だった。

 「お前まで? どこから見ても理沙は元気だよ」


 「現実世界の理沙があれだけ衰弱してたら大変なことだし、じっさいは元気なんだと思う。だけど不気味としか言いようがない」


 「不気味って……」


 純希が言った。

 「綾香にはいつもの理沙にしか見えなかったみたいだけど、由香里や健、そして俺や明彦にも、理沙が衰弱して見えたってことは、必ず意味があるはずなんだ」


 類は言った。

 「もし意味があったとしても、進む方向となんの関係があるんだよ?」


 囁き声が聞こえていた明彦が、類の質問に答えた。

 「俺は衰弱した理沙を見て、本来の自分に戻れたんだ。類、いまのお前は本来の自分じゃないはずだ。お前にも聞こえてるんだろ? もうひとりの自分の囁きが」


 類は否定する。

 「そんなもの聞こえない。疲労が原因で幻聴が聞こえていただけだろ?」


 たとえ聞こえていたとしても嘘をつきたくなるのはわかっている。おそらく百回訊いたとしても嘘をつくだろう。どうしても囁きが正しいと思い込んでしまう。

 「幻聴とはちがう」


 「何も聞こえないって。マジでしつこいぞ」


 「おい……」純希が明彦の肩に手を置いた。「いまの類に説明し続けても日が暮れる。もしかしたら本当に聞こえていないのかもしれないし……だって俺も聞こえないから」


 「そうだな……進むか」


 「ああ。強引にでも」


 ふたりは、類が反対する方向へ歩を進めた。すると類は、鬼の形相で声を荒立てた。周囲に大声が響く。


 「俺はそっちにはいかない! 俺に逆らうなよ!」


 足を止めたふたりは、顔を見合わせた。

 (いつもとちがう。まるで別人みたいだ)


 どうにかして類を説得したい。カラクリに対して恐怖を感じるなら、それを逆手に取ればよいと純希は考えた。


 「まだまだカラクリは解けそうにない。それに、墜落現場に向かうわけじゃない。浜辺に戻りたいんだ」“解けない” を強調する。「そう、カラクリは解けない。浜辺に戻るだけだ」


 類は、満面の笑みを浮かべた。

 「純希がそこまで言うならしかたない」


 類の表情は明らかにカラクリが解けないことに対して安堵している。純希は考える。


 (恐怖をいだくということは、カラクリの答えになんとなく気づいているからじゃないのか? 明彦や綾香そして健も、カラクリに恐怖をいだいていた。にもかかわらず……正気に戻ればカラクリを解くためのヒントすらわかっていない。恐怖なんて感じないこっちとしては不思議でならない……)


 明彦が類に言った。

 「純希が言った方向に進むぞ」


 類はうなずく。

 「うん」


 明彦と純希が前進した。笑みを浮かべていた類の視界に、手のひらほどの大きさの石が映った。その瞬間、顔から笑みが消えた。虚ろな双眸で石を見つめて、拾い上げた。そしてふたりの後ろ姿を凝視した。


 カラクリが解けたら困るのは俺だ―――


 カラクリを解かれる前に殺せ―――


 殺せ―――


 虚ろな目の類の頭の中に囁き声が響いた。前方を歩いている純希の頭部に目をやった。


 殺せ―――

 

 力強く石を握った類は、純希の後頭部を目掛け、腕を振り下ろそうとした。その瞬間、殺したくないと叫ぶ本来の自分の声が頭の中に響き、はっと我に返った。


 一瞬、純希を本気で殺そうとした。


 明彦が言うように、本来の自分とは真逆の考えを持つ悍ましい囁きをする自分がいる。だが、なぜだかそれを言いたくない。


 「類」明彦が、後方にいる類に顔を向けた。「あのさ……」


 類は手にしていた石を背に隠した。

 「何?」


 明彦は類の咄嗟の行動を見逃さなかった。しかし、隠した物まではわからなかった。それを問い詰めれば自分たちにとってよからぬことが起きるような気がした明彦は、類の行動に触れなかった。


 「もし、お前の頭の中に囁き声が響いていたら……」


 明彦の言葉の途中で否定する。

 「そんなもの聞こえないよ」


 明彦には、類が嘘をついていると察しがついていたので、言葉の続きを口にした。

 「声の奴隷にだけはなるなよ」


 「しつこいな。聞こえないって言ってるじゃん」


 「ならいいけど」

 (いったい何を背中に隠したのか……俺たちをガチで殺す気なのか?)


 明彦が顔を正面に戻したので、その隙に持っていた石を大地に置いた。そのとき、魔鏡の中で死神に化した小夜子に、近いうちにひとを殺すと言われたのを思い出す。それと同時に、小夜子が変貌する直前に叫んだ意味深長な言葉を思い出した。


 “囁き”。


 “もうひとりの自分の囁きが”。


 “抗えない囁きが”。


 小夜子が何を言いたいのかわからなかった。人格交代をするさいに聞こえる声のことだろう、そう思い込んでいた。それにあのときは、カラクリの答えを知りたい一心だった。


 俺は絶対にひとを殺さない。だけど、いま、たしかに一瞬だけ殺意が湧いた。俺は何があっても友達を手にかけたりはしない。みんなを守りたい。


 それなのに、どうして……。


 これも死神の罠なのか? この症状をふたりに打ち明けたほうがいいに決まっている。でも……どうしても言いたくない。


 このままふたりの後方を歩くよりも、前方を歩いたほうがよい気がした。自分が怖い。それなのに囁き声が聞こえていることを打ち明けたくない、と反発するもうひとりの自分がいる。思い悩んでいたとき、ふたたび明彦がこちらに顔を向けてきた。


 「お前のほうが体力があるから先頭を歩いてよ」明彦は類以上に不安を感じていた。「俺らじゃ駄目っぽい。先頭はお前の役割だ」

 (いまの類は信用できない。無防備な背後を狙われたらヤバい)


 類は動揺から言葉を噛む。

 「や、やっぱり、先頭は俺が一番だ」


 類が先頭を歩くと、明彦は後方を確認した。類が背中に隠した物が気になる。大地に視線を這わせたが、わからなかった。明彦の中で類に対する不安が大きくなる。


 (重症だな……)


 カラクリの答えがわからなければ、この島からの脱出は不可能だ。カラクリの答えを知る、それが必須だ。それなのに答えに恐怖をいだく。


 恐怖心や不安がいっさいない純希とのちがいはなんだろう? と、恐怖を感じる理由を考え続けても、カラクリの答えを知らないのだから、けっきょくは ‟なぜ、どうして” の繰り返しだ。謎解きをしたいところだが、いまの類を交えて話し合ってもまったく意味がないだろう。


 わずかに頭痛がする明彦は、重苦しいため息をついた。

 

 (考えなきゃいけない問題が山積みなのに……ひとり会議スタートだな)


 椰子の実が目的で旅客機の墜落現場に戻った初日、乗客の無惨な死体が横たわる大地には、大量の荷物が散乱していた。その光景の中に、カラクリの答えになりそうなものはなかった。


 だが、死体を見たくなかった自分たちは、周囲をくまなく確認したわけではない。


 カラクリの答えがわからなかったとしても、旅客機の墜落現場に到着すれば何かしらの手がかりくらいあるだろう、と期待する気持ちがあった。


 それなのに、囁き声に頭を乗っ取られていたせいで、肝心な方向を見失ってしまった。頭痛と不安を伴う囁きに抵抗するのは難しかった。

 

 肝心なカラクリの答えは旅客機の墜落現場にあるというのに……。


 その後、男の幽霊にも、答えは旅客機の墜落現場にあると教えられたが、いまの俺たちには見えないと言われた。


 俺たちを連れて逝こうとしていた幽霊の言葉は、すべてでたらめなんだろうか……。はっきりさせたくても、いまのところ確かめるすべはない。


 それならこのさい、幽霊が指し示した方向に進んだらどうなるのだろう? 


 やっぱり危険だ。それには純希も反対していた。


 いま進んでいる方向は、純希が言う浜辺への道。そして、幽霊の男も同じ方向を浜辺だと言っていた。


 だったら……幽霊が指し示した旅客機の墜落現場の方向は本当なのか? それとも偶然に純希と同じ方向を指し示したのか?


 本来の自分の考えとは真逆の言動を囁いてくるもうひとりの自分。抵抗するには、囁きと真逆の行動をとればいい。そうすれば本来の自分と同じ考えになる。


 それなら……俺たちが一番恐れている幽霊が指し示した方向に向かうことこそが、真逆と言えるのではないだろうか……。


 「なぁ……」歩行速度を落した明彦は、純希に小声で話しかけた。「あのさ……」


 類に聞かれたくない話だと理解した純希は、明彦の歩行速度に合わせ、小声で返事した。

 「どうした?」


 「幽霊が指し示した旅客機の墜落現場の方向に進んだらどうなると思う?」


 「マジで言ってるの?」


 「うん」


 「それは俺も反対だって学校で言ったじゃん」


 「お前自身が気づいてないだけで墜落現場を避けていたら? 本当の意味で真逆に行動するなら、幽霊が指し示した方向に進むのが正しい考えだよな?」


 「正気に戻ってくれたのは嬉しいけどチャレンジャーすぎる。似たような景色ばかりが続く道を歩いてるんだ。もしちがったらガチでヤバい」


 そう言われると不安だ……考えを改める。

 「やっぱり、一度、浜辺に戻ったほうが安全か……」


 「俺はそう思うけどね」


 「それからもうひとつ」


 「もっとチャレンジャーな話でも?」


 「いや、ちがう。類のことだ。先頭を交代したとき、あいつ背中に何かを隠した」


 「何それ? どういうこと?」


 「わからないけど、いまのあいつは信用できない。油断するなよ」


 「油断するなよって……マジで言ってるの。それこそパンチ一発で元に戻らないかな?」


 「類の場合は、そう単純じゃない気がする」


 「現実世界に戻りたい気持ちはずっと変わらないし、カラクリの追究に恐怖なんて微塵も感じない。お前もみんなも最初はそうだったじゃん」


 「ジャングルを歩き始めてから、カラクリのヒントを掴めそうだって期待してたんだ。でも墜落現場が近くなるにつれて、急に怖くなっちゃって……。囁きに従うと恐怖心が緩和されていくのを感じたんだ。そのあとは知ってのとおりだよ」


 道に迷ったとき先頭を歩いていたのは類だ。疑いもせずに類の後ろを歩いていた。

 「お前さぁ……もしかして、類が道を逸れていることに気づいてたわけじゃないよな?」


 明彦は頭を抱えた。

 「ごめん……囁きと恐怖心に完全に負けていた。墜落現場を避けたい気持ちが増していって……自分でもどうにもならないくらいに……」


 「やっぱり……わざと道をまちがえたのか……。信じきって歩いてた俺って馬鹿じゃん」


 「本当にごめん……」申し訳ない表情を浮かべた。「謝って済む問題じゃないかもしれないけど、どうすることもできなかった」


 「もういいよ。いつもの明彦に戻ってくれただけでよかった」いまさら責めてもどうにもならない。「もしかしたら、その混乱こそが死神の狙いなのかもな。修復不可能な仲間割れってやつだよ」


 「だとしたら……囁きに抵抗するのはもっと難しいはずだ。俺はなんとか抜け出せたんだ。つまり、強い意志ひとつでどうにでもなるっていうことだよ」


 「強い意志ねぇ……」前方を歩く類に目をやった。「お前は抜け出せたかもしれないけど、あいつは難しそう」


 「だろうな……」


 ふたりが小声で会話していると、類がこちらに顔を向けてきた。距離が離れてしまったので、大声で話しかけてきた。

 「おーい! 疲れたのか?」


 明彦が言った。

 「脚が攣っちゃって」

 

 類は心配する。

 「大丈夫か?」


 「うん、大丈夫だ。いま行く」返事した明彦は、純希とともに類に駆け寄った。「ごめん。なんだか疲れちゃった」


 類はふたりに訊く。

 「休憩にチョコレートでも食べる?」

 

 乾いた口腔内にまとわりつく甘いチョコレートを想像した純希の顔が強張る。断りたいと思った直後、明彦が類に言った。


 「浜辺に引き返したらまた墜落現場を目指す。それは、そのときのために残しておこう」


 背中からリュックサックを下ろしていた類は、ふたたび背負う。

 「たしかに、そうしたほうがいいかも」


 嫌いなチョコレートを食べずに済んだので純希は安心する。

 「そうそう、そのほうがいい」


 類は進行方向を向いた。

 「行こう。ちゃんとついてこいよ」


 明彦が返事する。

 「わかってる」


 三人が歩き始めると急に空が曇り始め、恒例の激しい雨が降ってきた。明彦と純希は、顎を上げて口を開けた。口腔内に流れる雨水が食道を通過した。


 一気にコーラを流し込めたら頭の中もすっきりするだろうなぁ……と、爽快な炭酸飲料を恋しく思うふたりとは対照的に、類は魔鏡の世界で小夜子に言われたことを深く考え込んでいた。


 それは自分の頭の中にときどき響く囁き声だ。小夜子が死神と化す前に叫んだ意味深長な言葉、 ‟もうひとりの自分の囁き” 。他人の声ではない。紛れもなく自分の声だ。


 ひとを殺すと死神に言われてから頭が混乱していた。小夜子の言葉には曖昧な表現が多かったが、思い返せばいまに繋がる。


 ということは……俺は近いうちにひとを殺すのか? 


 俺の目の中に死神が宿っているのか?


 俺は殺意をいだいた。それも親友に。けれども土壇場のところで本来の自分の声に救われた。囁き声の奴隷になるところだった。


 そうだ……明彦は俺に忠告してきた。それはつまり、あいつにも囁き声が聞こえていたということだ。この胸の内を話したい。


 それなのに抵抗するもうひとりの自分がいる。この強すぎる反発にどう抗えばいい? 


 明彦はそれを制御している。どうやって……。


 制御する必要なんてない―――


 カラクリを解いてはならない―――


 頭の中に囁き声が響くと、安堵感を覚え、肩を揺らして密かに笑った。

 (そうだよな。カラクリを解く必要なんてない……)


 歩を進める三人の周囲が高木に囲まれた。雨のせいで視界は悪いが、先ほどより歩行しやすくなった。


 類は立ち止まり、ふたりに顔を向けた。

 「少し休まないか?」


 土砂降りの中、大地に座るのも横になるのも慣れたものだ。明彦が濡れた大地に腰を下ろした。

 「疲れたし休むか」


 純希も腰を下ろした。

 「そうするか」


 類は「俺……ちょっと……涼んでくる」とふたりに言ってから、背丈ほどの樹木が茂った場所へ足早に入っていった。


 明彦と純希は首を傾げた。そして、純希が明彦に訊く。

 「涼むって何? この雨の中、涼むって意味がわからないんだけど」


 「俺もそう思った」


 「へんだよな」


 「すごくへん」


 「茂みを覗いてみようぜ」


 「あいつ……リュックサックの中に石を詰めにいったわけじゃないよな?」


 「石? なんのために?」


 「俺たちを強打する武器を作るために」


 「まさか……そこまで狂ってないだろ?」


 「俺もそう思いたいけど……」

 

 「マジで言ってるの?」


 「とにかく、いまの類は危険だと思う」と言ってから、類が向かった茂みを指さした。「行くぞ」


 ふたりは姿勢を低くし、歩を進めた。足音と気配は雨音で掻き消される。それでも念のために忍び足で近づいた。植物を掻き分け覗いてみる。しかし、そこに類の姿はなかった。周囲を見回してもどこにもいない。


 純希は言った。

 「あれ? 類のやつどこに行ったんだ?」


 明彦は目を凝らして前方を確認する。

 「どこにもいない……」


 「こんなわずかな時間で、どこに行けるっていうんだよ?」


 「まさか、由香里のつぎは類が失踪ってオチじゃないよな?」


 「幽霊に拉致されたわけじゃないよな?」


 「類!」焦ったふたりは、声を張り上げて名前を呼んだ。「類!」


 周囲は静まり返っている。類からの返事はない。


 純希が言った。

 「ヤバい展開だよ」


 「まだこの辺にいるかもしれない。探そう」


 ふたりは名前を呼びながら周辺を探し始めた。


 そのころ、類はふたりの心配を余所に学校の倉庫にいた。


 鏡の世界と現実世界で向かい合う理沙とキスした類は、鏡に気を吐きかけ、手のひらを押し当てた。そして理沙が、類の手形に手のひらを重ねた。


 類は愛しい理沙を見つめて、もう一度、鏡に息を吐きかけて文字を書く。


 《あいしてる》


 「あたしも愛してるよ」


 理沙のふっくらとした頬。笑うとすごく可愛い。大好きな理沙の笑顔が見たい。


 《笑って》


 「笑う? どうして?」


 《笑顔が見たい》


 「あたしの笑顔でよければいつでも」微笑みながら言ったあと、類に訊いた。「またみんなに黙って来たの?」


 どうしても逢いたかった。理沙に逢いに行くと言えば、カラクリに集中しろと言われる。そのとおりだとわかっているものの、本能のように逢いたくなる。


 《うん》


 「あたしは嬉しいけど怒られちゃうよ」


 理沙の顔を見て気が済んだ。

 《バレたら大変だから戻るよ》


 「もう一回キスして」


 理沙が鏡にキスをすると、類も鏡に映る理沙にキスをして、目を瞑ったまま意識を集中させた。その後、すぐさま雨に打ちつけられた。


 「類! 類!」と、名前を呼び続ける明彦と純希の姿が見えた。


 「ここにいる!」と、ふたりに手を振った。

 (ちょっと離れただけなのに心配しすぎ……)


 ふたりは訝し気な表情を浮かべて類に駆け寄った。


 明彦が訊いた。

 「この辺りは確認したのに、お前はいなかった。どこに隠れてたんだ?」


 この場で倉庫に意識を移動させた。つまりずっとここにいた。だが、ふたりに見つからなかったらしい。それなら誤魔化しておこう。

 「もう少し奥のほう。いろいろ考えたかったから」


 明彦は類に対してさらなる不信感をいだいた。

 (奥のほう? 俺たちは類が茂みに入ったあと、すぐに様子を窺った。そんな短時間で姿が見えなくなるまで遠くに行けるか? 絶対へんだ)


 純希も類に疑いの目を向けた。

 (明彦が言うように警戒したほうがいいかもな)


 類はふたりに言った。

 「そろそろ歩こうぜ」


 返事した明彦は、類が背負うリュックサックに目をやった。

 「そうだな……」

 (石は詰めてなさそうだ)


 類の行動を確認した明彦と純希は、ふたたび類を先頭にして歩を進めた。

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