ノー・ダウト

Nico

ノー・ダウト

 眠らない街――。


 使い古されたクリシェがこれほど似合う場所はほかにないだろう。要塞のような高級ホテルが立ち並ぶラスベガスの夜空は、ぼんやりと怪しげな光を帯びる。


 ライトグレーのスーツに濃紺のシャツ。サングラスの奥の少し垂れたブルーの目が音楽にあわせて踊る水柱みずばしらを見つめていた。吸いさしのタバコを手入れの行き届いたブラウンのローファーが踏みつける。


 ベラージオの夜は、今日も雑多な音と金の匂いで溢れていた。カードを切る音、コインの落ちる音、チップのぶつかりあう音、歓喜の声、落胆の唸り……そして、ルーレットの回る音――。


 その賑やかな空間の入り口に立ったところで、タキシードに身を包んだスタッフがすかさず声をかけた。

「サングラスは外してください」

「あぁ、もちろん。ついでにパンツも脱ごうか?」

 くだらない冗談にタキシードの男は愛想笑いで返す。ダグラスは慣れた手つきでサングラスを外すと胸ポケットにしまった。

「サインはいいのか?」

「サイン? いえ、サインをいただくものはありません」

「……そうかい」

 少し寂しそうな表情をダグラスは浮かべた。

 

 脇目も振らずにフロアをまっすぐに横切り、一番奥のテーブルに向かう。一際の存在感を放つルーレットのテーブル。そう、「カジノの女王」のもとへ――。


 ディーラーはダグラスの姿を認め一瞬表情を失ったが、すぐに平静を装い、妖艶な微笑を浮かべる。ダグラスはテーブルに着くと、100ドル札ベンジャミンを一枚だけ置いた。


全部25ドルオール・ブラックで」

 ディーラーは口の端に笑みを浮かべるダグラスを一瞥する。置かれた紙幣をすばやく取ると、同じ場所に黒のチップを四枚置いた。たったそれだけの動作だったが、女の指先はダグラスの視線を釘付けにした。思わず手を伸ばすが、そこにはもう魅力的な指先はなかった。空を掴む代わりに、チップを手に取る。

「残念だけど、フライトが一時間半後に出発する」

「それで?」

「のんびり楽しむ暇はないんだ」

「質問もお願いもした覚えはないけど」


 誰にも聞こえないように小声で交わされたその会話は、二人が三年ぶりに交わした会話だった。



 *  *  *  *  *  *



 燦燦さんさんとマカオの街を照らした太陽が西の地平線へと沈むと、一転して涼しい風が神々しく輝くグランド・リスボアの足元を吹き抜けた。ダグラスはスーツの上着を片手にその中へと足を踏み入れる。入り口に立つ小柄な係員が、口の動きだけで「ハロー」と控えめな挨拶を寄越す。


「パスポートを見せようか?」

「あいにく、それほど若くは見えませんよ」と癖と愛嬌のある英語で皮肉っぽく返す。「それから、サングラスは外していただけますか?」

「わかってるさ。ついでに、パンツも脱ごうか?」

 軽口を叩きながらサングラスを外す。途端、男が息を呑んだのがわかる。

「た、大変失礼しました。ミスター・スミス」

「ダグラスでいいよ。ダグでもいい」

 ダグラスはいかにも著名人めいた余裕を見せ、手を差し出す。男は慌てて、しかし遠慮深げにその手を握った。

「あの、子どもがあなたの大ファンなんです。昨日のマカオ・グランプリも観に行きました。優勝おめでとうございます」

「悪くないレースだったろ?」

「えぇ、最高でした。もしよければ、子どものためにサインを頂けませんか?」

「もちろんだ」




 マカオの夜は、想像以上に熱かった。


 熱気に満ちた会場をテーブルからテーブルへと渡り鳥のように移る。しばらくほかのプレーヤーの戦況を眺め、潮目がよさそうであれば席に着く。勝ってるうちは控えめに賭け、負けが込んできたらすぐさま手を引く。ギャンブルで勝つコツは、欲や未練を断ち切ることだとダグラスは考えていた。


 ブラックジャックにバカラ、ポーカーと梯子はしごをしながら、その足はルーレットのテーブルへと向かう。ディーラーと目が合い、ダグラスの足が止まった。


 ディーラー。それは黒子であり、場の支配者――。


 透き通るような白い肌に、知性を感じさせる切れ長の目。少し腫れぼったい唇がいたずらっぽく笑う様は実に魅惑的だった。そして、手――。彼女の長くつややかな指がボールを弾く時、ダグラスは言いようのない興奮を覚えた。


 戦況を見ることもなくスツールに腰を下ろすと、1000香港ドルを五枚テーブルの上に放った。引き換えに、一山のチップが挑戦的な視線とともに置かれる。


 ――長い夜になりそうだ。


 ダグラスはそう心の中で呟き、ほくそ笑んだ。


「Place your bet」


 最初のゲーム。ダグラスは手始めに「赤」のシングルに10ドルを置く。他のプレイヤーもそれぞれ自分のチップを置いた。ディーラーがボールを弾く。心地よい音ともにボールがスピンする。


「No more bet」


 やがて、カランカランと軽快な音を立てボールが跳ねる。止まったのは「赤の27」だった。10ドルチップが重なる。


「なるほど、アメリカ人か」

 二つのフレーズから得た少ない情報をダグラスは女にぶつけたが、彼女は意味深な微笑を湛えるだけだった。


 二回目。ダグラスは「11と8」のスプリットに20ドルを賭ける。結果は「黒の22」。チップが回収される。


「残念ね、イギリスのお方Britisher

 ダグラスが笑う。


 三回目。40ドル分のチップを「25~36」のダースに賭ける。結果は「赤の34」。チップが三倍になって返ってくる。


 ダグラスは勝っても負けても、二倍の金額を賭け続ける。負けても次に勝った時に取り返せる。勝てば、倍々ゲームという寸法だった。ギャンブルを楽しむコツは、あくまで理知的に欲求に身を委ねることだとダグラスは信じていた。


「知りたいことがあるんだ」とダグラスはおもむろに言った。「君みたいに腕のいいディーラーは狙った数字にボールを入れられるのかい?」

「さぁ、どうかしら」


 結局、一時間余りのうちに所持金は三倍近くに増えていた。軍資金を手にしたダグラスは腰を上げた。

「また戻ってくる」

「質問もお願いもした覚えはないけど」と女が答えた。


「ふん、つまらない男だ」

 背中越しに聞こえた敵意のある言葉は、明らかにダグラスに向けて発せられたものだった。振り返ると、鼻の下にひげを生やした小太りの中年男性が我関せずといった様子で自分のチップを集めていた。

「何か言ったか?」

 ダグラスが厳しい視線で男を見据える。

「大きな博打もせずに、ひたすら安全な橋を渡る。堅実に生きたいならここに来る必要はない」

「見たところ、随分と負けが込んでいるようだが?」

「俺はギャンブルをしてるからな」

 ふん、とダグラスは鼻で笑った。

「ギャンブルが何かを知りたいなら、一度自分の人生lifeを賭けてみるといい」

 そう言い捨てて立ち去ろうとしたダグラスを男は逃がさなかった。


「あんたは、自分のレースにlifeを賭けているのか?」

 再び足が止まる。

「なに?」

「そんなんだから、いつまでもフォーミF3ュラ3で燻ってんのさ。命を賭けなけきゃ、死ぬまでフォーミF1ュラ1には行けないぜ。ダグラス・スミス」

 男の言葉は、ダグラスが決して脱ぐことのない鎧の中の生身を土足で踏みつけた。信念を持ち出す間もなく、ダグラスは沸騰した。紙幣を握りしめたまま男に掴みかかる。勢いあまってスツールもろとも地面に倒れこんだ。周囲で悲鳴が上がる。

「貴様に何がわかる! 命を賭けたこともないくせに、ごろつき風情が笑わせるな!」

 四方から警備員がすっ飛んできて、ダグラスを後ろから抱え込むと男から引き剥がした。なおも激昂に顔を紅潮させながら、ダグラスは罵詈雑言フォーレターワードをまくしたてた。

「俺は自分の人生に疑いはない! 俺の生き方は俺が決める!!」


 初めのうちは男に対する罵声だったが、やがてそれは溜まった鬱憤の捌け口となり、最後にはダグラスの真情の吐露のようにも聞こえた。何人もの警備員に両脇を抱えられテーブルを去る間際、ディーラーが口を動かしたのをダグラスは確かに見た。


 落ち着きを取り戻したのちにそのシーンを顧みたとき、彼女の言った言葉が「またねSee you」だったのではないかという思いが、ダグラスの心を捉えて離さなかった。




 その一年後に、ダグラスは再びマカオ・グランプリに参戦するために珠江しゅこうデルタの小さな島を訪れた。レース結果は散々なものだったが、ひとたび終わってしまえば、ダグラスの関心はカジノへと向いた。だが、一年前と変わらない活気を帯びたフロアに彼女の姿はなかった。


 たまたまトレーにドリンクを載せて横を通りかかったスタッフを呼び止める。

「すまない、去年の今ごろルーレットのディーラーをしていた女性はまだいるのか?」

 呼び止められた小柄な男が「あっ」と声を上げた。

「ミスター・スミス、またお会いできて光栄です」

「また?」

「去年、レースの翌日にサインを頂きました」

 今度はダグラスが声を上げた。

「あぁ、覚えてるよ。お子さんは元気かい?」

「えぇ、昨日の結果には残念がっていました」

「……それは申し訳ないことをした。だが、優勝したあいつのファンに鞍替えするのはやめておいたほうがいい。運転技術はなかなかだし顔もいいが、酒癖が悪い」

「覚えておきます」

「で、彼女は?」

「あぁ、アンですね。もうここにはいません」

「というと?」

「詳しくはわかりませんが、今年に入ってすぐに辞めました。噂では母国に戻ったとか」

「彼女はアメリカ人だろ?」

「えぇ、そうです」

「今でもディーラーを?」

「わかりません」

「そうか……」

「お役に立てず申し訳ありません」

「いや」

 そう言うと、ダグラスは男の肩に手を置いた。「おかげで彼女の名前がわかった。できればフルネームを知りたいところだが」

「アンナです。アンナ・ローレンス」

「アンナ・ローレンス。いい名前だ」

 ダグラスは礼を言うと、出口へと踵を返した。

「今日はプレーされないのですか?」

「あぁ、今日はやめておく。あいにく、ここにはあまりいい思い出がないんだ」


 トレーの上からシャンパングラスを取り、チップを渡した。

 


 *  *  *  *  *  *



 シャンパングラスをテーブルの脇に置く。ダグラスははなから勝つことを求めず、欲求のままにゲームを進める。四枚のチップで始まったゲームはその枚数を増やしたり減らしたりしながら、三十分後には十倍にまで膨れ上がっていた。時計を見る。あと一ゲーム分の時間しか残されていなかった。


「どうしても知りたいことがあるんだ」

 おもむろにダグラスはそう呟いた。てっきり独り言になると思っていたその言葉に返事があった。

「視力を失った悲劇のレーサーに勝利の光は射すのか、とか?」

 ダグラスは自嘲じみた笑みをこぼした。

「失っちゃいない。命を賭けるには少々頼りなくなってしまっただけさ」

「それって失ったのと同じじゃない? レーサーとしては」

「……そうかもしれないな」


 二年前にグランド・リスボアを訪れ、アンがすでにそこにはいないことを知る数カ月前、ダグラスはオランダでのレース中に事故を起こしていた。時速二百キロ近いスピードでコーナーに入る直前、早めにブレーキを踏んだフェラーリを避けきれず、その後部にダグラスのマクラーレンが乗り上げた。あっと思う間もなかった。吹き飛んだ破片の向こうに空が見えたと思った次の瞬間には、フェンスに激突していた。意識はすぐに戻ったが、ダグラスは起き上がることができなかった。肋骨を三本と大腿骨を骨折し、肩が外れた。命が助かっただけでも幸いだった。


 その傷が完全には癒えていなかったが、チームに無理を言い、その年のギア・サーキットを走った。世界でも有数の難コースを前にし、ダグラスはそれまでに感じたことのない恐怖を感じた。その恐怖の原因は、目だった。駆け引きを握る手の感覚でも、レースのリズムを司る肺の柔軟さでも、ブラインドコーナーを捌く足の動きでもなく、ダグラスは目の反応の遅さに違和感を覚えた。これまでであれば気づいていたほかのマシンの変調、路面の状況の変化に気づかない場面が増えた。その事実にダグラスは恐怖を覚えた。


 ――俺の目は、もはや命を賭けられるほど信用できない。


 次の年を迎える前に、ダグラスは引退を決意した。




「それで、何を知りたいの?」

 アンの言葉にダグラスの意識がサーキットからルーレットのテーブルへと戻る。

「それは……」

 ダグラスは手元のチップをすべて一か所へと置く。「これから確かめる」


 赤の12クイーン――。


「もし、俺の知りたいことがすべて正しいのなら、ホテルのバーで待ってる」

 ダグラスの言葉に少し思案する間があってから、アンは三年前のあの日と同じように、いや、あの日よりも魅力的な笑みを、口の端に浮かべた。


「No more bet」


 アンの張りのある声が場を制す。テーブルの上に束の間の静寂が訪れる。


 ――知りたいことは三つ。


 繊細な指が小さな球体を摘まみ上げ、ルーレットの縁にそれを置く。


 ――一つ。腕のいいディーラーは、狙った数字にボールを落とせるのか。


 しなやかな指先がボールを弾く。


 ――二つ。アンにはそれができるのか。


 心地よい摩擦音を伴ってボールが滑る。


 ――三つ。アンにそれができるとして、


 しばらくして、ボールはそのスピードを落とし始める。


 ――彼女は今夜俺のもとに、


 ボールは二度跳ね、


 ――現れるのか。 


 止まった。



 二人の視線が交錯する。アンが最高にクールな笑みを浮かべる。湧き上がる感情を抑えきれずに、ダグラスは勢いよく立ち上がるとその肩を強引に引き寄せた。スツールが吹っ飛ぶ。二人の唇が、重なる。






 誰が何と言おうと、俺は自分の生き方に疑いはないノーダウト――。



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ノー・ダウト Nico @Nicolulu

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