第14話    墜

「なぁハルト、これ見てくれよ!」ランディはポケットから封筒を取り出すと、親指と人差し指で挟んで、春人の目の前で振って見せた。

「ん? なんだそれ? 駐禁チケットでももらったのか?」春人はギターのチューニングを合わせながら、上目遣いにランディを見上げた。

「ハッハー! そんなもの、いくらもらったって、もうなんともないんだぜぇ? 俺は今日から生まれ変わったんだからな!」

 春人達のバンド、ライフボックスは、新年に行われるニューイヤーライブへの出演のため、スタジオで候補曲を絞るなどの最終調整をしていた。メジャーなバンドも多数出演する他、ロサンゼルスでは超有名なバイパールームというライブハウスで行われる、まさにライフボックスにとっては大チャンスと言っていい程の規模のライブである。

「はぁ? 俺にはお前の言ってることが理解出来ねぇよ。そのペラペラした封筒を持ってると、駐禁は切られないってことか?」

「それだったらいいんだけどな。そんなことより、もっとちゃんと訊いてくれよ! どうしたんだブラザー、なにがそんなに嬉しいんだい?って感じでさ!」

「はぁ……。なんなんだよ、その気持ち悪い言い回しは。悪いけど、俺は忙しいんだよ。おまえが思ってるよりも、こいつのチューニングはシビアなんだぜ?」

「まぁまぁまぁ、ちょっとだけでいいから俺に時間をくれよ。たぶんおまえは、この封筒の正体を知ったら口から胃袋が飛び出るぜ?」

「はいはいわかったよ! どうしたんだぶらざー、なにがそんなにうれしいんだい? これでいいか?」春人はチューニングの手を止めると、呆れ顔でランディに問いかけた。

「ハッハー! そんなに知りたいのかい?ブラザー。こいつはなぁ、俺の人生をハッピーに出来るチケットなんだぜ?」

「おまえ、ふざけすぎじゃねぇか? なんなんだよ、紙切れ一枚にチンタラしやがって。俺は忙しいって言っただろ!」春人は苛立ちが見て取れる表情で言った。

「わかったわかった、もうふざけるのは終わりだ。そんなことより、マジでこいつはとんでもねぇ話なんだよ!」ランディは真顔を作ると、封筒から一枚の紙切れを取り出した。「おまえ、ファンタジーファイブって知ってるか?」

「なんだそれ? 五つの夢物語ってことか?」春人は興味なさそうな顔で答えた。

「おぉブラザー! まさにそのまんまだ! こいつはなぁ、五つの数字を選んで、抽選された数字に全部当てはまったら大当たりっていうドリームチケットだ!」

「なんだ、宝くじか。日本にもあるぜ? そんな感じのやつ。当たるといいな」

「おぃおぃ、ブラザーはいつからそんなに鈍感になったんだ? 俺のこのハッピーな気持ちがおまえには伝わらないのか?」

「はぁ……。夢見るのは構わねぇけど、おまえも早いとこチューニングやれよ。もうライブまで一か月切ってるんだぜ? まだまだやることはいっぱいあるんだから」

「おいハルト、おまえ、まだわからないのか?」ランディは不満の声を漏らした。「だから俺は、その五つの夢物語をゲットしたんだよ! 信じられない? あぁそうさ、俺自身が一番信じられないよ! だけどこれは現実なんだよ!」

 春人は、明らかにいつもとは違うランディの態度と口調に、だんだんと心を動かされて行った。他のメンバーも、ただ事ではない空気にランディの持っている紙切れを覗き込んでいる。

「えっ? おまえ、俺をからかってる訳じゃないよな?」

「あぁ、もちろんだともブラザー! 俺達はパラダイスへの入国許可をもらったんだよ!」ランディは、今まで見せたことのないような、とびっきりの笑顔で答えた。

「おぉぉぉぉ! マジか! そりゃすげぇ話だ! やったなおまえ! そんで? その紙っ切れはいくらになるんだ?」

「だから口から胃袋が飛び出るって言っただろ? フェラーリかマセラティくらいは買えると思うぜ?」

「はぁぁぁぁぁ!? おぃおい、マジかよ! 軽く二十万ドルじゃねぇか!」

「あぁそうだ、三十四万ドル当たったよ! 円にすると、えーっと、三千七百万円くらいか? なぁハルト、神はちゃんと俺達のそばにいてくれたんだよ。俺は生まれてから今日まで、神を信じることを忘れなかったよ。それがこの結果に繋がったんだな」ランディは瞳に光るものを浮かべると、胸で十字を切って神に祈った。

「いやいや、マジで口から腸まで出たよ。で? どうすんだ? その金」

 涙ながらに祈っていたランディはメンバーを見回すと、白い歯を見せながら爽やかに答えた。「俺はフェラーリよりもマセラティが好きなんだが、この金は……、そうだな、やっぱり……バンドのために使うよ」


 それからのライフボックスは、時間の許す限りスタジオに入った。

 もちろんニューイヤーライブの準備のためでもあったが、スタジオ代をファンタジーファイブの当選金で賄えるため、リハの回数が格段に増えたのである。時間をかけてゆっくりと曲を作り上げられることが主な要因だった。

 それに伴い、各メンバーの楽器や機材もメンバーのリクエストに応えた物へと変わり、ライフボックスはインディーズバンドとしては他に類を見ない、最高の機材を取りそろえたバンドへと変わって行った。

 さらにアンプやドラムなどを運ぶ機材車も、それまでの、いつ壊れるかわからないような年代物のワンボックスから、中古とはいえピカピカに輝く、日本製のRV車へと変わった。各地への遠征のことも考え、キャンピングカーを購入したのだ。

「いやぁ、この車最高だな! 見ろよこれ、ちっちゃいけどキッチンまでついてるぜ?」

「そんなことよりこれ見てみろよ! この壁を開くとベッドになるんだぜ? 機材車っていうより、こりゃぁ楽屋に使った方がいいな!」

 こういったメンバーの意見は、ランディの満足感を刺激し、更なるバンドの進化を誘発させるのだった。


「おいハルト、見てくれよ、この新しいベース!」それから数日たったある日、ランディはエレキベースを片手に、とびっきりの笑顔でスタジオに現れた。「やっと出来上がったぜ! いやぁよかった、年内に間に合って!」

「あぁ、そういえば言ってたな。フルオーダーで新しいベース作るって。どれ、見せてみろよ」春人はギターを弾いていた手を止めると、笑顔で立ち上がった。

 早速ランディがケースのジッパーを開けると、ピカピカと黒く光ったベースが現れた。フェンダー社製のプレジョンベースである。

 だが、ランディがケースから取り出すと、それは普通のプレジョンベースではなかった。黒いボディに金、銀を基調とした見事な和風の絵が施されている。

「見ろよこれ! こんなにビューティフルなベース、どこ探したってここにしかないぜ? すげぇだろ!?」ランディは興奮を抑えきれない口調で言った。

「あぁ……、こりゃすげぇや!」春人はそのベースに完全に魅了された。「これは……姫路城か? しかも桜が満開だぜ。しかしまた、えらい細かい絵だなぁ」

「あぁ、俺が日本で見た中で一番美しい景色を書いてもらった。”ケイ”が持ってた写真をそのまま移植してもらったんだ」

「いいねぇ、いいセンスだよ。インパクト抜群だな! でもこれ、びっくりするような値段だったんじゃねぇか?」

「あぁ、いいんだ。俺はこのベース、一生使うつもりだからな。そう考えたら安いもんだろ?」ランディはプレジョンベースを、大事そうに撫でながら言った。「それにしても、ホントにおまえは新しいギター要らないのか? 別に遠慮することねぇんだぞ? どうせ泡銭なんだから」

「あぁ、俺は別にこいつさえあればいいんだ。あっ、そうだなぁ……、新しいシールドと、あとはエフェクターを何個か買わせてもらうよ」

「あっはっはっは、OK、わかったよ。一番値段が高いもの買ったらいいさ」そう言うとランディは、椅子に座って話を続けた。「でもな、話はこれだけじゃないんだぜ? おまえらがびっくりするような、グレートなプレゼントも用意してあるんだ」

「は? まだなんかあるのか? おまえ、いくらなんでも金使いすぎじゃねぇか? いくら高額当選って言ったって、税金で結構持ってかれただろ? あとから払う税金だってあるらしいじゃねぇか。ちょっとは考えた方がいいぜ?」春人は本気で心配していた。

 アメリカでは、高額当選した後、44%の人間が5年もしないうちに全額使い果たすというデータがある。そしてそのほとんどの人間が、レベルの上がった生活から脱却出来ず、自己破産という選択をせざるを得なくなるのだという。

 ランディが高額当選したことで、春人は彼なりに心配し、そのことを調べていたのだった。

「あぁ、わかってる。大きな金を使うのはこれが最後だ。俺だって色々調べたんだぜ? 金を使い果たして自己破産する奴が多いとか、その後死んじまうやつも結構いるとかな。だけど大丈夫。残りの金は全部ケイに渡しちまったよ。あいつはああ見えてしっかり者だからな」ランディは右腕を春人の肩に回すと、左手で親指を立てて見せた。


 ケイはランディの彼女である。

 同じ街に生まれ、同じ街で育った幼馴染のランディとケイは、それが必然的であるかのようにまだ成人する前から一緒に暮らしていた。

 幼い頃から兄妹のように育ったせいだろうか、ケイはランディの行動すべてに興味を持ち、またそのすべての行動に、それがまるで自分の意志であるかのようについて回った。ランディが日本に滞在していた時も、それが当たり前のように同行している。

 実はランディとケイはある程度日本語を話せるのだが、日本に滞在していた約半年の間、二人はライブハウスで知り合った女性から日本語を学んだのだった。

 ある日、刺激のある音楽だけを求めて来日したランディとケイは、情報だけでなんとかライブハウスNにたどり着いたのだが、言葉が通じないこと、また、文字が読めないことで行動が行き詰まり、Nの目の前で途方に暮れていた。

 だが、しばらくNの前を右往左往していると、どこからともなく一人の女性が二人の前に現れ、救いの手を差し伸べてくれた。「何か困ってるみたいだけど、わたしに出来ることだったらお手伝いしましょうか?」

 ランディとケイは、異国の地で母国語を話し掛けられたことで、瞬時にその女性に対して親近感を覚えた。「ありがとう。このライブハウスがパンクロックで有名だと聞いたのですが、今日の出演バンドに有名なバンドはありますか?」

 女性は笑顔を見せると、入り口にいるキクさんからチラシを受け取り、ランディとケイに差し出した。「今日の最後の出演バンドがお勧めです。このプロミネンスっていうバンド。まだそこまで有名っていう訳ではないけど、近い将来、必ず大きくなるバンドです」

「おぉ、プロミネンス。太陽が放出する炎……。ダイナミックなバンド名ですね。わかりました、ありがとうございます」

「あっ、もう始まる時間だ! 最初の出演バンドが始まるから、もう中に入った方がいいですね。ここでチケットを買ったらドリンクの半権を受け取って、階段を下に降りて下さい。階段の下を左に行くとドリンクがあるので……」


 ライブ終了後、ランディとケイは、Nの前でたむろしている客から英語で話し掛けられた。話の内容は出演バンドについて。どの客もまだ興奮から覚めていないようで、しかもその日のトリを務めたプロミネンスの話ばかりしている。二人も同じようにその話に加わり、日本のインディーズシーンに対して、そしてプロミネンスへの興味を高めて行くのだった。

 ランディとケイが上機嫌でしばらく話をしていると、先程の女性が階段を上り出口から出て来た。そして二人を見つけると、笑顔で話し掛けて来た。「どうでした? わたしのお勧めしたバンド。カッコよかったでしょ?」

「ありがとう! あなたのおかげで素晴らしいバンドに出会えました! あのバンドは、プロミネンスは日本では有名なバンドではないのですか? あんなに素晴らしいバンドは私の国なら大スターになってますよ! 特にあのボーカルは素晴らしい! 彼はアメリカ人ですか?」ランディは興奮を露にしながら大きな声で言った。

「あの人は日本人とアメリカ人のハーフなんです。お母さんがアメリカ人で。今日来てるお客さん達も、ほとんどの人がプロミネンス目当だと思いますよ? このバンドはそのくらい人気があります。あ、ちなみになんですけど、そのボーカルの人はわたしのちょっとした知り合いで……」

「ワオ! ホントですか? じゃぁ、もしよかったら、そのボーカルに会わせてもらえませんか? ぜひサインをいただきたいです!」

「いいですよ? たぶんもうそろそろ出て来る頃だと思うから……。あっ、出て来た! タイちゃぁん! ちょっとこっち来てくれない?」

 ランディとケイは、太陽他、プロミネンスのメンバー全員のサインをゲットすることが出来た。そのことにより、二人は完全にプロミネンスのファンとなり、その後のライブには欠かさず姿を見せることになるのだった。

「あの、すいません。私達はまだあなたの名前を聞いていませんでした。私はランディ、こちらはケイです。またこのバンドのライブに来たいので、もしよろしければ、あなたの連絡先を教えてもらえませんか? 私達はまだしばらく日本に滞在する予定です」

「もちろんいいですよ? なにかあればいつでも連絡ください。わたしはマフユ、白石真冬って言います」真冬は二人に名前と電話番号が書かれた紙を渡した。


「そうか、それなら安心だな。なんだかんだ使い過ぎって言ったって、まだ結構残ってるだろ?」春人はマルボロに火を点けながら言った。

「あぁ、まだまだ残ってるぜ? まだ十万ドルも使ってねぇからな。でもたぶん、その残りの金を俺が持ってたとしら……、おそらく半年も持たねぇだろうなぁ。俺にはあいつがいてくれて助かったよ」ランディは康介のマルボロを一本抜き取り、火を点けた。

「そんでなんだよ、俺達がびっくりするような、グレートなプレゼントって」

「あぁ、それな。これから大きく羽ばたいて行くライフボックスのために、ケツから脳ミソが出るような、スペシャルでビッグなイベントを用意したんだ」

「イベント? なんだよそれ。しかし汚い例えだな」春人他、メンバー全員がランディの口元に注目した。

「汚くなんてねぇさ。むしろこの世で一番ビューティフルだぜ?」ランディは意味あり気な笑顔を見せると、壁に掛かっているカレンダーに指を向けた。「まずこの日、ニューイヤーイブの夜に、俺達は空港へ向かう。そしてそこで俺がチャーターしたヘリコプターに乗るんだ。そこから北西に向かって二時間ちょっと……」

「ちょっと待てちょっと待て! なんだそりゃ。まさか俺達を雲の上に連れて行こうってのか!?」春人は咥えていたタバコを落とした。

「いやいや、ヘリコプターは雲の上までは行かないさ。サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの花火を空から見るんだよ。おまえ、あの花火見たことあるか? とても口じゃ表せねぇが……、とにかく熱狂と感動が交互に押し寄せて来るんだぜ? 俺はケイと何年か前に見たんだが、カウントダウンの直後にやるもんだから、とにかく人だらけでまったく身動きが取れない。だから空から見れたらどんなにいいだろうってずっと思ってたんだ」

 この話で、春人以外のメンバー二人は声を上げて喜んだ。

 アメリカ人というのは、ニューイヤーという特別な日に、さらに特別な花火というものが重なることで、かなりのハイテンションになるらしい。そしてさらに、その特別な日に空から花火が見られるというもう一ランク上の体験が出来るとあって、この二人は狂喜乱舞の状態に陥った。

「そりゃまぁ、ずいぶんとハデなことを思いついたなぁ……」春人は他人事のように呟いた。

「なんだよブラザー、おまえは日本人のくせに花火が好きじゃないのか? それとも、ニューイヤーになんか予定でもあるのか?」ランディは心外そうな顔を作った。

「いや、そういう訳じゃないんだ。ただ……、俺は高いところがあんまり……」

「はぁ? なんだそれ! おまえみたいにクールな男が高所恐怖症だって!?」ランディはタバコを灰皿で揉み消しながら、腹を抱えて笑い出した。

「あのなぁ、別に恐怖症って程のもんでもねぇよ。どっちかって言ったら好きじゃねぇって話だ。そんなに笑うことねぇだろ?」

「悪い悪い、いやだってさ、おまえのそのイケメン面で高い所が怖いって……。ダメだ……、ハッハッハッハッ……」

「ちっ、なんだよそれ……」春人は面白くなさそうな顔を作ると、立ち上がって出口へ向かった。「今日は気分が乗んねぇから帰るわ。ランディ、俺のギターも持って帰っといてくれ」

「お、おい、待てよ。リハはどうすんだよ! それに、花火もどうすんだよ! 今週中には人数確定させねぇといけねぇんだよ」

「あぁ、明日には返事するよ」そう言って春人はスタジオを出て行った。


 その夜、春人はなかなか寝付けずにいた。

 スタジオでの一件でイライラしていたこともあったが、それ以前に、ランディが持ち出した、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの花火の話に、なんとなくもやもやしたものを感じていた。

 その正体が何なのかは春人自身にもわからない。普通であれば驚きと、少なからず喜びを持って聞ける話なのだが、どういう訳か春人の心には、その話はどちらかといえばマイナスな方向で入り込んだ。

『なんでヘリコプターなんだよ。クルーザーで海まで出て、そこから見た方が気持ちいいに決まってんだろ?』真っ先に春人はこう思ったのだが、それは彼が高いところが好きではないというただの不満や願望であって、もやもやの正体とはまったく違う。

 他に思い当たることがないだけに、春人はそのことに対してのイライラが延々と持続し、脳が休むことを許してくれなかった。

 だがやはり、人間というのは不思議なもので、横になって瞼を閉じているだけで、知らないうちに眠りの世界へと誘われるものである。たとえ眠気が全くないと思っていても、数時間のうちには大概の人が眠りに就いているというのが通常だろう。

 その例に漏れず、まるで流れていた川の水が海にたどり着いて止まってしまったかのように、春人もだんだんと眠りに落ちて行くのだった。

 そして……、春人は浅い眠りの渦中にいた。意識がどのくらい現実と夢の世界の狭間にいたのかは定かではない。だが彼は、現実ではないが夢の世界とも言い切れない、それまでの人生で体験したことのないような不思議な世界と向き合っていた。そこには彼にも見覚えのある女性が三人いて、みんな必死な顔で彼になにかを伝えようとしている。しかし不思議な事に、彼の耳にはその言葉がまったく届かない。完全な静寂と言ってもいいその世界で彼の耳に届くのは、自分の息遣いと、必死にその女性達に問い掛ける自身の声だけだった。だがそのもどかしい状況の中で、突然、彼の意識に直接問い掛けて来る声が響いた。

 その声は春人にとってとても懐かしく、またとても温かみを感じる声だった。

「みんなの声を聞いて! それがダメなら……わたしの声だけでも届いて! あなたは友人の誘いに同意してはいけない。あなたにはまだしなくてはならないことがたくさん残ってるの。絶対に同意したらダメ!」

 春人は夢と現実の世界の狭間で、その声の主を模索していた。

 有無を言わせぬ強い言葉の中にも、永遠を思わせるような優しさが感じ取れる。そして心の奥底に届くようなやわらかい口調が、彼に一人の女性を思い出させた。

「えっ? もしかして……真冬さん……? ですか……?」春人は無意識のうちに、言葉ではなく心で問い掛けていた。

「あぁ……、よかった。声が届…た……。春人君わ…った? 行っ…ダメだよ? そ…に行くと…なたは……か……ず、か…れな………よ!」

「えっ? なんか、最後の方が途切れちゃって聞き取れないんですけど……」

「だ…ら、……に行っちゃ…………! わ…………、お……に………」

「真冬さん? ほとんどわかんないんですけど……。あれ? 真冬さん?」春人は返答が返って来ないことに動揺した。「真冬さん? あれ? 聞こえます?」

 その後も何度か問い掛ける春人だったが、真冬の声はもう、彼の意識には届かなくなっていた。それと同時に、彼が目にしていた不思議な世界もぐにゃぐにゃと歪んで行く。そしてその歪みがどんどん加速すると、突然彼の視界は完全な暗闇となった。どこに視線を移しても一点の光も見えない完全な漆黒。そして……、彼はいつしか深い眠りへと落ちて行った。


 翌日、春人はスタジオでランディに責められていた。

「おいハルト、おまえが帰っちゃったおかげで、昨日のリハはグダグダだったぜ? せっかく俺のファンタスティックなベースのデビューだったっていうのによ。だいたい、ギターがいなかったらバンドなんて話になんねぇだろ? 誰が全体の音を作るんだよ。それにライブまで、そんなに時間もないんだぜ? こんなことやってたら絶対まともなパフォーマンスなんて出来ねぇよ。ちょっとは考えてくれよ」ランディは仁王立ちで、腕を組みながら言った。

「あぁ、わかった。昨日はちょっとどうかしてたな。俺が悪かったよ」春人は素直に頭を下げた。

「で? どうすんだよ、ベイブリッジの花火。ニューイヤーまであと一週間だし、今日中に人数確定させてくれって言われてんだよな」

「あぁ、それな」春人はケースのジッパーを開けてギターを取り出しながら、白い歯を見せた。「せっかくお前が立ててくれたプランだし、そりゃぁ行かない訳にはいかねぇだろ? 俺がいねぇとおまえは寂しいだろうからな」

「おぉ、そうか! っていうか、寂しい訳ねぇだろ? ケイもいるんだし。じゃぁ早速連絡しなきゃいけねぇな。そしたらお前は、今夜からバルコニーで寝た方がいいぜ? 高い所に慣れるためによ」ランディも同じように白い歯を見せた。

それからしばらく、ライフボックスは淡々とニューイヤーライブのためのリハーサルを熟していた。もうすでに曲目や曲順も決まり、あとは個々の音作りや曲の間のMCなど、細かい部分を残すのみとなっていた。


 収容人数こそ三百足らずと小規模だが、ニューイヤーライブの会場となっているバイパールームは、ビバリーヒルズ近郊にあることから、誰もが知っている有名ミュージシャンや俳優などが足繁く通う場所でもある。ハリウッド俳優のリヴァー・フェニックスがここで薬物中毒のために死亡したのはあまりにも有名な話だが、その事件のことでこのライブハウスの評判が下がることは無く、メタルやパンクロック、オルタナティヴロックといったジャンルのバンドが連日熱い演奏を繰り広げている。

 このライブハウスのイベントに出演出来るということは、ライフボックスがロサンゼルスの音楽界に認知されたと言っても過言ではない。地道に活動を続けて来た彼等の努力が実ったということである。春人やランディ、他のメンバーが力を入れるのもそれは至極当然のことだろう。


「よっし、今日はこんなもんじゃねぇか? あとはあっちでのリハーサルまでゆっくりしようぜ? 明日はほら、クリスマスイブだし……」満足気な顔を見せたランディは、メンバー一人一人を見回しながら言った。

「そうだな、一応いい感じでまとまったし。あとはぶっつけ本番だろ」春人は白い歯を見せながら言った。

「おまえ、ちゃんとサインの練習しとけよ? このライブが上手く行ったら、たぶん俺達は有名人になってるだろうからな」

「気が早いんだよ。たかだかバイパールームで演るってだけのことだろ? 俺に言わせりゃあんなの、ただのそこら辺のちっぽけなライブハウスだぜ?」

「はぁ、さすがに天才は言うことが違うねぇ。俺達ゃビビっちゃって、今から緊張してるっていうのによ。それにしたって……」

 その時、ランディの携帯電話が鳴った。相手はファットピッグのマスターである。「はいもしもし、こちらランディ。えっ!? ホントですか? そりゃまた困りましたねぇ。はいはい、えぇ。で? 俺達にどうしろと……」

 話の内容は、ファットピッグが主催するクリスマスナイトの出演バンドで、トリを務めるバンドのドラムが交通事故を起こし、足の骨を折って入院したというものだった。

「はぁ……。まぁ一応メンバーには聞いてみますけど、なんせほら、年明けにバイパールームのライブが決まってるから……。はい、わかりました。何分かしたら折り返します」ランディは重そうな顔で電話を切った。

「どうした?」春人は携帯電話を片手に考え込んでいるランディに問い掛けた。

「あぁ……、明後日の夜、ブタに出演してくれってさ。ヘルドロップのドラムが事故って足の骨を折ったらしい。そんで急遽、他の出演バンドを探してるんだとよ。だけど、急にそんなこと言われたってなぁ……」

「俺は別に構わねぇぞ? ニューイヤーライブの前哨戦にちょうどいいじゃねぇか。それともなんか、断りたい理由でもあんのか?」春人は機材を片付けていた手を止めて言った。

「あぁ、いや、何もなきゃ別に構わないんだが……、日が悪いんだよなぁ……」ランディは相変わらず重い顔をしたまま言った。「明後日はおまえ、クリスマスだぜ? 俺が一人だったら別に構わないんだが、ケイがなんて言うか……」

「ははぁ、やっぱキリストの国の人間はそういうのを大事にするんだな。いいじゃねぇか、明日のイブにいっぱいラブラブしてやれば。いいか? 俺達はパンクロッカーでミュージシャンだぞ? もっと攻撃的に生きなきゃダメなんじゃじゃねぇか?」春人はにやけ顔を作り、半分冗談のつもりで言った。

 だがランディはその言葉をまともに受け取り、ファットピッグでのライブに前向きな考えを口にした。「そうだな、もっとアグレッシブに行かねぇとな。よっし、じゃぁやるか! ケイにはうまく何とか言っとくよ。んじゃ、もうちょっとやってくか。曲も詰めなきゃいけねぇしな」

 こうしてライフボックスは、ファットピッグで行われるクリスマスナイトに、トリとして出演することになった。


 深夜にまでおよんだファットピッグのクリスマスナイトは、予想を大きく上回る集客を見せた。年に一度のイベントということもあり、遠方からの客も多数訪れていた。そしてどこから情報が漏れたのだろうか、日本語や漢字の書かれたシャツを着た、ライフボックスのライブに必ず顔を見せている常連客も多く目についた。

 そして日付が変わってしばらく経った頃、ようやくライフボックスがステージに立つ時間が来た。最前の出演バンドが熱いステージを繰り広げてくれていたせいだろうか、客達のボルテージは沸騰したまま、空間は熱いもので覆われているように感じる。

 ファットピッグのスタッフが、手際よく機材をライフボックスのものへと入れ替えている光景を、春人はステージの袖から見ていた。きっとこの類の作業には慣れているのだろう。二人でやっているにも拘わらず、ものの五分程度で作業を終えた。

 そして作業を終えた二人の男のうちの一人に、春人は笑顔で声を掛けた。「ごくろうさん! しばらくだな!」

「やぁ、ハルトさん、しばらくです! 今日は頑張ってくださいね! 俺、客席から見てますから」男はそう言うと、足早に袖の奥へと消えて行った。

「あれ誰だ? おまえ、知り合いなのか?」春人の隣からランディが聞いた。

「あぁ、あいつはイーサンっていうんだ。ウチのアネキの知り合いだよ。俺がここでの仕事を紹介したんだ」春人は白い歯を見せ、話を繋いだ。「そのうち紹介しようと思ってたけど、あいつは俺の弟子なんだ。ギター教えてくれっていうからさ。言っとくけど、あいつのギター、半端じゃねぇぞ?」 

「おぉ、おまえが認めるんなら相当なもんだろうな。じゃぁいっそ、ウチのバンド、ツインギターでやるか? 幅が広がっていいんじゃねぇか?」

「そりゃダメだな。俺が目立たなくなっちまう。まぁもし、俺に何かあったらあいつを代わりに使ってやってくれ」春人は冗談交じりの笑いを見せながら言った。


 ドラムのカウントと共に、この日一番の最高の音が空間に放たれた。

 その瞬間から、先程までのバンドで温めていたボルテージを再び再燃させた客達が暴れ出し、客席は興奮と感動に包まれた異次元へと加速して行った。

 ライブが始まるまでは、比較的、壁沿いに陣取っている客が多かったのだが、きっとそれはライフボックスを初めて観るという客達なのだろう。超攻撃的な春人のギターが会場に響いた瞬間、その客達は驚きの顔と共に全意識をステージへ向けて開放し、身体中で興奮を表現し始めた。

 まだ始まったばかりだというのに、ステージと客席は完全に一体となり、空間はまるで紅蓮の炎の如く、興奮と熱気に包まれていた。そこにいる誰もが感動し、誰もが興奮を身体中で表現している。

 ステージの最前列では、イーサンが先頭を切ってダイブを始めていた。それに続けとばかりに、次々とダイブする者が現れる。それは十代と思われる若者や、頭に白髪が混じり始めた年代の男性など実に様々だ。アメリカ人というは、老若男女関係なく、自らの感情や情熱を素直に表現出来る人種なのだろう。

 白熱のライブは空間全体を興奮と熱気で包みながら、そこにいるすべての人々の熱いボルテージと共に進行していた。そして中盤に差し掛かった頃、その事件は起こった。

 自身のボルテージを抑え切れなくなった数人の客が、同時にステージからのダイブを試みたところ、端にいる二人の客がジャンプする瞬間に接触し、転倒したのだ。その結果、一番端の客が春人に直撃し、彼はステージの端の方に向かって弾き飛ばされた。

 演奏のために両手を使うことが出来なかった春人は、ギターを庇うために本能的に体をひねって背面に倒れたのだが、その際、まともに右肘から床に落ちてしまった。

「おい! 大丈夫か!?」演奏が中断するのと同時にランディの声が響いた。会場からはダイブしていた客に対してブーイングの嵐が起こっている。

「あぁ、なんとかな……」春人は立ち上がると、笑顔で演奏を再開した。が、すぐにその手が止まってしまう。「いや、ダメだ……。右手に力が入らねぇ……」

「待て、動かすな!」ランディは春人のもとへ駆け寄ると、彼の右腕を確認し始めた。「どこが痛む? 手首か? 指か?」

「いや、肘だ。床にしこたま打ったらしい……。つぅか、ダメだ。すげぇ痛ぇ……」

「マジか……。って言うか、すげぇ腫れてるぞ? こりゃ折れたっぽいな。おいっ、誰か車回してくれ! こいつを病院に連れてくぞ!」

 ライブは完全に中断され、入り口にはスタッフの車が横付けされた。


「悪いな、こんな大事な時期に……」春人はランディに頭を下げた。

「お前が悪い訳じゃない。これは事故なんだ。そんなことより早く車に乗れ! 処置が早い方が悪化しなくて済む場合だってあるんだから」ランディは客達をかき分けながら、悲しそうな顔で話を続けた。「俺も一緒に行ってやりたいが、まだ後片付けやらなんやら、やることが残ってるからな。勘弁してくれよ」

「ガキじゃねぇんだから大丈夫だよ。そんなことより、イーサンはどこ行った? あっ、いた! おい、イーサン、ちょっと来てくれ!」

 イーサンは声に反応すると、急いで春人のもとへ駆け寄って来た。「大丈夫?ハルト……。なんか……大変なことになっちゃったけど……」

「いいかイーサン、よく聞けよ?」春人は怖いくらいの真剣な眼差しでイーサンに語り掛けた。「おまえ、ギターはこのブタに置いてあるよな。エフェクターはあのままで俺と同じ音が出せるはずだ。残りはあと四曲。ランディに聞けば曲と順番は教えてくれる。いいか、この後はおまえがライフボックスのギターを務めるんだ。こんなにたくさんの客をほったらかしにしたら、それはミュージシャンの恥だ。わかるよな? 今からステージに行って、俺の代わりを務めてくれ」

「えっ? そんな……、無理だよ……。俺の腕じゃまだまだ……」

「心配すんなよ。この三か月、おまえは誰からギターを教わったと思ってるんだ? おまえのギターは十分俺が納得出来るレベルだぜ? それに、おまえは俺の一番弟子じゃねぇか。師匠の窮地を救うのが弟子の務めなんじゃねぇか?」そう言うと春人は、とびっきりの笑顔をイーサンに見せた。

「わかった、やってみる。ただ……、他のメンバーの人がなんて言うか……」

「あぁ、頼むよ、イーサン。こいつが認めた男なら、俺達は大歓迎さ!」ランディと他のメンバーは左手の親指を立てると、にっこり笑って見せた。


 次の日の午後、ランディとケイは春人が入院している病院を訪れた。

 夜中に病院に担ぎ込まれたことで、結局十分な治療は施されず、春人は何の準備も出来ないまま入院する羽目になってしまったのだった。

「どうだ? まだ痛むのか?」ランディは持って来た紙袋をベッドの脇に置くと、心配そうな顔で春人を見つめた。

「あぁ、痛みはもうないかな? 薬が効いてるだけかもしれねぇけど、とりあえずは大丈夫だよ」春人は左手の親指を立てて見せた。「だけど参ったよ。見てくれよ、このみっともねぇ腕を」

「ハッハッハ、久しぶりに見たよ、こんなにグレートなギブス。やっぱりちゃんと折れてたんだな」

「まぁ、あの瞬間、かなりの手応えがあったからな。普通じゃねぇ痛みが一瞬にして身体中を駆け巡ったよ。それはそうと……」春人は体を起こすと、真剣な顔で話を繋いだ。「あいつはどうだった? あの後、ちゃんとやれてたか?」

「イーサンの話か? あぁ、グッドジョブだったよ。あいつはおまえが言ってた通り、かなりのギタリストだな。初めの方こそ緊張して音がくすんでたけど、あっという間にバンドに馴染んで、それからはいい感じだったな。客も弾け飛んでたし」

「そうか、そりゃぁよかった。――なぁランディ……」春人はまっすぐにランディの瞳を見つめると、改まった口調で話を繋いだ。「たぶん……俺はしばらく無理だろうから……、ニューイヤーライブを含めてちょっとの間あいつを使ってやってくれないか? もうおまえはわかってると思うけど、あいつならちゃんとやれるはずだから。それに言っといただろ? 俺に何かあったらあいつを代わりに使えって」

「ハッハッハ、そりゃナイスなアイディアだな。実はな、今日はおまえの着替えとかを持って来たってのもあるけど、そのことを相談しに来たのが本筋かな?」

「は? なんで俺の荷物持って来たんだ? 俺は今日、このまま退院だぜ? 足の骨を折った訳じゃあるまいし、いつまでもこんなところにいさせないでくれよ」

「えっ? そうなのか? なんだ、俺はてっきりしばらく入院するもんだと思って……。あっ、ってことは、ベイブリッジの花火も行けるってことか!?」

「いや、それはちょっと無理じゃねぇかな。今は痛みが無いけど、それはたぶん薬のせいだと思うし。おそらく、ヘリコプターの振動には耐えられねぇんじゃねぇかな……」

「そうか……。まぁ、無理はさせられねぇからな。だけどもったいねぇなぁ。空からの花火なんて、たぶんこの先、二度と経験出来ねぇだろうからなぁ……」

「しょうがねぇだろ? こうなっちまったんだから。あっ、って言うか、別に俺じゃなくてもいい訳だろ? だったらイーサンを連れてけよ。一回ライブ経験したんだから、もうメンバーみたいなもんだろ?」

「おぉ、その手があったか! 一人分空席じゃ、いくらなんでももったいないもんな。親交を深めるのにはもってこいだし」ランディは左手の親指を立てた。


 あと数時間で新年を迎えるという頃、ライフボックスのメンバーとケイ、そしてイーサンは、ダウンタウンから南西に十二キロ程の場所にある、トーランスという場所にいた。

 ここにはトーランスという名の空港があるのだが、ここを発着する航空機には定期便がなく、自家用機やチャーター便だけが離着陸をする。ロサンゼルスやサンフランシスコを遊覧飛行する際の本拠地と言っても過言ではない空港である。

 チャーターしたヘリコプターを前に、ランディ達は緊張と期待を織り交ぜた顔をしていた。そこにいる五人全員がヘリコプター初体験なのである。

「ヘリって、近くで見るとデカいんだな。まぁ、六人も乗れるくらいだから当然っちゃぁ当然だけど……」ランディはヘリコプターを見上げながら言った。

「たぶんこれは大きいタイプなんじゃないかな? ほら、あっちにあるのはこれより全然小さいし」イーサンが辺りをキョロキョロしながら答えた。「でも楽しみだなぁ。空から花火なんて、ホントに夢みたい!」

「だろ? なかなか経験出来ることじゃねぇからな。だけど、花火だけじゃないんだぜ? ロスの夜景だって空から見たら半端じゃねぇらしいぞ? ほら、このパンフレット見てみろよ」ランディがパンフレットを広げると、そこにいる全員が覗き込んだ。

 ハリウッドストリップ、サンセットストリップ、ビバリーヒルズ、ベルエア、ステイプルズセンター、ハリウッドボウル、ドジャースタジアム、ロサンゼルスの摩天楼……。ロスを代表する様々な道路や建物が、ありったけの宝石に強烈な光を照らしたように、ランダムに光を放ちながら夜の街に溶け込んでいる。

「ワオ! こりゃすげぇや! 今からゾクゾクして来るよ!」イーサンは瞳をキラキラ輝かせながら言った。

「実物はきっとこんなもんじゃねぇぞ? なんせ自分の目で体験するんだからな。だけどよかったな。今日は夕方から風が強くなったから、もしかしたらフライトが中止になるんじゃないかと思ってドキドキしたよ。せっかく天気もいいからな」

 ランディが言うように、ロスの街は夕刻から東寄りのかなり強い風が吹き始めていた。ヘリの所有会社側は当初、フライトの中止を検討していたが、日没後に少し風が収まって来たこと、そしてこの日が一年の締めくくりという特別な日ということ、さらに大きな金が動くチャーター機ということもあって、その日の特別なフライトを断行するのだった。

「さぁ、感動の涙で溺れる準備は出来たか? この世で一番きれいな景色をこの目で見てやろうじゃねぇか!」

 ランディ達は大きな期待を胸に、夜のロス上空へと飛び立った。


 夏妃のもとにその連絡が入ったのは、初夢を迎えるためにベッドにもぐり込んだ深夜のことだった。

 元旦の夕方から太陽と拓人に誘われ、居酒屋で飲んだ後にカラオケで熱唱した夏妃は、新年ということで羽目を外したのだろうか、一件目から酒豪の太陽に煽られて日本酒を大量に飲んだ挙句、カラオケボックスではワインを水のように胃袋に流し込み、締めに再び日本酒を気持ち悪くなるまで飲むという、飲み方の作法としては言語道断の飲み方をした。その結果、自力で歩くのが困難な程に酔いつぶれ、タクシー料金さえも自分で払えず、運転手に財布から料金を抜き取ってもらうという、女子としては情けない醜態を晒したのだった。

 酩酊状態のまま、服も着替えずに深い眠りに落ちていた夏妃は、意識の遠くから聞こえる母親の大声と、自分の意志ではない大きな体の揺れで目を覚ました。

「……つき! ほら、起きて! 夏妃!」

「……ん、うぅぅぅん……。なによもう……うるさいなぁ……」

「ほらっ! ちゃんと起きて! アメリカから、春人から電話だよ!」

「春人ぉ? はぁぁぁぁ、なによもう……。まだ夜中じゃない……」夏妃は母親から受話器を受け取ると、不機嫌な顔で送話口に向かって怒鳴った。「こらぁ、春人! 今何時だと思ってんの? そっちは昼間でもねぇ、こっちはまだまだ……」

「おいっ!お姉、そんなのいいから聞けよ! イーサンが、イーサンの乗ったヘリコプターが落ちたんだ!」

「はっ?」夏妃は酔いと眠気が静かに引いて行くのを感じた。「えっ? ちょっと、今なんて言った?」

「だからイーサンの乗ったヘリコプターが墜落したんだよ! 俺のバンドのメンバーも一緒だ!」

「えっ!?」夏妃は絶句した。しかしすぐに気を取り直し、事態の大きさを瞬時に理解した。「それで!? イーサンは無事なの!? あんたのバンドのメンバーは? えっ? あれっ? あんたは? あんたは大丈夫なの?」

「いや、俺はそのヘリコプターには乗ってない。俺の代わりにイーサンが乗ったんだ。怪我はあるけど全員無事だよ。高度もけっこう低かったし、落ちたのが海だったからな。だけど……、ドラムとボーカルが意識を取り戻さないんだ。水を大量に飲んじまったらしくて……」 

「そうなの……。だけど……、とりあえずみんな助かって良かったじゃない。それで? イーサンの怪我は?」

「あぁ、あいつは頭をちょっと縫っただけだ。あとはランディが右足の骨を折っちまったのと、ケイの指の骨が折れたくらいだ。こっちじゃ大変なんだ。朝からどこのチャンネル回してもこの話題ばっかりやってる。ニューイヤーの花火の真っ最中だったから、テレビカメラが何台もいたんだよ」

「そうなんだ……。じゃぁ、こっちでもテレビで放送されるのかな」

「たぶんな。サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジのニューイヤーの花火って言ったら有名なんてもんじゃねぇからな。そこでヘリコプターが墜落したってなったら、そりゃぁマスコミにとっちゃこれ以上ないくらいのネタだろ」

「そうなんだ。あたしはその橋も花火も知らなかったけど、確かにそんな特別なイベント中に、さらにそんなすごいイベントが起こっちゃったら、そりゃぁ注目を浴びちゃうのも無理ないよねぇ……」

「なんだよイベントって! そんな言い方ねぇだろ? そんな他人事みたいに言わないでくれよ。俺にとっちゃバンドの存続に関わる一大事なんだぜ? 来週にはデカいライブだって控えてたんだから。それに意識不明の二人だって、まだどうなるかわかんねぇんだし……」

「あっ、ごめん、そんなつもりじゃ……」

「別にいいけどちょっと不謹慎だぜ?」春人は不満の声色で言った。「まぁいいや。そんなことより……、ちょっと聞いてほしいことがあるんだ。少しオカルト染みた話なんだけど、実は何日か前に……」


 その日の夕方、正月特番の合間にその事件はニュースとして映像で流された。

 その映像を見ていた夏妃は、水面に向かって落ちて行くヘリコプターを見ながら、昨晩の春人との会話を思い出していた。

『あのヘリコプターには、ホントだったら俺が乗ってたんだと思う。そこでたぶん俺は死んでたか、もしくはそれに近い状態になってたんじゃないかな。それを真冬さんが止めてくれたんだ。俺が右腕を怪我したのも、きっとその流れだと思う』

『やっぱり……、運命ってものは存在するのかな?って、思うしかなかったよ。真冬さんは俺の運命を予言した訳だろ? だから夢に出て来たんだと思う』

 昨晩の電話の切り際に春人が話していたこの台詞は、夏妃の心に、大きな衝撃と例えようのない真冬への感謝の念を与えた。

 真冬は死の淵から自分を救ってくれた。さらに自分の弟さえも救ってくれた。一度しか会ったことのない、正確に言えば一度も会ったことのない女性を、夏妃は家族と同じくらいの大切な存在だと思えた。そして同時に、太陽と春人をどうしても同じ舞台に立たせたいと願う、真冬の情熱を感じずにはいられなかった。

『――春人は……、真冬さんに生かされたってことだよね……。それならその気持ちと想いを無駄には出来ない……』夏妃は心の中でそう強く思った。


 それから数日後、ライフボックスのドラムを担当していた男は眠るように息を引き取った。そしてそれを追うように、その次の週にはボーカルの男も静かに天国へと旅立った。

 このことにより、お互いに約八千七百キロ離れた場所にいる二人の天才は、それぞれ運命という言葉に向かって動き出すのだった。

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