第三幕: リノリウム - その3/3


 私はひとまず部屋のゴミ掃除と掃除機がけをすることにした。


 袋菓子や空き缶はとりあえず、一緒くたにゴミ袋に入れて、散らかった文房具やリモコンは先ほど決めた所定の位置に。

 窓を開けて換気をしながら掃除機をかけて、食器を洗った後はスポンジに洗剤を多めに含ませてシンクの中をゴシゴシやった。

 初めてやった本格的な掃除は思ったよりも時間がかかり、気がつけば時計は二十三時を回っていた。きれいにしようと思えばキリが無いにもかかわらず、散らかしたものを片付けるだけなのに、体のあちこちが疲れるのだ。


 ほっと一息つくが、やり始めた掃除の熱が体を熱くしていた。

 何かほかに片付けなければならないものはあるか…。

 そんなふうに考えながら手をワキワキさせているうちに、疲れがどっと押し寄せてきた。


 気概は十分あれど、体力が限界を迎えてしまったのだ。

 少しだけ休むつもりで床に横になる。たった一度、掃除機をかけただけの床はチリや髪の毛が落ちていないと言うだけでたいへんきれいに見えた。私はきれいになったフローリングを手で撫でる。

 まだ少しざらついている。

 液体をこぼして乾燥した部分が白い輪郭で固着している。


「ぞうきんがけしなきゃ」


そんなふうに思いながら、そのまま気を失ってしまった。


 午前2時を過ぎた頃、母が帰ってきた。

 つきっぱなしの室内灯の下、座椅子を枕に学校帰りの服のまま若干薄汚れた私が眠っている。そして掃除の跡が見える部屋を見比べて困惑したらしいが、まず息子に何かあったのではないかと私を揺り起こす。


「たかくん、どうしたのこれ。お掃除してくれたの?」


 私は覚えてはいないが、どうやらそのとき「ようせいさんに来てもらうためだ」と言ったという。

 何のことかわからない母は、寝ぼけているのだと思ったようだ。

 手早く私を風呂に入れ、再度寝かしつけた。


 翌日、起きると時計は十時を回っていた。

 私は「やってしまった」と思う。

 どうやら大遅刻をやらかしてしまったらしい。夜更かしはしないので、遅刻などしたことは無い。余裕を持って起床し、寝ている母を極力起こさないように御飯を食べて、学校へいく。


 私は焦りで泣きそうになってしまう。

 つけた覚えのないテレビがつきっぱなしになっていることに気がついたのは、そのすぐ後だった。

 まもなくして、母がパジャマ姿のままトイレから出てきた。普段はねているはずの母が、起きている。


「おかあさん、学校遅刻しちゃった」


 私は公然の事実を伝えた。

 すると母は優しげに微笑んで「いいのよ」という。


「そんなことより、お掃除ありがとうね」


 私は「うん」とだけ答えた。

 私は徐々に落ち着きを取り戻して、自分の置かれている状況を理解し始めた。掃除をしている最中に床で寝てしまったこと。いつの間にか風呂に入れられていたこと。

 私はパジャマ姿で布団に寝かされていた。体からは石けんの香りがした。

 母は少し心配そうな顔をして私に尋ねる。


「学校で何かあったの?」


 私はきょとんとした顔で、「何もないよ」といった。

 確かに、自分の子供が思い立ったように疲れて気を失うまで掃除をしていたら「なにか」あったんじゃないかと思うだろう。


「どうしていきなりお掃除をしてくれようとしたの?」

「う、うん…といれの」


 言いかけてやめた。

 寝ぼけているわけでもいないこの状況で、正直に「といれようせいさんを呼ぶためだ」といったなら、もっと心配されてしまう。 


「…そっか。じゃ、お母さんも出勤までたかくんとお掃除しようかな」

「えっ?学校はいいの?お母さんもゆっくり寝なきゃ」


 母は少し驚いたように目をしばたかせた。

 いつもよりよく話す息子に驚いたのか。それとも、母を気遣うことのできるようになるまでに成長したのかと感心したのか。

 私にはわかりようもなかったが、その次には陽だまりのように微笑んだ。

 母が我が子にする当たり前の笑顔が私には愛おしく感じたのであった。愛していると面と向かって言われるよりも、私は幸せな気持ちになった。


「いいのよ、学校には熱があるっていっておいたわ。お母さんも、寝ているよりたかくんとお掃除がしたいの」

「うん」


 私はうれしくなって、ワンルームをとにかくきれいにしようと決意した。

 風呂もトイレもまだ汚い。部屋の掃除もまだ足りない。


 母と掃除の道具を一緒に買いに行った。

 近場の百円ショップでぞうきんやナイロンたわしを購入した。クラスメイトが勉強している時間に出歩いていることに小さな背徳を感じた。

 しかし、母と過ごす時間はそんなことよりもずっと重要であった。


 家に帰ってくると居間をきれいに水拭きした。細かいチリや汚れが一掃されていく。

 座布団はカバーをとって洗濯をし、中綿は天日干しにした。

 部屋の窓を開け放つ。

 ワンルームにひとつしかないベランダに出るための窓とトイレの小窓の間で部屋が気持ちよさそうに呼吸した。

 狭い部屋に吹溜った悪いものがどこかへ霧散していくようである。

 私はトイレの小さな窓に収まった青い空を見上げた。


「おかあさん」

「なあに、たかくん」

「空がきれいだよ」

「そうね」


 何気ない掛け合いが、いつもより大切に感じる時間であった。

 トイレはまだ汚かった。

 ”といれのようせいさん”を呼ぼうと頑張っているのに、トイレが一番汚くてはいけない。ようせいさんはずっとトイレに座っているから、他人の家のトイレを借りることはまず無いと思うが、きっと“見て”いるに違いないのだ。


「おかあさん。トイレはぼくが掃除するからね。お母さんはほかのところをきれいにして」


 買い足した掃除用具のビニルをバリバリと開封しながら、私はとても大切なことであるかのように言った。


 母はきょとんとしていたが、尋常ではない雰囲気を感じ取ってか「うん、わかったわ」とだけ言って台所の掃除に取りかかった。


 当然、そのときの私は今と違って掃除の仕方に詳しいわけではなかった。

 だから、トイレ用の柄付きたわしで便器の内壁をゴシゴシする以外にできることは床や便座をひたすらぞうきんがけすることだけであった。

 まずは床の掃除をする。

 ティッシュのくずや髪の毛のような小さなゴミを取り除いて、濡らした雑巾ですみの方から拭いていく。ゴミが多すぎて、拭くたびに取り切れないチリが床面を逃げ回る。雑巾を水洗いしては拭き掃除を繰り返しているうちに、床はピカピカになった。

 床掃除をしているとよくわかるのだが、便器の台座の部分や壁も細かく汚れている。少し知恵を働かせて、風呂にある石けんを少しだけ含ませてから掃除をするといい匂いがするし、汚れが良く取れる気がした。


 便器の中の汚れは特にひどかった。

 黒ずみが蓄積してしまい、生半可な力では汚れが落ちない。

 だから私は便器の中に手を突っ込んで、たわしでとにかくこすった。汚いのが気にならなかったわけではないが、問題にするほど重要なことではないと思えたのだ。 

 二時間ほど掃除をすると、トイレは目に見えてきれいになった。

 生まれてこの方、トイレは用がなければ入りたいとも思えなかった。

 しかし、今や整然として美しく輝いてさえ見える小部屋に入るのがうれしいと感じた。

 そこには居心地の良さがあり、安心があり、この環境を作った自分への誇らしさがあった。

 ちらちらと心配そうに見に来ていた母が、やっとトイレから出てきた私の頬を両手で挟んで「きれいになったわね、ありがとう」といった。冷たく、か細い母の指がこそばゆく、まなざしはあたたかい。


 私がその瞬間、どれだけ誇らしい気持ちになったのか他人が想像するのは難しいだろう。今でも思い出せるほど、心が感動にうち震えたのだ。

 気がつけば夕方になっている。不思議と腹は減っていない。


「お風呂に入ろうか。体をきれいにしよう」


 水垢がきれいさっぱり落ちた風呂に入る。想像しただけで胸が高鳴った。

 母がそう言って、一緒に風呂に入った後のことは良く覚えていない。

 気がつくと石けんの香りと母の胸に抱きしめられて眠っていた。


 辺りは暗く、二十一時になっていた。

 どうやら、風呂に入ったあたりから私はうとうとしてしまい、夕飯を食べる前に気を失ってしまっていたらしい。そこから母と一緒に横になっているうちにすっかり夜になってしまった。母は急遽仕事を休みにしてもらい、その日は私につきっきりになっていた。 


 母の胸に抱かれる感覚が、ただ幸せであった。

 それが愛だと、言われなくとも伝わってきた。


 朝になる。

 あまりにも早く寝すぎたせいもあり、五時には目が覚めていた。

 学校に行く準備をすると食パンをトーストした。ホットミルクを作り、粉のコーヒーを入れてカフェオレにした。ベーコンと卵をフライパンで焼いて朝ご飯を作った。人生で初めての料理にしては上出来だ。


 部屋がそうであったように、私の頭の中は息苦しくて狭いものであった。あらゆる無意味な不安や絶望の吹き溜まる箱であった。しかし、ものが消えチリが消え、美しいフローリングと小さな机くらいしかなくなった部屋を見るとどうだろう。

 やりたいことがあふれ、ワクワクしてくるではないか。


「おかあさん、おきて、朝ご飯ですよ」


 言っていて少し恥ずかしいが、少し大人ぶってみた。

 寝ていた母は朝ご飯を見ると大げさに喜んだ後、私をきつく抱きしめた。

 私は確かに愛されていると感じた。

 『母が自分を愛しているか?』と言う問いはもはやどうでも良かった。

 自問自答に至る理性を溶かしてしまう母の胸の体温こそ愛に触れる感覚なのだ。

 私は母と朝食をとった後、すぐに洗い物をした。

 きれいなシンクを汚したくはなかった。


 時計は七時前を指している。

 普段の登校時間よりもだいぶ早かったが、学校に行こうと決めた。

 朝の通学路はとても気持ちが良い。冷たく、美しいと感じる。

 昼前の排ガスやファストフードの匂いとは違い、どこか遠くの森の緑の香りがした。

 1kmほどの通学路は特にだれに出会うこともなく、教室には一番乗りであった。なぜかわからないが、今日からは新しい自分として頑張れる自信が小さく燃えていた。


 机に座り、教室を見回し、一呼吸置く。

 だれもいない教室を独り占めしている時間は、たとえ少しの時間でもその空間の王様になったような気分ですがすがしい。


「家はきれいになりましたか?」


 私はハッと息をのんだ。

 背後から中年男性の声が聞こえた。


「ようせいさん…」


 私の後ろのよしきくんの席にようせいさんがすわっていた。

 厳密に言うなら、「よしきくんの席」ではなく、よしきくんの椅子があった位置に白磁の便座がおいてあり、小学一年生サイズの小さな机から膝を出す形ですわっている。


「学校まで来ちゃだめだよ。みつかったらつかまっちゃうよ」

「ハハ、大丈夫です、今日は乾燥していますから、いつもみたいに十五分もここにいられません」


 言っている意味はよくわからなかったが、大人の人(?)がそう言うのならそうなんだろうと思うことにした。


「いつもこの時間に学校に来るんですか?はやいですね。だれもいません」

「今日は早く起きちゃったから、早く家を出たんだ」

「どうしてですか?」

「えっ?」

「いつもみたいに、ずっと寝ていることもできたでしょう」


 今、こうして中年になって見ればそうでもないが、こどもの時分にできるだけ長く寝ていたいと思うことはなかったと思う。

 できるだけ活発に動き回って、何かをしたくて、疲れたら電池が切れたように寝る。そこに理由があるかと言われるとはなはだ答えにくい。

 しかし、私はどうにかして難しい問いかけに答えようと口を動かしていた。


「家の掃除をしたんだ。昨日。一日休んで」

「えっ!? 学校を休んでまでですか? なんかわるいことしたなぁ」


 結果的に私が勝手にしたことが原因で寝坊しただけなのだが、ようせいさんは自分の言葉のせいだと反省していた。ただ、ようせいさんをはやく呼びたいがためにした行動であるので、否定はしなかった。


「いいよ。ようせいさんを呼ぶために、あのあと掃除をして、気がついたら夜遅くになっていて寝ていたんだ。次の日は帰ってきたお母さんと一緒に掃除をした。トイレはぼくがきれいにしたよ。家はすごくきれいになったんだ」

「それはよかった」


 ようせいさんは腕を組んでうんうんとうなっている。


「それでね、早く起きちゃって初めてご飯を作ったよ。それでもまだ時間があったから早めに学校に来たんだ。もしかしたらようせいさんに会えるかもと思ってた」


 ようせいさんは、表情で小さな驚きを示した。セリフをつけるなら「ほぅ」とでも言いたいような表情であった。ただ、口には出さず私に質問をした。


「何で学校で会えると思ったんですか? さっきはついてきていけないと」

「あまり来てくれるとは思ってなくて、…それに誰かに見つかったらどうするのかなって思ったのは本当だよ。…ようせいさんは、その、人に見つかっちゃだめなんだよね? だから家にいたら来てくれないとおもった。お母さんが寝てるし、家が狭いからすぐに気がついちゃう。学校なら早く着けばもしかしたら会えると思ったんだ」


 息が切れる。

 思ったことを頭の中でまとめて口にするだけでこんなにも疲れる。

 頭の後ろの方がしびれるようだった。

 私は渇いた口でひとまず大きく息を吸った。


「あのねっ」


 思わず大きな声が出て、自分でも驚く。ようせいさんは目をぱちくりとやった。


「はい」

「あのね、今日はお願いがあるんだ。せっかく会えたから言っちゃうね。部屋を見てもらってからお願いしようと思ってたんだけど」

「僕にできることならば。…教育上よろしくないことはダメですよ?」


 便座に座った自分のことを一度見やってから自嘲気味に言った。

 私は意を決してひと言だけ言う。


「ようせいさんの話を聞かせてください」


 ようせいさんは静かに微笑んだ。まなざしがくすぐったいほど優しかった。

 大人の男の人からこのような視線を向けてもらうことなんてなかったと思う。

 先生たちからはどこか困ったような目を向けられていたことを自認していた。同時に、その視線にさげすみが含まれていることを知っていた。

 ようせいさんのまなざしは、暖かく、勇気をくれるようであった。


「いいですよ。何を聞きたいんですか?」

「妖精さんは、はじめて誰かと友達になったときのこと覚えてる? そのときのことを教えてください」


 ようせいさんは、なぜとは聞かなかった。

 そのかわりに、幼い私の質問にしっかりと目を見据えて答えてくれた。


「実は昔のこと過ぎて覚えていません。同じ団地に同い年の子がいて、その子とは一歳になる前から幼なじみでした。気がついたら友達で、僕はもう四十歳近いですが今でもたまに連絡を取りますよ」

「そう…なんだ。ぼくにはいないかな」


 正直なところ落胆した。

 そういう答えがほしいのではなかったのだ。

 私には幼なじみと呼べるような知り合いはいなかった。端的に言うと、ようせいさんは私から見れば手の届かない恵まれた環境の話をしたのだ。


 でも、どうしようもない。

 もし、特別な存在が運命の巡り合わせでそばにいてくれることが条件で、知らないうちに友達を作る才能が育っていくのなら、もうどうしようもない。 


「僕にはまだずっと小さい頃、仲良くなりたかった人が2人いました。その2人は先ほどの幼なじみではありません。僕とは別のクラスの人たちです」


 急に何の話が始まったのかわからない。

 私が呆けた顔をしていると、ようせいさんはニコリとわらって続ける。


「はじめての友達ではありません。僕が作りたかった友達の話」

「うん」


 私は話の意図を理解した。

 質問の答えに満足していない私にようせいさんは気を回してくれたのだ。


「そうなんだね」

「ええ、ひとりは人気者の男の子。いつも面白いことを言ったりして、人を楽しませるのが好きな子だった。ひとりは女の子。私はその子のことが好きだった」

「友達にはなれた?」


 ようせいさんは優しく微笑みながら首を振る。

「なれたけど、ずいぶん後になってからだった。僕はね、友達を知るためには、まず自分を知ってもらわなければならないと思ったんです。中に何が入っているかわからない箱がスーパーで売っていたら買おうと思う? 少し不気味でしょう? 僕はこういう人ですって、しっかり教えてあげようとしたんです。もちろん、好意とともに。別のクラスに言って、お話しするチャンスを作って、僕のたのしかったこと、好きなゲームやTVのことなんかを話した。でも、結局友達になるどころか避けられてしまいました」

「なんで?」

「なんでだろうね。僕も昔はとても悩んだ。友達になりたくてお話をしに言っているのに何で避けられてしまうんだろうって」


 別のクラスに乗り込んで行くことなど、当時の私には到底不可能だった。

 もしできていたら同じことをしただろうか。

 ようせいさんのしたことは正しいことだと思うが、なぜ成果が出なかったのだろう。

 私の瞳の中をのぞき込むようなようせいさんの視線に問いかけをするような悪戯な雰囲気を感じる。


「それから、六年とか七年とかが経って、僕は大人になりました。大学生とか高校生とかその辺だけどね。たまたま同じくらいのタイミングでその二人に会いました。僕を含めて三人はそれぞれ別の学校に進んだから、面と向かってお話しするのは何年ぶりだろうと言うような感じだったかな。顔なじみのよしみですぐに仲良くなって、友達になれたんですよ。女の子の方は今は僕の妻です」

「えっ…??」


 途中まで必死に人間関係を追っていたが、説明が少なすぎてわからなくなってしまった。つまり、大人になったら友達が増えるってことなのだろうか?


「どうやって友達になったの?」

「うーん。どうしてでしょうね。ただ、久しぶりに会ったときに聞いたんです。『僕が知らない間の君は何をしていたの?』って。『どんな人生だった?』って聞いたんです。僕はそれにとても興味があった。それがきっかけで長話をしていたら、二人とも友達になっていました」


 当時の私には難しすぎる問答であった。私は次の言葉を慎重に選ばなければならないと思った。


「ようせいさんは、そのときも二人と友達になりたかったの?」

「昔ほどでは。そうでもなかったかなぁ…。わかりません。ただ、そのときは相手を知りたかったんです」


 ようせいさんは一呼吸置いてから、私の目をしっかりと見据えた。


「これはどこかで誰かの書いた本の受け売りなんですが、人は自分のことを知ってくれようとする人に好意を抱くそうです。自分のしてきたこと、考え、その結果である人生を共有して、あわよくば認めてほしいんですよ。だからね、『これまでどうしていたの?』って聞かれて、二人はうれしかったんじゃないかな? もちろん、聞き方ってあると思いますし、急にあれこれ詮索されたら気持ち悪がられますけどね」

「ようせいさんは友達になりたかったからその質問をしたの?」


 話が急に難しくなったように思えた。私はようせいさんに精一杯の質問をした。


「いいえ。でも、そういうテクニックがあるのは事実です。キャバクラだとか人生相談だとか、そういうところを利用する人は自分の話を聞いて相づちを打ってくれる人を求めているだけの場合があります。もちろん、たかあきくんが友達を作るためにこういうやり方をしたっていいと思う。でも、そのときは違いました。興味があったんです。本当にそれだけでした」


 純粋な興味が友人関係に発展したとようせいさんは言っている。

 それが事実でも、友達を作ることは私にとって遠い道のりのように感じる。

 私はそのときどんな顔をしていただろう。きっと床を見つめて、眉間にしわを寄せていたとおもう。


「僕も質問してもいいですか?」

「…? いいよ」


 ようせいさんは唐突にいう。


「たかあきくんはお母さんが好きですか?」

「うん、すきだよ」

「お母さんは、たかあきくんのことが好きかな」


 先日自問して答えられなかった問いかけを、今度は他人からされている。

 私に先日ほどの動揺はなかった。そして、母が自分の小さな変化に気がついたこと、会社を休んでくれたこと、同じ方向を向いて私を応援してくれたことをゆっくり思い出してはっきりと言った。


「うん、好きだと思う」


 勇気が必要な言葉だったが、よどみなく言うことができた。

 そのとき、母は私のことを知りたかったのだと気がついた。知らずにはいられなかったのだと悟った。

 ”知りたい”それがなによりも真摯な好意なのだ。


「ようせいさんは、ぼくが友達を作るためにはどうしたらいいと思う?」


 思い切って言ったその言葉は、隠しているつもりでいた本心であった。

 欲張りな質問だと思う。

 しかし、友達の作り方を聞いてなお、”ぼく”が友達を作るイメージが沸かなかった。ようせいさんならば、答えをしっていると期待した。

 ほどなくしてようせいさんはにこりと笑い、私に告げた。


「目の前にいる僕が友達ですよ。僕はあなたに興味を持ち、あなたも僕の人生に踏み込んだ問いを投げかけた。僕は君がどんな人生を歩んでいくのかとても気になるし、きっと君は僕がどんな人間なのかをもっと知りたくなったことでしょう。これできっと、僕たちは友達なんです」


 ひらりと肩すかしを食らった気分だが、ようせいさんの目は「本心だ」と言っていた。

 年がいくつも違う大人に友達だと言われるこそばゆさ。

 同時に私の心には勇気がみなぎっていた。

 クラスメイトや教師にさえ卑しいものへ向ける視線を受けていた自分が、とたんに高次のものへ押し上げられたように思える。

 私はつばをゴクリと飲み込み、ようせいさんの目をしっかりと見つめた。


「こんどは、いつ会えますか?」


 大人にするように、敬語で問いかける。

 おそらく、しばらくは会えないと内心ではわかっていた。


「わかりません。でも、きっと会いに行きますよ。私はあなたの成長した姿にとても興味があります」


 そういうと、ようせいさんはいつの間にかいなくなっていた。

 チャイムが鳴る。

 学校で一番はじめに流れる放送だ。

 教室は朝日で明るく照らされ、立ち尽くす私だけがいた。

 窓の外には青い空と、校門をくぐる生徒がちらほら見えた。

 今日一日が、今終わってもいいと思えるほど疲れた。

 教室に訪れた静寂の中で、私は熱くなった胸を冷ますように、立ち尽くし、窓の外を眺めていた。


「たかあきくん?」


 ふと聞こえた声の先に、私は目をやった。そこには赤いランドセルに三つ編みの女の子が立っていた。

 美化委員の蜂谷遙香であった。

 目が合うと、私の返事を待たずに声をかけられる。


「今日は早いね。いつも私が一番なのに」

「えっ、え…あの」

 先ほど湧いた勇気はどこかへ行ってしまったのか、口はもつれ、視線は床に落ちる。言葉は出なかったが、何かを言わなければならない状況であることだけはわかる。

 いつもの私なら押し黙り、下を向いたままどんなに蔑まれても知らないふりをしていた。しかし、今日は「それじゃダメだ」と頭のどこかが叫んでいる。

 私は全身の細胞から勇気を振り絞り、ただの会話をした。


「今日は…早く起きて掃除をしようと思って」


 とっさについた嘘であったが、すぐに後悔した。

 自室でもないのに朝早く起きて教室の掃除をするなんて、意味がわからない。

 どのように取り繕おうか考えていると蜂谷が目をむいた。


「まさか! 私が朝、教室の掃除をしていたことを知って手伝いに来たの?」


 今度は私が目を見開いた。

 それは単に驚きによるものだ。

 朝早く来てまで教室の掃除をしているなんて、知らなかったし意味もわからない。


「え、…ちがうよ?」

「…」


 数秒の間。

 何が起きているのかさっぱりわからなかった。

 だから、純粋な興味で私は聞いたのです。


「何で、掃除をしようと思ったの?」


 しょうもない質問であったが、たぶんこれが家族以外で誰かに向けた初めての興味であった。そして、蜂谷は私の二番目にできた友達になった。

 私はそこから少しずつ友達と呼べる人ができた。

 いろいろあったが、大学を出た後は掃除をする仕事を生業にするようになった。




 これが私とようせいさんの物語。

 私が掃除していたトイレもだいぶきれいになった。しかし、このトイレもこの建物の中の一個に過ぎない。次のトイレに取りかかろう。


「社長! 社長!」


 女性の声がした。ここは男子トイレのはずだ。

 振り返ると、昔と変わらない三つ編みの友人が立っている。

 お互い年なのだから、三つ編みはやめた方がいいのではないかと思うのだが、それは彼女なりのこだわりらしかった。


「全部のトイレを探したわ。やっぱりトイレにこもってた!! ほら、早く作業着脱いで! 会場のトイレを勝手にきれいにするのはやめなさい」

「ああ、わかったよ」


 私は素直に従った。

 手を引かれて、すごい勢いで連れて行かれたのは小さめの楽屋であった。小道具が部屋の隅の段ボールからはみ出したりしているのを横目で眺め、「片付けてやりたいな」とおもう。無論、勝手にそんなことをしたら彼女に叱られることだろう。

 鏡台が四つほど設置された部屋には、スタイリストらしい女性が待機している。

 私は窮屈なスーツを着せられ、ポケットに花をねじ込まれる。

 作業用の帽子をかぶっていたせいで固まっている髪を無理矢理立たせた後、再度なでつけられる。そして、薄くファンデーションを塗られた。

 慣れとは恐ろしいもので、今ではこんな急転直下の早着替えも日常と化している。


「はい、もうすぐ出番ですよ。しっかりしてよね」


 彼女は私の肩をぽんとたたいたあと、急いでどこかへいなくなった。裏方に徹してくれているが、ほんとうなら私なんかよりも彼女の方が前に出て喋った方がいいと思う。

 以前にそんな話をしてみたが、彼女は「あなたの言う“ようせいさん”に気がついて欲しいなら、あなたが前に出て喋らなきゃいけないでしょ」といわれた。

 私は納得し、今にいたるのだ。

 私はステージの裾に立たされて、出番を待つような形になる。

 暗幕の裏側に大勢の人が待っているのを感じた。

 ややあって会場が暗くなり、定点照明がステージを照らした。


「みなさん! お待たせいたしました! 『トイレの妖精さん』『私が掃除をする理由』『”心”と心の掃除』の著者、兼株式会社フェアリークリーン代表取締役の児島孝明さんに講演をいただきます」


 MCによる紹介が終わると、会場は拍手に包まれる。

 私は一歩一歩地面を捉え、ステージ中央にある机にたどり着く。

 ステージから見た客席は照明がまぶしくて見ることはできない。かろうじて見ることのできる前列の席は満員で、傍聴者の熱気が伝わってきた。

 私は設置してあるマイクの位置をちょうど良い位置に傾けて、話し始めた。


「みなさん、こんにちは。ご紹介に預かりましたフェアリークリーンの児島孝明です。まず、はじめに私の人生観を語る上で『といれのようせいさん』のことを話さねばなりません。彼は突然私の目の前に…、といっても、皆さんは信じないでしょうが――――」





 ―――― 友よ、会いに来てくれていますか?



                                 第三幕 了

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