猫のパン屋さん
シイカ
猫のパン屋さん
「パパさん。僕、パン屋さんになりたいんです」
猫口家の飼い猫ジローはある日、こう言った。
「それは、また、アレだな。ずいぶんと……」
飼い主の猫口太郎さんは戸惑った。
猫がパン屋をやっているのを見たことがなかったからだった。
ジローは賢い猫で太郎さんの奥さんが亡くなってから十年も一緒に暮らしてきた家族。
だから、いつの間にか人間の言葉を話すようになったジローに、ほかの猫がしない事、つまり、他と違う、おかしな事はするものじゃあない……なんていわずに放っておいた。
太郎さんも、ずいぶん猫の言葉をおぼえたけれど、ジローほどじゃない。
気がつけばジローは人間の子どもが成長するみたいに賢くなっていた。
もちろん。
ジローは猫だから人間の子のように学校へいく必要もないし、まして、働く必要なんかない。
それを、いきなり手に職を持ちたいというのだから驚くなというほうが無理だ。
――でも。いや、そうだな。
……と、太郎さんは心のなかで思った。
今日までほんとうの子どもだと思って育ててきた猫のジローがまじめな顔をしていうの
だから、父親としてまじめに聞いてあげて、そうして、よいことならよい。悪いことならよくないと答えてやらなくてはいけない。
そう考えてから、太郎さんは父親らしく腕組みをして、こうききかえした。
「ずいぶんと、いきなりな話だが。……ジロー」
「はい」
「おまえ。なぜパン屋になりたいんだ?」
「パンが好きだからです」
ジローは真顔できっぱりと答える。
真顔といっても、いつもおなじような顔をしているのが猫というものなのだろうけれど、十年もふたりきりでくらしていれば、まじめなのか冗談なのか、そのぐらいはわかるものだし、わからないでは親子ではない。
そして、今のジローが冗談でいっているとは、太郎さんには思えなかった。
だから、あぐらをかいた座布団に、ゆっくりと身をのりだして太郎さんはいった。
「パンを食べるのが好きなのとパンを作るのは違う。そのへん、わかっているのかね?」
するとジローは針の目をすこしふせて、下をむき、でもすぐに小さな顔をあげた。
「それはわかっています。僕はパンを食べるのが大好きですから。……でも」
「でも……なにかね?」
太郎さんは老眼の目を細めて、金色をしたジローの目を見つめた。
縁側からやさしく吹いてくる風にキンモクセイのあまいにおいがする。
子猫だったジローが家にきたのも、こんな風が吹くころだった。
真っ黒な体に金色の目。普通の子猫。
近ごろ変わった猫というのはめずらしくないがジローはパンが食べられる、ちょっと変わった猫だった。
ふつうの猫はご飯は食べてもパンは食べないものだ。
それが『普通の猫』というものだ。
やはりそう思うのかジローは、しばし首をかしげて考えこんでいたが、ややあって太郎さんの目を見返した。
「パパさん。僕は、僕はパンを食べている人を見るのが好きです」
――ははぁ。こいつめ、ずいぶんとおとなになったものだよなあ。おれも歳をとるわけだ……。
太郎さんは、今年で六十五歳。長く務めた会社を定年したばかりだった。
それだから、ジローが大人びたことをいうようになったのが嬉しくもあり、ちょっぴり寂しくもあった。
この世界の猫の寿命は、だいたい三十年。
この世界では十歳のジローは人間でいえば二十代のなかばで、大学を出て三年目といったぐらいか。
そうだ。いつの間にかジローは大人になっていたのだ。
太郎さんは成長したジローの姿を先に天国へいってしまったお嫁さんにも見せてあげたかったと思っていた。
「そうか。ジローは人の役に立ちたいんだな、それではやってみなさい。パン屋さんを」
「いいのですか、パパさん。ほんとうに?」
「うむ。天国のママも、それがいいというだろう。パパの退職金とな、多くはないが貯金もある。お店をだすなら、この家を使いなさい。パパはそれほどながくは生きられないから、ジローのためにと思っていたんだよ」
太郎さん……パパさんは優しい笑顔で、そういった。
「パパさん。それにママさんも。ありがとうございます!」
ジローは丁寧に頭を下げてお礼をいった。
「僕はパパさんとママさんの子どもになれて幸せです」
「うむ。がんばるんだぞ。ジロー」
それから三年。
ジローは近くの大きな街の有名なパン屋さんでパン作りの修行をした。
親方もおかみさんも、ジローをかわいがってくれて、太郎パパさんと同じように大事に育ててくれた。
パン職人の修行はきびしかったけれど、ジローは勉強が好きで、なによりパンが好きだった。
だから三年間で仕事をおぼえて、親方から、おまえはもう一人前だから、ひとりで歩け……と、いってもらえた。
一人前になり、家に帰ったジローが作ったパンを、パパさんは、おいしい、おいしいと喜んで食べてくれた。
五年目の秋。キンモクセイの匂いの風が吹くころ。
家をリフォームして、それこそ、猫のひたいほどの小さな工場とお店ができてまもなく、パパさんは天国にいった。
ジローの小さな手をにぎって、いつもの優しい笑顔で眠るようにママのいるところへ。
『猫口パン屋』と大きく書かれた看板に、毎朝、両手をあわせ、パパとさんとママさんに感謝してジローはジローのパンを焼いた。ひとりになっても寂しくない。ジローにはパンがあった。
ボウルに小麦粉を入れて、ぬるま湯を入れ、手で混ぜ合わせて耳たぶ位の柔らかさになるまでよくこねます。
ジローは、習ったことをちいさな頭に思い浮かべてパンを作っている。
「小麦粉がひんやりしてて肉球がきもちいいね」
肉球のついた、ちいさな手でパン生地をこねこね。
生地をきれいに丸めてボウルに入れ、ぬれ布巾をかけてあたたかい場所において、倍の大きさになるまで発酵させます。
ジローは、その間お店を開ける準備を少しずつ進めている。
そうしている間にパンは、あっという間にふくらんでいた。
――ジローは、時間の使い方が上手だね。
……とパパさんにいつも言われていたなと思い出す。
ふくらんだ生地を手で軽くおさえてガスをぬき、10等分します。きれいに丸めて、ぬれ布巾をかけて生地を休ませます。
――どうしていつもぬれ布巾をかけるんだい?
「パンってね、乾燥するのが嫌いで、とってもデリケートなんです」
「ははあ。そうなのか。ジローは賢いな」
……と、パパさんとの会話をつい思い出してもいました。
大きな目から涙がぽろり。
そんなとき。ジローは、にゃーん……と、猫の言葉でパパさんのなまえをよんだ。
――なんの負けるものか。泣いてなんかいないぞ。僕は僕のパンで、みんなに喜んでもらうんだ。
休ませた生地の形を整えて、オーブン用のシートを敷いた天板に間隔を空けて並べ、ぬれ布巾をかけてあたたかい場所で大きくなるまでおきます。
「パパさん。パンってね、あたたかいところで丸くなって寝るのが好きなんです。まるで猫みたいでしょ?」
――ははは、本当だ、ジローにそっくりだ。
パパさんに、その話をしてからジローは、寝かしているパン生地を子猫と呼ぶようになった。
「やぁやぁ、子猫ちゃんたちや、もうこんなに大きくなって。よしよし。よく寝たようだね」
最後の仕上げだ、熱々のオーブンに入れるのだ。
「くんくん、いい匂いだ」
今、オーブンの中で、パンの子猫たちが最後の成長をしている、ジローはこの匂いが大好きだ。
さて、いよいよお店の看板を出して開店の準備だ。
焼きあがった、パンたちをお店に並べていると、お店の外で子供が手を振っている。
「ふえぇ。もう並んでる、急がなくちゃ」
ジローは、パパさんとママさんの写真の前に焼きたてのパンを置いて、猫の手を合わせた。
「パパさん、お店はすっかり人気になってね、まだお店が開いてないのに、並んでいるんだ、パパさんがぼくのためにお店をつくってくれたおかげだよ」
そうしてジローは、さいごに、ふつうの人間にはわからない猫の言葉でつぶやく。
「……天国でママさんといっしょに見ていてね」
準備中の看板を営業中にして、猫口パン屋の一日が今日もはじまる。
「今日もパンがたくさん売れたし、そろそろお店を閉めないと」
ジローは、今日のできごとを歌いながらお店を閉めている。
パンの注文が200個 200個 ふえぇ 一匹じゃたいへん 猫の手も借りたいね
猫口パン屋が人気のお店になったと実感したジローは、次の日、猫口パン屋は、今や猫の手も借りたいほど忙しくなった……と、お客さんに喜んで話す。
「ここのパンは、おいしいからね、わたしなんてオープンした日から食べてるもの。繁盛すると思ってたよ」
オープンしてから、四日にいちどは来てくれてる近所のおばさん。
「ありがとうございます! これからもごひいきに!」
ジローは、すっかりうきうきです。
「人気のお店になったから従業員を増やさなきゃいけないかなあ」
ニコニコしなかせらジローは考えた。
ほんとうにジローのパンは町のひとたちに愛されている。それがうれしかった。
「このまま人気になって人が増えたら大きなパン工場になって、猫口パン屋は、猫口印のパンになるのかな? ふえぇ。すごいぞ、すごいぞ」
そんなある日。
うきうきになっているジローのもとに、スーツを着た男の人がやってきた。
「すいません、あなたが猫口パン屋のご主人さまですか?」
「はい! ぼくが猫口パン屋の店長でオーナーで、ご主人の猫口ジローです!」
「私は弁護士をしている松下といものです」
松下さんはていねいに名刺を差し出し、ジローはちいさな手で受け取った。
「ややや。弁護士さんもぼくのパンを食べにきてくれたのですか」
すると松下さんは苦笑いをしながら、ジローに説明した。
「いいえ。実はですね、猫口さん。ちょっとこのお店に苦情というか、質問が来てましてね」
「くじょう……ですか?」
ジローは、突然のことに胸がどきりとした。
いったいなにが、苦情が出るようなことをしたというのだろう。
パンを買いにきてくれるお客さまから苦情なんていちどだっていわれたことはない。
あんまりおどろいたので、ジローは――
……苦情。質問って。それはいったいどのような……?
そういおうとしたのだけれど、緊張しすぎて猫の言葉がまじってへんな声になってしまった。
その声とジローの顔がおもしろかったのか、弁護士さんは思わずクスっ……と苦笑いをして、ぱたぱたと手をふってみせた。
「失礼しました。いえね。つまりですね。猫がパン屋をやるのは、おかしいのではないかと……。まあ、そういうお話です」
「猫がパン屋はおかしい。…………おかしいのですか?」
ジローは、お店の中で丸くなった瞳をもっと丸くして、つっかえつっかえに、でも、ていねいな人間の言葉で答えた。
黒猫だから目立たないけれど、人間だったら赤や青。そういった顔色になっているところだろう。
「うーん……と、その、ヘンだと言われましても、猫口パン屋がオープンしてもう2年経ちますけれど苦情なんか……」
「そうですか? ほら、たとえばパンに毛が入るとか、そういうのは?」
「入らないように注意してます。毎日のお風呂も毛ずくろいも欠かしていませんし、パンに毛が入っていたなんて一回もありません」
ジローは、猫一倍キレイ好きだと言わんばかりに胸を張った。
「ふむふむ、なるほどなるほど」
今どきにはめずらしく、紙の手帳にボールペンでメモを取りながら、弁護士の松下さんは、また、ジローにたずねた。
「なぜパン屋さんをやっているのですか?」
「ぼくは猫なのですが、パンが好きなんです」
恥ずかしながら……と、ジローはちいさな頭をかく。
「もしかして、法律で猫はパン屋さんをやってはいけないというのがあるのでしょうか?」
ジローは、見た目では変わらないものの青ざめた。
「いえ。そのような法律はありません」
困りながらもていねいに答える松下さん。
「では、新しくできたのでしょうか?」
ジローは、おそるおそる聞いた。
「そういうこともありません。ただ……」
松下さんはメモ帳のまえのほうをめくりながら、たしかめるように答えた。
「猫がパン屋さんをやるのは、おかしいのではないか? と、そういう電話がきましてね。それでお話を聞きにきたのです」
「その『おかしい』というのはだれがいうのです?」
ジローは身をのり出してたずねた。
すると松下さんは開いた手のひらをかざして、まあまあ、あわてずに……と、前おいて説明する。
「ええと。ねえ、猫口さん」
「ジローでいいです」
「しょうちしました。では、ジローさん。まず、きいてください。その電話をくれた人。名前はいえませんが、そのひとは、
べつに、あなたを悪者にしたいわけでもないし、怒っているというのでもないのです」
「……はあ。では、どうして?」
怒っているのでも、嫌がっているのでもないというのなら、なにがいけないというのだろう?
ジローはまったくわけがわからなくなってしまった。
すると松下さんは、ゆっくりとおだやかな声で、自分のことばをたしかめるように話した。
「そう……。電話をくれた人も、わからないから弁護士の私ならわかるのではないかと、そう思ったらしいのですよ」
そうきいて、ジローは、狭い額の眉をよせた。
「そんなぁ……。あったこともない人にヘンだなんていわれても……」
「そうですね。人間は生き物の中で自分がいちばん賢くてえらいと思い込んでしまう、よくないくせがありますからね。ですから、見なれないものをみると、怖いものなのじゃあないか……って、そんなふうに考えるものなのです」
「こわいもの? ぼくが、こわい?」
パパさんとママさん。修行先の親方さまも、ジローをかわいいといってくれた。
それが、怖いことだなんて……。
なんだかさみしい気持ちでいっぱいになって、ジローの目に涙がにじんだ。
「いや。ジローさん。泣かないでください。そういう人間もいるというだけで、みんながそうじゃありません」
松下さんは、やさしげな笑顔で、はげますようにいった。
「だから私がたしかめにきたのです。猫のパン屋さんは、おかしくないし、怖くもない。それを証明しなくてはね」
そうもいってくれたけれど、かなしいものはかなしい。
ジローは、腕を組んで、うーん……と、うなった。
そして自分の思うことを正直に、ありのままに、はっきりとした人間のことばで松下さんにつたえた。
「僕は生まれたときから猫です。どこで生まれたのか知りません。でも、人間のパパさんとママさんが僕を人間の子どもと同じように大切に育ててくれたのです。だから僕は、人間を好きになりました。普通の猫は食べないパンを食べてみたいと思ったのだって、両親がおいしいといって食べているのをみて、僕も食べてみたいって、そう思ったからなんです。ですから……」
ジローは、一生懸命に話した。
おいしそうにパンを食べている人間の顔をみるのが好きなこと。
自分もパンをおいしく食べていること。
それから、天国にいった大好きなパパさんとママさんが、どれほど自分を愛してくれていたのかも。
僕は人間になりたかったんじゃあない。
猫のパン屋さんになるのが夢で、今、その夢をかなえて毎日パンを作っている。それが猫の僕なのだと。
精一杯の気持ちを話して、ジローは言葉をむすんだ。
「クリーニング屋さんをやる猫や駅員さんをやる猫。モデルさんもやる猫もいます。だから、パン屋さんをやる猫がいてもいいと思います」
ジローは、アイロンをかけるマネや駅長さんのマネなどをして説明した。
その姿があまりにもかわいいので、松下さんは、ついクスっと笑ってしまった。
「いや、失礼しました。たしかにそうですね。猫が仕事をもつようになって、もうずいぶんたつのに、まだ昔のままの考えからはなれられない人は多い。そういうことでしょうなあ。すみませんでしたね。お仕事のお邪魔をしてしまいまして」
「いえいえ、松下さんもお仕事でやっていることですから」
ジローの礼儀正しさに松下さんは驚いた。
それといっしょに、そんなジローが作った猫のパンが、どんな味なのかを知りたくなっていた。
だから、普通の、人間のパン屋さんにいうようにジローに、こういった。
「せっかくなので、ここのお店のパンを買っていきますよ、パン屋さんにいてお腹が空いてしまってね」
松下さんもジローに会う前は、猫のパン屋は変だ、と思っていた。
だけど、来てみたらどうだろう、並んでいるパンはおいしそうだし、お客さんもちゃんといる。
猫だけどジローは、ちゃんとお店を切り盛りしているではないか。
たしかに最近は駅員をやる猫やクリーニング屋さんやモデルさんをする猫がいるし、この町ではないが、猫の喫茶店というのもある。
━━━━そうだ。もう猫だ人間だという時代でもないんだよなあ。明日、猫の弁護士があらわれたってヘンでもなんでもないか。
松下さんがあれこれ考えている間に、ジローは、にこにこしながらパンの会計を済ましている。
「はい! 猫口パン屋おすすめのパンですよ、お家でゆっくり召し上がってください」
松下さんもお家に帰ってから食べようと思っていたけど、ジローがお会計している間、もう少しジローと話をしたいと思うようになった。
「ここで食べていってもいいでしょうか? 私はもうお腹がぺこぺこでして」
「もちろんいいですよ! 奥にお部屋があるのでそちらで食べてください、パンに合うコーヒーも出しますよ」
奥の部屋というのはジローのお家のことだ、松下さんは少し申し訳なくなった。
「お待たせしました、松下さん、ゆっくり食べていってください」
「ははは、ありがとうございます、では、いただきます」
そういいながらパンを一口食べた松下さんは、目を丸くした。
しっとりとして、やわらかくて、とても上品な味がする。
このパンならば、高級ホテルにおいてもおかしくない。
もっとはっきりいえば、こんなにおいしいパンを食べたのは初めてだった。
それだから、そうとわかっていても、きかずにはいられなかった。
「……ええと、猫口さん。これは、ほんとうにあなたが作ったのですか?」
「はい、そうです、このお店には僕しかいませんから」
「驚いたな。こんなにおいしいパンだとは。ましてや猫がつくるパンなんて生まれてはじめて食べましたよ」
ジローは細い目をさらに細くしてにこにこ笑った。
パンを食べている人の顔を見るのが、ほんとうに、ほんとうに好きなのだ。
「ありがとうございます。気に入っていただけて僕はうれしいです」
「すみません、長くいてしまって」
「なにを言ってるのですか松下さん。三十分もたっていませんよ」
「ははは。そうでしたか。それでは猫口さん次来るときはお客さんとしてきます」
「ぜひ、そうなさってください。松下さんは、いつでもお客さんですよ」
━━━━それでは、また。何かあれば、またきます。
松下さんはジローの作ったパンがつまった紙袋をかかえ、笑顔で帰っていった。
そのうしろ姿が見えなくなると、それまでのきんちょうがとけて、ジローはへなへなとすわりこむ。
ひとつもウソをつかず正直に。精一杯の勇気をだした話をしていたけれど、ほんとうは怖かったのだ。
「ふえぇ。弁護士さんが来ちゃった。どうしよう、どうしよう。僕、裁判にかけられちゃうのかなあ? 僕はパンが好きなだけなんだよお」
ジローは泣きそうな気持ちになっていた。
松下さんは、いじわるをするような人には見えなかった。
それに、ジローが作ったじまんのパンをおいしそうに食べてくれていた。
おいしいものを食べているとき人間は嘘をつかないものだとパパさんは教えてくれた。
でも、だけど、法律というのは、正直なところよくわからない。
「そうだ。僕は猫だから人間の法律をまもらなくもていいんだろう。でも人間とおなじ仕事をするなら、そのルールをまもらなきゃダメだよね」
白い天井を見上げて、ジローは考えた。
一時間も考えた。
途中で眠くなってしまい、パンを買いに来たお客さんに、揺り起こされもするぐらいに考えた。
こういうとき、どうすればいいのか。
人間もなやむのだから、ジローも悩む。
でも、いちど不安になると、そこから抜け出すのは、なかなかにむずかしい。
「うん。今、考えてもしかたがない。とにかく今までどおりパンを作ろう。いや、いままでよりも、もっとおいしいパンを作るんだ」
自分で自分にいいきかせて、ジローはできるだけ気にしないよう心がけながら、せっせとパンを焼いた。
しかし、その後。猫口パン屋のジローは、今までにも増して有名になってしまった。
━━━━弁護士の先生がきて、猫がやるパン屋さんは変だと言われたのだそうだ。
……と。そんな噂が、いつのまにか町中に広まって、猫口パン屋が閉店の危機だ……と、おおげさな話になってしまったからだった。
もちろん小さな町だから、ジローの耳にも入ってくる。
噂というのは無責任で心ないものだから、いちど広まると手がつけられない。
人間だって、そういう噂話に心を傷つけられる。
それは猫のジローも同じだった。
「ふえぇ。僕のお店、閉店しちゃうの? どうしよう、どうしよう」
ジローは、お店がなくなってしまうんじゃないかと不安でしようがなく、寝込むことが多くなってしまい、猫口パン屋も休業が続いてしまった。
猫だって、悩みすぎれば熱がでる。
かかりつけの獣医さんにみてもらったけれど、これはマタタビをなめてなおるものじゃないと肩をすくめられてしまった。
でも、こまっていたのはジローだけじゃない。
常連のお客さんたちも猫口パン屋がなくなってしまうんじゃないかと、心配になってきていた。
――猫口パン屋のパンは他のお店じゃ食べられないパンなんだ。
――猫口パン屋のパンが食べられなくなるのはいやだ。
――猫口パン屋のパンをずっと食べていたいよ。
そんな声が、奥の座敷でひっくり返り、ふとんの上でニャアニャアとうなっているジローの耳にも聞こえてきた。
━━━━みんなが僕のパンをまってくれている。猫が寝込んでいる場合じゃないんだ……! 場合じゃあ!
「みぎゃあーーーーーーー!」
猫だけど、ジローはトラやライオンみたいにおたけびをあげて布団の上にとびおきた。
頭がふらふらする。
針の目がくるくるまわる。
ついでに肉球がついた小さな手のひらに汗がにじんだ。
それでもジローはプルプルと身ぶるいをして、猫背をのばし胸をはる。
「僕は……パン屋だ。パンを作らない猫はただの猫。僕は違うぞ。パン職人の猫口ジローなんだぞ! がおーーーー!」
あんまり迫力のあるおたけびではなかったけれど、トラもライオンも猫の親戚だそうだから、まるきりダメというわけじゃないだろう。
「とりあえず、まず、できることからはじめよう」
ジローは小さなひたいにハチマキをしめて電気オーブンの手入れをはじめた。
「……ごめんよ。こんなに冷えちゃってさ。もうすぐパンの子猫たちをおなかいっぱいにならべてあげるからね!」
ただ、だまっている銀色の電気オーブンをなでるようにみがきながら、ジローは唄った。
にゃんにゃかホカホカ 猫のパン できたてほやほや 食べてみて
ほっぺがおちるよ にゃんにゃかホカホカ 丸いパン 丸くて美味しい猫口のパン
にゃんにゃかホコホコ 猫のパン はやくおいでよ たくさん焼いたよ
夕陽がキラキラ にゃんにゃかホコホコ 四角い食パン 美味しくやけたよ猫口のパン
猫口パン屋はパンの店 なんでもありますにゃんにゃんニャ 朝ごはんにサニーサイド おやつにカレーパン クロワッサンも売ってます
夜中にノラ猫たちが集まって唄っているような、そんな気がぬけるようなメロディーだけれど『ねこぐちパンのうた』はジローが作詞も作曲もした。
つらいとき、さみしいとき。ジローは、この歌をうたって自分をはげましてきた。
修行先の親方さまがいっていた。
歌には目に見えない力がある。おいしいパンは唄って作れ。
機嫌が悪いとき、具合が悪いとき。そんなときに作ったパンは美味しくない。辛すぎたり、甘すぎたりしたら、それはジローにも美味しくないパンになる。
楽しく作れ。幸せな気持ち、感謝の気持ちを手先にこめて小麦粉をこねるのだ。
ゆっくりやさしく、時間がかかってもいいから間違いなく。そうして作ったパンは、ジロー。おまえのパンになる。
「親方さま。パパさん、ママさん。僕のパンを食べてくれるお客さまたち。僕は約束します。なにがあっても負けません! パンを焼くのをやめません!」
ジローは、恥ずかしいので、人間の言葉でも猫の言葉でもなく、心の声でさけんだ。
「ほんとうに正しいことなら、きっとみんながわかってくれる。もし、まちがっていたのなら、そのまちがいをすぐになおす。パンの味は間違えない!」
ジローはがんばった。
自分でもおどろくほどに。
いったんパン作りをはじめると、仕事を覚えた手がひとりでに動いた。
そうしていると、パンを作るのが楽しくて楽しくて、それまでの悩みがスッ……と音をたてて消えていく。そんな気がした。
焼きたてパンの香ばしい匂いが小さな鼻をくすぐる。
ジローの大好きなパンの匂い。生きてきたことがうれしくなる優しい匂い。
気が付けば、猫口パン屋の店内には、キラキラと輝くようなパンがいっぱいにならんでいた。
「……よおし。できたぞ。このパンたちで、まってくれていたお客さんたちによろこんでもらおう! ……ふえ。なんだか眠いな……あれ……あれ……」
ジローは、その場で横になり体をまるめて深いねむりにおちていた。
今は夜明けの少しまえ。人が未明と呼ぶ時間。
ジローは一晩以上、なにもかも忘れてパン作りにうちこんでいたのだった。
美味しいパンを作ること。そのパンで笑顔になる人たちの顔を見ること。
それがジローの、いちばん好きなことだった。
しばらくすると、猫口パン屋になくなってほしくないという署名が千通以上集まった。
さらに驚いたことに同じ町、同じようにパン屋さんをやっている人の署名も七件入っていてこれは、その町のパン屋さんの数と同じだった。
ジローのパンが大好きな人、みんながジローを助けてくれたのだ。
最初にたずねてきた弁護士の松下さんも署名してくれていた。
「だって猫のパン屋さんておもしろいじゃないですか」……って。
ジローは、泣いた。うれしくて泣いた。
ジローはそれからも、一生懸命にパンをつくった。
人間のお嫁さんをもらい、子供もうまれた。
やがてジローが寿命を迎えて、パパさんとママのいる空へ登って行った。
幸せそうな笑顔を浮かべて。ジローは、三十年間生きた。
「猫のパン屋さんって今当たり前にあるでしょ? 実はわたしのお店が最初なんだよ」
若い女の子が子供にうれしそうに話していた。
お店ができてからずっと来ているという、常連のおばあさんが若い女の子に話しかけてきた。
「猫口パンを2個ください。レイちゃん、今日も元気がいいね、昔のジローさんにそっくりだよ」
部屋の奥にはパパさんとママさんの写真に、にっこり笑顔のジローの写真が飾ってある。
若い女の子はそれをチラッと見て、ジローにそっくりの笑顔をした。
「そりゃあ、もう親娘ですから。毎度ありがとうございます!」
歩きながら孫と一緒に猫口パン屋のパンを食べるおばあさん。
「おばあちゃん、このパンおいしいね」
キンモクセイの花の匂いのする、やわらかな風が夕暮れのわたっていった。
おばあさんは、懐かしそうに目を細めて、猫口パン屋を振り返る。
そこには笑顔で手をふるジローさんの娘の姿があった。
「猫口パン屋は昔から美味しいんだよ。……そう、昔っからね」
美味しいパンを作ること。そのパンで笑顔になる人たちの顔を見ること。
それがジローの娘、レイのいちばん好きなことだった。
『猫のパン屋さん』 了
猫のパン屋さん シイカ @shiita
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