輝きを取り戻した街で

  光輝く

  母なる大地

  清き水はとうとうと


  花は咲き

  木々が茂り

  命を育む


  燃ゆる炎

  騒ぐ風

  愛は実り


  富の欠片

  時を経て

  やがて無に帰す


 黒板を滑る白墨、生徒たちは懸命に追いかけながら手元のノートに書き写す。

「これがウェーザーの建国物語であり、十二の精霊たちの関係性です。そして季節の巡りやひとの一生にも当てはめられます。また、はるか昔、賢王アレン様が体系的にまとめられた魔法書には、それぞれの精霊の力を組み合わせて我々のように魔法力のない者にも……」

 ちょうど魔法を覚えたいと思っていたシルヴァには、とても大切な授業だった。しかしながら、先ほどからペンを握る手は止まり、うつむいたままゆらりゆらりと肩が揺れている。

「せっかくですから、シラー神教についてシルヴァさんに話していただきましょうか。シルヴァさん、シルヴァさん」

 後ろの席の子が背中をつついてくれて、シルヴァはようやく目を覚ます。勢いよく立ち上がり、そして寝ぼけまなこで周囲を見回した。くすくすと笑う生徒たち、教師は呆れ顔でじっと睨んでいる。

「う、あ……すみません、聞いていませんでした」

 しょんぼりと肩を落とすと、教師はやれやれとため息をついた。

 自ら勉強したいと言って学校に通わせてもらっているのに、ここ数日まるで身が入っていない。

 それと言うのも、カインの作ったバラのジャムが大好評で、連日トマの屋敷に行列ができるようになっていたのだ。トマ家の人々は寝る間も惜しんで花びらを煮詰めているが間に合わず、シルヴァも学校から帰って宿題を済ませたあと、夜遅くまで手伝っていた。

 これではいけないとぐっと目に力を込めて気合を入れ、残りの授業を乗り切った。

 放課後になると、同級生たちはシルヴァのもとに集まり、噂のバラのジャムについて聞き出そうとする。

「ね、トマのお屋敷以外では売ってないの?」

「何時ごろに行けば買えるの?」

「家でも作れないかな?」

 そしてあわよくばシルヴァの友達ということで、優先的に手に入れることはできないかと期待した。シルヴァは申し訳なさそうに、自分には販売権がないので、正規の方法で買い求めるようにと断った。

 帰り道、茶会や魚釣りに誘われても、急いでいるからと全て辞す。早くセリオ達と交代しないと、彼らもきっと疲れているはずだ。

「ただいま」

 帰宅したシルヴァの元気がないことに、カインがいち早く気付く。

「どうした、何かあったのか?」

「あは……授業中に居眠りしちゃって……」

 なんだ、そんなことかとカインは安堵する。しかし、確かに目の下にはくまができて顔色も良くない。

「夕飯まで、少し寝てくるか?」

「でも、みんなも疲れているのに……」

 セリオは欠伸をこぼしながら薪を割り、アレシアは目をこすりながら鍋をかき混ぜ、女中たちは無言のまま花びらを洗っている。

 当然、家事がおろそかになり、屋敷内は荒れていた。洗濯物は溜まり、床には塵が積もり、汚れた食器がテーブルの端に重ねられている。

 せっかく新しい事業が成功し、経済的に潤ったというのに、ちっとも幸せそうでない。

 唯一疲れることのないカインは、ふむとうなずいた。

「よし、みんな休め。あとは俺がやる。おまえ達が倒れては意味がないからな」

 困惑するセリオから鉈を取り上げ、アレシアから木べらを奪い、女中たちに帰る支度をするよう命じる。これだけ人気商品になったのだから、一日くらい品薄になったところで客は離れたりしない。

 気力体力ともにきちんと回復させてから、また頑張ればいい。

「申し訳ありません、カイン様。もうすぐ工場の準備が整いますから、そうすればもっと生産数も上がり……」

「わかった、わかった。何も心配せずにおやすみ」

 きっと工場の手配以外にも、博物館の建設や街の補修工事の発注など、やるべきことが山積みなのだろう。真面目な性格のセリオは気になって眠れないのかもしれない。

 ならばまじないをかけてやろうかと思ったが、やはり限界だったらしい、素直に自室に戻り、すぐにいびきをかきはじめた。

「ほら、おまえも。ああ、腹が減っているのか?」

 すぐに食べられるものがないか棚を探る。ふと、背中にやわらかい感触。珍しくシルヴァが甘えて抱きついてきた。

「ごめんね、カイン様。せっかく学校に行かせてもらってるのに」

「おまえも真面目だね。俺は民から取り立てた税金で授業を受けていたが、ほとんど聞いていなかったね。ああ、居眠りもしていた」

「ひどい……」

「はは。それに比べれば、たいしたことないだろう」

 干し肉を見つけ、バターとからしを塗ったパンで挟んでやる。茶にバラのジャムをひとさじ落とすと、シルヴァはふと深呼吸してその香りを味わった。

「ありがとう、カイン様」

 美味そうにパンをほお張るシルヴァを見て、カインはにっこり笑う。彼女が元気にしていると、それだけで嬉しい。

 ひと心地つくと、シルヴァはかばんから教科書とノートを取り出しテーブルに広げた。

「なんだ、寝るんじゃなかったのか」

「うん、宿題は先にやっておく。それに……」

 一人で部屋に戻るのは心細かった。

 ルーベン・ロジャとその仲間たちのおかげで片付いた離れに部屋を移して数日が経つが、シルヴァは未だに落ち着けないでいた。古い建物はどことなく薄暗く、バルコニーのすぐ向こうは波の打ちつける断崖絶壁、時折吹きつける強い風が化け物の咆哮のような気がして、隣にカインがいなければとても耐えられなかった。

「おまえがそんなに怖がりだとは思わなかったね」

「小さい頃、寝ないと魔物が来るよって姐さんたちにおどされて……姐さんたち、芝居がうまいから……」

「本当に芝居だったのかい?」

「え?」

 シルヴァの顔が引きつる。冗談だよ、と意地悪く笑うと、碧色の大きな瞳をつり上げて頬をふくらませた。

「もう、カイン様のいじわる。きらい」

「ん、すまん」

「うそ、大好き」

 瞳を閉じると、甘く触れるくちびる。

「ね、カイン様も好きって言って」

「な……」

 カインは顔を真っ赤にしてうろたえる。

 こんなに胸が張り裂けそうなほど想っているのに、なぜ声にならないのだろう。何度も息を吸い、吐き、喘ぐ。

「あは。仕返し」

 満足したのか、シルヴァは教科書をめくって宿題にとりかかった。

 その耳元で、ささやく。

「……」

 熱い吐息のような低い声、シルヴァは思わず耳を押さえて立ち上がった。全身がしびれ、心の臓は破裂寸前、ただ頭の中でくり返し響く言葉に目眩を起こす。

 混乱するシルヴァをよそに、カインは何もなかったように平静を装い鍋の様子を確かめた。

「あ、あは……」

 シルヴァも座り直してペンをとる。しかし手が震えてまともに字が書けず、教科書の内容も頭に入ってこない。早く終わらせなければ、また寝不足になってしまうのに。

 砂糖の煮詰まる甘い香り、少し火が強いのではないか、顔が火照る。くすぐったいほど耳に残るたった一言が、意識を支配していく。

「……だから寝ろと言っただろう」

 いつの間にか、ノートに突っ伏した格好でため息が寝息に変わっていた。もう少し深く眠るのを待って、部屋に運んでやらねば。

 少し髪が伸びたか。相変わらず男物の服を着て化粧気もなく、幼子のように海の魔物に怯えているが、愛しくてたまらない。

 今夜のジャムは、いつもより甘く仕上がった気がした。


     *   *   *


 まだ日も昇りきらないうちに、シルヴァは飛び起きた。やわらかいベッド、机にはきちんとそろえられた教科書とノート、もちろん宿題はほとんど終わっていない。

 よく眠れたおかげで頭の中はすっきりしている。これなら問題もすぐに解けるはずだ。一つ深呼吸して気持ちを落ち着かせ、いつになく真剣な表情で机に向かった。

「……忙しそうだな」

「うわあ! か、カイン様、お……おはよう……」

「ん、おはよう。朝食を持ってきたんだが、食う時間はあるかね」

 くすくすと笑いながら茶を淹れる。急いでいるとわかっていながら、わざとだ。女性の部屋に無断で入り込むのもどうかと思う。

 しかし、そんなことに文句を言う時間さえ惜しい。

 机のすみに置かれた茶碗から優雅に立ち込める湯気が憎かった。

 カインは壁にもたれて茶をすすりながら、シルヴァの手元を覗き込む。間違えたらきちんと指摘してくれるのだろうか。シルヴァは気にしないようにしてペンを走らせた。

「……きれいな字を書くね」

「そ、そうかな?」

「ん。もう読むのも不自由ないか?」

「うん。これくらいなら」

 きっと、頭がいいのだろう。耳で覚えたウェーザー語はなめらかに話し、見よう見まねできちんと作動する魔法陣を描き、他にも多くの特技を持つ。カインは感心し、邪魔をしないように食器を片付け階下に降りた。

 ほどなくして、晴れやかな顔でシルヴァも降りてくる。出かける支度をしていると、アレシアが弁当を届けにきた。

「おはようございます、アレシアさん。お弁当、いつもありがとうございます」

「どういたしまして。シルヴァさん、きれいに全部食べてくれるから、作り甲斐があるわ」

 かわいらしい飾りのついたかごにパンとチーズ、サラダや魚の塩漬けをきれいに盛り付け、レースの布巾がかけてある。昼休みが待ち遠しい。

「あと、これ。セリオがみんなと食べてって」

 なんと気前のいい、でき上ったばかりのバラのジャムを一瓶持たせてくれた。

「わあ、ありがとうございます!」

 入手困難な人気商品、友達の喜ぶ顔が目に浮かぶ。

 弾む足取りで出かけるシルヴァを見て、カインはほっと胸を撫でおろした。昨日の落ち込みようを案じていたが、もう大丈夫そうだ。どうせなら、楽しく通ってほしい。

 照りつける太陽が石畳をきらきらと輝かせる。よい一日になるように祈った。


     *   *   *


 街のはずれに建てられたバラのジャム工場が稼働しはじめると、トマの人々は活気を取り戻した。

 女たちは家事の合間に数時間働き、男たちは朝か夕方に出荷の作業を手伝う。昼間から路地裏で酒を飲んでいた浮浪者たちには、強制的に材料のバラを摘みにいかせた。

 はじめは嫌がっていた強制労働者たちも、安定して食費と酒代と少しの小遣いが手に入ることがわかると、まじめに働くようになった。

 街中が協力して、新しい産業を盛り上げる。

 ようやく手が離れたトマ家の人々は、家を片付け、平穏な日常を取り戻した。

「そろそろ、約束していた街の補修にとりかかろうかね。資材は調達できたかい?」

「や、カイン様、もう大工を雇えるだけの予算を取れましたから。どうぞゆっくりお過ごしください」

 これ以上世話になるのは申し訳ないとセリオは断るが、一人だけ暇を持て余すのも気が引ける。何より恋人に怠け者だと思われたくなかった。

「橋の欄干や広場の石畳は早く直さないと危ないだろう。先にやってやるよ」

「そ、そうですか? では、急いで大工を集めます」

 言い出したら聞かないのはよく知っている。セリオは資材置き場に案内し、あとは任せて大工と職人の手配に走った。

 花壇の花はたっぷりと水を与えられ、伸びきっていた街路樹の枝はすっきりと剪定され、夏のはじめの頃に比べるとずいぶん街の景観は改善されていた。行き交う人々は忙しそうにしながらも笑顔にあふれ、幸福そうに見える。

 カインはまず橋のたもとに資材を運び、悪い場所を確認した。欄干だけでなく、橋脚や床版もずいぶん痛んでいる。

 額を伝う汗をぬぐいながら黙々と作業していると、一人二人と大工たちが加わってきた。さすが本職は手つきが違う。

 新しい木材の匂い、しっかりと補強され馬車が通ってもびくともしない。これでみな安心して渡ることができる。

「俺はこのまま広場の方も見にいくが、おまえたちは疲れただろう、休むといい」

 そういうわけにもいかないと、大工たちは昼食をとってすぐにカインを追いかけた。

 木材と違って石畳をきれいに敷くのはなかなか難しく、またトマの特徴である図柄を再現するには美的な感覚も要求される。カインは足元を睨みつけて頭を悩ませていた。

「はは、どうぞここは我々にお任せください」

「ん、すまんね」

 職人たちは張り切って技を披露する。せめて足手まといになるまいと必要な道具を彼らのそばに運び、不要になった古い石畳を手押し車に積み込んだ。

「カイン様、みんな、お疲れさま!」

 授業を終えたシルヴァが、友達を引き連れて様子を見にきた。

「何か手伝えることあるかな?」

「ん、そうだね」

 カインは懐を探り、財布を預けて人数分の飲み物を買ってくるように言う。

「その必要はありません!」

 誰かと思って振り仰ぐと、通りに停めた荷馬車からルーベン・ロジャが手を振っていた。積み荷を降ろし、木箱から次々と瓶を取り出して子供たちに手渡す。

「さあ、これをおじさん達に配って。手伝ってくれた良い子にはお菓子をあげるよ」

 いつものことながら調子のいい。シルヴァは驚き、カインはやれやれと肩をすくめた。

「いやあ、カイン様のおかげで、俺、ついに独立したんだよ。今日はそのお礼に、差し入れを届けにきたんだ」

「わあ、おめでとう、ルーベン!」

「ありがとう。これも、シルヴァと出会えたからだよね。本当に俺、ついてるよ」

 まさか行商人の使い走りから、こんなに早く自分の屋号を掲げるまでになるとは。トマ家とつながりを持ち、黄金の王の信頼を得た。なんという幸運。

「バラのジャムをたくさん卸してもらったよ。全国に広めてくるね」

 差し入れを配り終え、いよいよルーベンは旅立つ。見えなくなるま手を振り、シルヴァは旅の無事を祈った。

 一休みし、大工たちは仕事に戻る。

「ね、カイン様、私たちは何をしたらいい?」

「そうだね……」

 正直なところ、カインでさえできることはほとんどない。ぐるりと周囲を見回し、ふと一点で目を止めた。シルヴァも気付く。

 建物の陰から、不良少年たちがじっとこちらを見ていた。

 年長の少年たちは労働力として強制連行されたため、残るのは幼い子たちばかりだ。

「あは、こっちにおいで。甘いお菓子があるよ」

 しかし彼らは物怖じして目をそらす。大人たちとシルヴァの友達の視線が冷たい。

 シルヴァは少し声を低くして言い直した。

「ね、いい仕事があるんだ。引き受けてくれたら、お菓子を二個ずつあげる」

 少年たちは顔を見合わせる。いつも空腹で、菓子など食べたことがない。ごくりと唾を呑み込み、勇気を出してシルヴァの方へやってきた。

「……何をすればいいの」

「んー、そうだね……あ、おじさん、ちょっと座って」

 シルヴァはそばにいた職人を座らせる。背後に立ち、ゆっくりと肩や腕をもみほぐした。

「こら、年寄り扱いするんじゃない」

「あは、ごめんね。はい、じゃあ、やってみて」

 緊張した顔で少年は職人の肩に触れる。職人もまた緊張して身体を固くしたので、シルヴァは少年の手に自分の手を重ねて優しく撫でた。少年も職人も、表情がやわらぐ。

 他の子たちもためらいがちに声をかけると、大工も職人も手を止めてやや照れながら背中を向けた。

 シルヴァの友達も、負けてはいられないと走り回った。

 暖かい日差しの中、大人も子供も一丸となって自分たちの街を蘇らせていく。知らない者同士も協力し、いつしか仲良く会話し、笑顔になった。

「さすが、黄金の王の運命の乙女」

「明るく元気で、誰にでもお優しい」

「おそばにいるだけで幸せな気分になる」

 どこからか聞こえてくる声に、カインはシルヴァが妬かなかった理由がようやくわかった。人々に愛される恋人を、誇りに思う。

「おや、なんだか賑やかですね」

 会議を終えたセリオと評議員たちが見回りにやってきた。

 広い敷地の石畳を全て入れ替えるには、かなり時間がかかりそうだ。他にも柵や長椅子もずいぶん古くなっている。噴水は水を抜いて一度掃除した方がいいかもしれない。

「いやあ、こんなに駄目になっていたんですな」

「まったく、毎日見ていると気付かないもので」

 年寄り連中はしみじみとつぶやき、今まで放置していたことを詫びた。

「あの……」

 幼い少年たちが、おずおずと評議員の上着の裾を掴む。

「あの、僕たち、学校に行ってなくて、文字の読み書きも、計算もできないんですけど……何か、仕事をもらえませんか」

 薄汚れた顔、手も足も棒のように痩せているが、瞳にはきらきらと希望が満ちている。評議員は困ったように眉をひそめ、議長が言いにくそうに答えた。

「ウェーザーでは、十二歳以下の子供の就労は認められていないんだよ」

「そんな……」

 働けば対価がもらえると知ったばかりなのに。がっくりと肩を落とす。

 弱者を守らぬ法など。

「……ああ、誰か、うちの庭の花壇に水やりしてくれる優しい子はいないかね。もちろんお礼に、菓子や小遣いをあげるよ」

「うちは小さい子が二人いてね。日中に遊んでくれる子がいたら、かみさんが工場に働きに出られるんだが」

「そういや、漁師たちが網がすぐ破れて使えなくなるって言ってたな。手先は器用かい? 修理をしてやったら喜ぶんじゃないか」

 子供たちが近所のひとを手伝うことも、知り合いの子に小遣いを与えることも、咎める者はいない。彼らの優しい心が、街をさらに輝かせることだろう。

「手伝いもいいが、君たちには大切な仕事がある。それは、学校に行って、きちんと勉強することだ。後日、改めて手続きをしよう」

 議長は少年たちの名前と住所を聞き、手帳に記しておいた。

「本当に、父さんが帰ってくるまでに全て解決してしまった……」

「ああ、よくがんばったね」

「え、そんな、僕は何も!」

 あわてて首を振るセリオの頭をくしゃくしゃと撫で、おまえの手柄だよとカインは笑った。

 明日も朝から会議や巡察で忙しい。帰って休もうとするセリオを、大工の一人が呼び止めた。

「ああ、すまん。ブラスさんに相談したいことがあるんだが、次はいつ戻られる?」

「どうでしょう。気まぐれなんで。海軍基地の方にはいませんでしたか?」

「それが、誰もいなくて」

「え?」

 訓練を兼ねた航海だから、長くても五日ほどで基地に戻り、食糧や燃料を補給して乗組員を交代する。もちろん基地には見張りや通信兵などが大勢常駐しているはずだ。

「何かあったんでしょうか」

 前にブラスが帰宅したのは、カイン達がトマに来た翌日、ひと月ほど前のことだ。たいていは基地か行きつけの酒場で休日を過ごすため、屋敷に戻らなくても気にも留めていなかったが。

「それで、相談とは? 父が戻ったら伝えておきますよ」

「あ、ああ。その、俺の弟がある日、漁に出てから様子がおかしいんだ。化け物がどうとか言い出して……」

 うっかり話を聞いてしまったシルヴァの顔がひきつる。隠れるようにしてシャツの背にしがみつかれ、カインはやれやれとため息をついた。

「し、心配だね」

「夜の海が怖いんだろう? 調べに行くのは明日にしよう」

 もっとも、海軍でさえ解決できない事案をどうにかできるとも思えないが。

 沈む夕日に波が赤く染まり、不穏な風が吹き抜ける。

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