猫の手でも借りたい

針生省

猫の手でも借りたい

 吾輩は猫である、名前はまだ無い。と名文学の一説を呟いたところ、ご主人様に思い切りアスファルトの上に叩きつけられた事があった。半年ほど前の出来事である。

 あまりの痛さに困惑しながら、とりあえずご機嫌取りに「にゃーん」と鳴くと、ご主人様はたいそう嫌な顔をされて、「うるさい!」と私を一喝された。


 というわけで、私は猫である。名前は本当にまだ無い。元々は別の家で飼われており、どうにもならぬ事情でもって今のご主人様に引き取られたわけだが、どうもご主人様は猫が好きでは無い。そもそも動物自体が好きでは無いようで、だから私に名前なんて付けないし、特段可愛がってくれたりもしない。仕方なく飼っているのだ。私の事はそのまま「猫」と呼んでいる。


 そういえば前に飼われていた家では私にもちゃんとした名前があったように思うが、どうも記憶が混乱していて思い出せないでいる。前の家に居た時の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。


 私は猫であるが、このようにご主人様やほかの人間達と同じように、物を考えたり感じたりする事ができる。てっきり他の猫も、同じように物を考えながら生きているのだろうと思っていたが、私の経験則から言えば、こんな事ができる猫は私だけだ。

 街ですれ違った猫に、「やあ、良い天気だね、気分はどう?」等とよく話しかけてみるのだが、猫たちは「にゃーん」としか言わない。何がにゃーんなのだろう、意味が解らない。何を考えているかわからないから、猫は気持ちが悪い。いや、ただ考えるだけの知能が無いだけか。所詮は下等生物の猫だ。


 よく人間は言う、猫は自由気ままに居る事が出来て羨ましいと。だが私から言わせていただければ、そんな事はちっともない。四足歩行で歩きにくいし、結局は人間に依存しないと生きていけない。人間の方がよっぽど自由で気楽だ。

 だが、数多の猫はそんな事は思っていないだろう。それが猫にとっては普通であり、幸せなのである。人間のように考えられる私がおかしいだけなのだ。猫と人間の良い所は何一つ享受できず、悪い所ばかり兼ね揃えてしまっている私がはみ出し者で、不幸者なだけなのである。


 だから願わくば、私はもっと人間に近づきたい。なまじ知性を持ってしまった以上、今から純粋な猫には戻れないだろう。ならば、より人間らしくなるしかないのではないか。そんな事を最近はよく考えている。

 ご主人様は、世間一般で言うところの物書きである。毎日家の中に居て、パソコンのキーボードをカタカタ言わせながら、何やらうんうん唸っている。そんな姿をずっと見ていると無性に、私も何か文章を書きたい物語なんぞ作ったみたいなどと思うのだ。




  その日は、ご主人様が出版社の編集担当と打ち合わせだとかで、家を空ける日だった。ご主人様が家を出たタイミングを見計らって私は本棚の所へと向かった。びっしりと詰め込まれた本の中から一冊を選び、取り出してみる。前足と口しか使えない私にとってはそれだけでも重労働であった。

 しばらく文章を眺めながら、これなら自分でも書けるのではないだろうかと思った。頭の中に何となく書きたい文章を思い浮かべてみる。うむ、何とかなりそうだ。

 思い立ったが吉日、すぐに書き始める事にしよう。目標は直木賞だ。


 だが、すぐに問題にぶち当たった。私は猫である。当然文章をかけるような手は持ち合わせていない。等間隔に肉球が五個ずつ並んだこの手では、パソコンのキーボードを叩く事もできないし、ペンを握って原稿用紙に直接書く事もできない。

 これは困ったと天井を見上げた。茶色の天上の板と、そこに向かって伸びる高層ビルのような本棚は、私の心象を表すかのように圧迫感に満ちていた。こればっかりはどうしようもない。にゃーんという気分だった。


 三十分ほど途方に暮れていたが、急に脳内に電気が流れるような衝撃が走り、私はそうだ!と跳ね起きた。妙案を思い付いた。この方法なら、猫の私でも文章を書く事でできる。さっそく私は、空いていた障子戸の隙間から、家の外に出た。


 頭の中で作戦を練りながら、街をぶらぶらと歩く。確かご主人様と仲の良かった小出さん家の塀を乗り越えると、その向こうに公園が見えた。

 時刻は午後一時。昼休みなのだろうか、弁当包みを持ったOLが一人でベンチに座っていた。外でお昼とは実に結構な事だが、一人で公園なんぞに居て、一緒に食べる同僚は居らぬのだろうか。


 OLの横にちょこんと腰を下ろしてみた。ウインナーを口に運んでいたOLがきょとんとしてこちらを見ている。とりあえずはゴマを摺るべきだと思い、「にゃーん」と鳴いてみた。


 「猫さんも食べたいの?」


 そう甘い声で聞いてくるOL。人間は猫に話しかけるとき、何故か甘い声を作ってくるが、できればそれもやめてもらいたい。正直言って気色が悪い。何故猫に話しかけるときにわざわざ甘い声になるのか。猫を下に見ているのだろうか。人間からすれば可愛らしく見えるのかもしれないが、その辺に居る猫なんて、人間年齢でいえば四十歳以上はくだらない。貴様らは四十歳のおじさんとおばさんに甘い声で話すのだろうか。是非話して欲しい、そして怒られろ。その話したおじさんがたまたまヤバいおじさんで、持っていた傘の先端で両目を突かれろ。そしていっその事、目の前にいるのが猫なのかおじさんなのか判断する為の視覚を失ってしまえ。

 そもそもその辺の猫に甘い声で話しかけようが、低い声で話しかけようが、怒り気味に話しかけようが、貴様の言葉は何一つ伝わりゃしない。何故ならば、それは猫だからだ。

 それから貴様が自分で作ったと思われる足が二十本も三十本もあるタコさんウインナーは要らない。


 「食べる?はい、アーン」


 OLがそう言って、フォークに刺したムカデさんウインナーをこちらに差し出してきた。さて、そろそろ本題に移ろう。


 「腕を頂けないだろうか」


 「え?」


 OLが固まる。目の前の猫が突然人間の言葉を喋って、それも何か酷く猟奇的な事を言っているのだから仕方あるまい。


 「腕が欲しいのだ、小説を書けるくらい立派な腕が」


 そうなんだ、と呟くOLは明らかに引いている。今にも卒倒しそうだ。


 「頂けないだろうか」


 辛抱強くそう繰り返すと、OLは自分の腕と私を交互に見て、


 「う、腕?どうやって渡せばいいのかな?なんてね……ヘヘッ」


 と、笑った。動揺を笑いで隠そうとしているのだろうか。

 こう書くと読者諸君はもしかしたらこのOLを、可愛いと思うのかもしれない。だが実際はそんなことはない。何せブスだ。とんでもないブスだ。その顔で甘い声なんて出してるんじゃねえ!と言いたい。顔を赤らめるな!正直吐き気がしてくる。久しぶりに毛玉以外の物を吐きたい気分だった。こうなったら、さっさと目的を果たしてこの場を去るに限る。


 「こうするのだよ」


 そう告げて、私はOLの右手をちぎり取った。案外簡単に取れた。


 ギィィィィィィィィィィィィィィィヤアアアアァァァァァァァァァッッッ!!!!!!!!!!!


 尋常じゃない叫び声と血を公園中にまき散らすOLを尻目に、私は家に戻る事にした。頂いた右手を自分の右肩に装着しながら。




 「ただいま帰りました」


 玄関で私がそう声を上げると、奥からご主人様がやってきて、「一体どこに行っていたんだ」と言い終わる前に、「リカちゃんキャッスル!」と悲鳴を上げてその場で卒倒しなさった。飼い猫が突然右腕を人間のそれにアップグレードさせて現れたのだから仕方あるまい。驚かせて申し訳ありませんと小声で呟いて、私はご主人様を居間まで引っ張って行った。新しい右手の効果は抜群で、楽にご主人様を引っ張る事ができた。


 それでは小説を書き始めよう。私はご主人様の机の中から原稿用紙とペンを取り出してきて、それを床に並べた。

 快調に筆は進む。ご主人様は筆が遅い方なので、私の方が物書きに向いているのではないかとすら思えた。時間を忘れて私は執筆活動に没頭した。


 執筆開始からはや五時間。筆は変わらず快調であったが、私はここで右腕に妙な違和感を覚えた。接続部の肩の辺りがひどく痛い。流石に自分以外の身体をここまで酷使すると、ガタが来るか。

 これ以上この右腕で書くのは無理だなと思った。しかしもう片方の腕、つまり左腕はただの猫の腕である。こんな腕で小説を書く事など勿論出来ない。だが続きをはやく書きたい。


 ふと後ろを振り返った。ご主人様はまだ目を覚まさない。そういえばご主人様は左利きだったな等と思い出す。左利き……そうか、左利きか……

 私はおもむろにご主人様に近づくと、なるべく痛くしない方向で左腕を失敬した。代わりと言ってはなんだが、私の猫の左腕をちぎってご主人様の肩に取り付けておいた。おまけとして要らなくなった猫の右腕も取り付けておいた。これで再び小説を書く事ができる。

 筆は更に快調に進んだ。それから三時間経って、ついに私の処女作は完成する事となった。


 後ろを眺めるとご主人様がまだすやすやと寝息を立てている。その両腕は猫の物だ。そのままそうやって過ごせばいい。仕事が多忙なストレスを私にぶつけ、カリカリしながら生活するのなら、もういっそ猫として過ごせばいい。それがお前たち人間の言う、気楽な生活なのだろう?


 今やご主人様というより私の飼い猫と化したその哀れな男をぼうっと眺めていると、ほんの一瞬、脳内に何かのイメージが浮かんだような気がした。それが遠い昔の記憶なのか、空想の産物なのかはわからないが、一人の少女が私に向かって微笑みかけていた。

 その少女が誰なのか、私とどのような関係だったのか、いくら思い返そうとしても、具体的な事はやっぱり何も思い出せない。だが私は只々漠然と思った。物を考えたり言葉を発したりできる、まるで人間のような猫であるこの私も、このようにして産まれたのかもしれない、と。




 そうだ、あの場面はもっと別の台詞の方がいいのではないだろうか。


 そう思い立った私はすぐに小説の修正作業に入った。途中、後ろの方で目を覚ました哀れな猫が「なんだこれは!」と発狂の声を上げていた。作業を邪魔されて苛ついた私は、その猫を片手で鷲掴みにすると、家の外へと持ち出して、「うるさい!」とアスファルトの上に叩きつけた。

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