謀略

第三十七話 謀略(一)

 アウロラはまだ城に戻らない。

 ウェスペルはアウロラの部屋に一人残され、手持ち無沙汰にじりじりする想いと募る不安で吐きそうな気分だった。この部屋に帰ってからそう経っていないはずだが、時計も無い中で孤独に待つ時間は途方もなく長く感じた。

 山の中で目にした光景は、いくら現実だと言い聞かせてもまだ信じられない。




 まろび転げるように山道を走り降りると、ウェスペルは民家で待っていた御者に見たばかりの異常事態を説明し、すぐさま帰ると訴えて馬車に乗り込んだ。シードゥスの「落ち着け、待て」という制止はウェスペルのまくし立てる声にかき消された。現場を目にしていない御者は事態が飲み込めず戸惑ったが、目の前で自分の主人と同じ顔があまりの剣幕で頼み、その驚愕と動揺は自分の知る王女がこれまで見せたこともない激しさだったので、きより数割増しの速さで馬に鞭を当てた。

 蹄の音を聞きつけて、城の門前まで大臣が二人を迎えに出てきていた。ウェスペルは老人の姿を見つけるや馬が止まりきる前に馬車から飛び降りると、御者にしたのと同じ説明を大臣に繰り返した。

「なんですと……それは、どんな記録にも言い伝えにも知りませぬ……! 急ぎやしろと観測池の両方に調査要員をらねば」

 大臣の顔が出会って以来、初めて歪み、厚い眉の下の瞳に苦渋が浮かぶ――国にとって前代未聞の異常事態が起こっている――大臣の表情を見るだけで、それは疑いなかった。

「殿下が、いやアウロラ様がお帰りになるまでに、どんな御指示でも遂行できるよう準備せねば。ウェスペル様はアウロラ様のお部屋でお待ち頂けますかな」

「私に何か出来ることは無いのでしょうか?」

 こんな難事にお荷物はまっぴらだとウェスペルは叫んだが、大臣は深く嘆息しながら首を振った。

「ウェスペル様、どうか御理解いただきたい。これは国始まって以来の未曾有みぞうの事態です。わたくしは先代、先先代の御治世からお仕えしておりますが……一体何が起こっているのか、今はまずそこからなのです」

 その声には万事に精通し職を全うする矜持ある者の、己の力不足に対する責め苦が滲み出ていた。

 ウェスペルには、口に出して良い言葉が見つからなかった。

「僕がウェスペルと一緒にいます」

「何をのたまうか、俊足を伝達に使うのが従者のつとめですぞ」

 シードゥスの声が努めて平静を装っているのは明らかだった。だが彼の申し出も大臣の鶴の一声で一蹴され、普段は飄々としている青年の顔は崩れて動揺があらわになる。

「いや、だって一人にしておくの……」

御託ごたくは良いから諸部署へ走って見たものを伝えなさい」

 まだ「待て、それより」と留まろうとするシードゥスだったが、大臣に背中を押され、二人はアウロラの部屋とは逆の方向へ行ってしまった。シードゥスの抗議の言葉とそれをいさめる大臣の言い合う声が廊下の向こうへ遠のいていくのを、ウェスペルは茫然と見送るしかできなかった。


 


 ——こんな時に一人でここに戻るなんて。

 できることと言えば、アウロラの姿が見えないか窓の外を眺めるくらいである。ソナーレが体の汚れを落とすためのお湯と手拭いを持って来てくれたが、女官たちへの指示出しや人手不足になった厨房の手伝いやらに行かねばならないから、とすぐに退出してしまった。

 ウェスペルは、「とりあえずですけれど、まずはお休みを」とソナーレが置いていってくれた焼き菓子をひと口囓かじり、ぬるくなった茶で喉の奥へ押し流す。

「シードゥス……」

 菓子を飲み込んだら、我知らず口からその名がこぼれた。

 いまごろ城中を駆け回っているのだろうか。こんな事態だからこそ、誰もいない部屋に一人で待つのは苦痛極まりない。名前の分からない塊が喉元まで突き上げてきて呼吸が辛い。叫んでしまえば楽かもしれないが、何を言ったらいいのか、不安は声にすらならず、苦しい。

 ――アウロラがいないなら、シードゥスと一緒にいられたら良かったのに。

 何もしなくていい。ただ隣にいてくれたら、どんなに楽だったろうか。

 出会ってから一緒に過ごしたのはごく短い時間だ。それでも、一見淡白な彼の言葉や行動の端々に優しさがあった。城へ初めて来たとき、知らない世界に来て愕然としていた自分が笑うまで、気にかけて話してくれていた様子。そのあと物置へ入った時のことには驚いたけれど、思えば彼のおかげで城に入れた。それに食事の時間や休憩の時の気遣い。アウロラと自分をそれぞれ別の一人の人間として見てくれたこと。今日、山道でかけてくれた言葉。

 本人は何も思っていないかもしれない。それでもふとした言葉や振る舞いから感じた温かさ。それに気づくと体がぽっと熱を持って、どきどきと胸を打つのと一緒に、いつしか手を繋がれているような安心が全身をゆっくりと満たしていった。

 だからだろうか。先ほど彼が大臣に言いかけた言葉がウェスペルの心臓をとくんと鳴らしたのは。アウロラを待つなら彼と一緒にいたい。自分にその願いがあったのだと、初めてはっきり気がついた。

 彼の言葉に、恐れに侵食されてしまいそうな体がほんの一瞬ではあっても中からじんわり温まり、震えを止めてくれた気がした。

 しかし同時に思い出すのは、ひどく焦った姿。シードゥスらしくない。相手の言葉も待たずにひたすら主張し踏みとどまろうとした彼。嬉しい反面、引っかかった。いつもこちらを動揺させるのは向こうなのに、あの時の彼があんなに取り乱したのはなぜなのだろう。

「アウロラ、まだかな」

 窓の向こうにはもう夕闇が迫っている。間もなく日が落ちるだろう。天が青紫色になり、夜の帳が降りる。紅から濃紺へだんだんと色を変える空が窓の枠にはまり、額縁に入った絵のようだ。

 外の世界はこんなにも美しいのに、城の中では秩序の揺らぎが人々を襲っている。在ると思っていた均衡は細い糸の上に危うく保たれたもので、それが今にも崩れてしまいそうだ。




「ウェスペル」

 突然後ろから名前を呼ばれ、ウェスペルは仰天して振り返った。

「うわ、私、ぼうっとして?」

 いつ入ったのか、シードゥスが扉の前に立っている。

「どしたの、お仕事ひと段落したの? 何か進展あった? 大臣さんなんて? あ、お菓子あるけど、お腹空いてる?」

 驚きつつも安堵と喜びが抑えられず、走り寄ってつい早口になる。

 しかし、返事がない。それに気づいて改めて見ると、シードゥスの様子がおかしい。顔は強張り、濃紺の瞳にはいつもの優しさが全くなかった。あるのは鋼のような鋭さと、凍てつく氷のような厳しさ、そして重く深く、身を刺す痛みに苦しむような。

「どうしたの? どこか、怪我でも……」

「ウェスペル、ここから早く出るんだ」

 ウェスペルの問いを遮り、シードゥスはやっと聞き取れるほどの声で言う。

「何言って……」

 その時だ。シードゥスの目が強い光を宿して扉の方へ向けられ、同時にウェスペルの手首が強く握られる。視線を追えば廊下に影、そこから瞬きの間もなかった。三人の男達が部屋の中へ踏み込むや、二人を三方から囲んだのだ。

「シレア国第二子、第一王女アウロラ姫とお見受けする」

 中の一人が低く、慇懃に口を開く。

「我が主君、テハイザ王の御名みなと栄光のために、御同行願おう」

 テハイザ——その名前なら聞いた。初めて部屋で話した時、アウロラから。

 全身に痺れるような衝撃が走り、体がその場に固まる。その刹那、シードゥスと繋いだ手の間にもう一人の男が割って入った。屈強な腕がウェスペルの体から自由を奪う。シードゥスの手の温もりが指からすり抜けた。

「……シードゥスっ!」

 指の先すら、もう届かない。

「お静かに願おうか姫。我々としても荒事あらごとは好まない」

「待て、その子は違うっ……」

 叫ぶ間にもう一人の男がシードゥスの後ろで刃物を光らせる。

「シードゥス、あぶな……」

 ところが、言い終える前にウェスペルの呼吸が止まった。その鋭利な切っ先が、シードゥスではなく自分に向けられたのだ。

 硬直したウェスペルを勝ち誇って見下ろし、頭領格の大柄な男が悠然と言い放つ。

「鐘楼の時計の停止か。それでここまで城の警備要員が減らされているとは。しらせの頃合いまで万全だな、さすがだよシードゥス。お前ほどの間諜はいないだろうさ」

 ――……間諜……?

 聴覚から他の全ての音が奪われたような衝撃が走り、頭が真っ白になる。

 その一瞬の油断がまずかった。傍から口に布を当てられ、否応なく気管に入り込む得体の知れない香に意識が薄れていく。遠くでシードゥスの呼ぶ声がかすかに聞こえるが、思考の糸が切れぎれになり、はっきり音をつかまえられない。

 次第に霞んでいく視界の中で、ウェスペルは一瞬、シードゥスと目が合った気がした――

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