第三十六話 激流(四)

 太陽が西の空へ傾き、日暮れが近いのを知らせる。そびえ立つ東塔の石造りの壁は、斜めに射す光を浴びて真白に輝く。

 早く用事を済ませて帰らねば。ひと声かけて手綱を引き、アウロラは塔の前に馬を止まらせた。

 塔の内部に入る白の扉は、成人男性ならやや頭を下げないと入れない。幅の細い扉に彩飾はほとんどなく、唯一、鍵穴を縁取ふちどはがねの板に、草花の模様が葉脈と花弁の筋に至るまで細かく彫りこまれている。

 城から持ち出した鍵を挿し、息を詰めて右に回す。手に伝わる抵抗が予想より強い。さらに力を込めて押すと、がちゃり、と重い音を鳴らして錠が外れた。ふぅ、と息を吐き出し、アウロラはひやりとする取っ手を回して塔の中へ踏み込んだ。

 石壁に囲まれた筒状の空間は外に比べてキンと冷え、少々黴かび臭い空気が鼻をつく。見上げると高い位置に取り付けられた換気孔から陽が入り、空気中のちりの粒子をぼんやりと光の中に浮かび上がらせている。

 地階の中央部には、細い木を何本も合わせて作られた上階への階段が、丸く切り抜かれた天井を抜けて上へ伸びている。聖櫃が安置されているのは最上階だ。馬を走らせて疲れがないわけではなかったが、一息ついている時間ももったいない。

 アウロラは肩にかけた布袋から水を取り出し、一口含んで喉を潤すと、階上をひたとにらんで段を登り始めた。 




「突然走ると木の葉で滑るよ」

 ウェスペルが水の流れ出す岩肌を絶句して見つめていると、その横に追いつくなりシードゥスが注意した。しかし彼の勧告など、今のウェスペルにはただの音にしか聞こえていない。

「なに、これ。川が四本……どういうこと」

 大河に集まる小川があるというなら騒ぐことではない。しかし同じ場所に四本も密集して支流があり、それらが全て岩と土の重なる層の間から流れ出てすぐさま合流しているのだ。少なくとも見せてもらった地図上では、川は池に続くまでほぼ一本の線で書かれ、途中で切れるところも無かったはずだ。

「ああ、ウェスペルの国でもやっぱり珍しいのか」

 シードゥスもウェスペルの視線の先にあるものに気づき、驚きに納得したようだ。

「なかなかあるものじゃない。シューザリエの神秘だと思うよ。大体、あんな大河が狭い城下からそんなに行かないところで山に入ることが普通じゃない」

「まさか、アウロラが山の入り口って言っていたのは……」

 シードゥスは身振りで肯定する。

「ここから、川が山の地中に入る。文字通り。もう一度、水流が地上に出るところが池に続く。この国の人にとっちゃ、ずっと昔からあるんだから不思議でもなんでもなかったんだろ」

 当たり前と思うことをいちいち説明しないだろうからな、とシードゥスも四筋の流れを目で追った。

 その言葉が終わった時だ。

 一瞬、視界の中が闇に変わった。

 ほんのわずか、またたきよりも短い間だ。刹那ののち、空は先ほどと同じ秋の夕暮れ前の明るさに戻っていた。ウェスペルは自分が目をつむっただけかと疑った。しかし隣に立つシードゥスを見ると、彼の目も見開かれて固まっている。

「何、いまの」

 妙な不安を覚えて視線を河川に走らせる。上流から下流へ。銀の光を弾きながら山肌を下る美しい流れ。その四つの筋が集まった先を見て、二人は凍り付いた。

 河川が下流から上流へ向かって逆流しているのだ。

 水飛沫みずしぶきを上げ龍が迫り来るように、水が重力に逆らって山の傾斜に逆らい上って来ていた。それも四筋の水流全てが揃って向きを変えているのではない。二本は下流へ流れ、二本が下流から岩土の中に向かって逆流している。互い違いに流れを変えた四筋は一束ひとたばに集まる点で激しい対流を起こし、飛沫が宙高く飛び上がっている。

「……ありえない、なんだこれ……」

 その場に棒立ちになるシードゥスに構わず、ウェスペルは踵を返して林道へ駆け出した。

「おい、どこ行くんだ!」

「城に戻らないと! アウロラに早く伝えなくちゃ!」

「ちょっと待て! いま戻ったら……」

 背中に投げられたシードゥスの声はウェスペルの耳にまともに入って来なかった。下り坂の傾斜に拍車をかけられるように、速度を上げて落ち葉の積もった道を駆け下りる。

「くそっ……!」

 シードゥスは舌打ちし、やむなく少女の後ろ姿を追って自分も地面を蹴った。

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