第9話「堕落と失望」

「芳江、風呂の前にいいか」

 土曜日。仕事から帰宅した芳江に、山城が寝室を指しながら訊いた。

 左手には空になったビール瓶を持っており、頬を赤くしている。

「えっと……ちょっと疲れてるから、明日でいい?」

 

 ここ最近、芳江はずいぶんと仕事が忙しく、ばっちり化粧を決めた顔にも疲労が表れていた。百貨店で特別セールを開催している関係で、化粧品の売れ行きが普段よりぐんと伸びているのは好ましいことだが、そのぶん接客・販売の面はもちろん、在庫管理や発注など諸々の雑務における負担も大きくなる。芳江は今月からエリアマネージャーに昇格したため、その点でも業務量が増えていた。


「すぐ終わるさ。くわえなくていいし、れもしないから」

 山城の要所はすでにそれなりの大きさを呈していることが、ジャージの上からでもわかる。


「でも……。今日のうちに囲碁も打つでしょう?」

 

 この日は、彼らにとって五回目の結婚記念日だった。

 結婚記念日には毎年囲碁を打つというのが、結婚当初に二人で決めたルールだ。共働きなので普段は対局しようにも、時間が合わなかったり気力が残っていなかったりしてなかなかできず、それでも結婚記念日には毎年必ず対局すると決めたのだ。

 囲碁という珍しい趣味を通じて距離を縮めた二人にとって――少なくとも芳江にとっては――、たとえ仕事で疲れていても、あるいは山城に対して時折愛情の手抜きを感じようとも、原点に立ち戻る意味で大切なことだった。

 

 今日はすでに午後九時半。今から化粧を落とし、風呂と食事を済ませれば、早くても対局を始められるのは十一時半ごろだろう。その前に寝室に行けば、すぐに終わるといえども一時間は要する。


「まだやるのか? どうせ俺が勝つんだし、もういいだろう」

 山城がいかにもうんざりした様子で空のビール瓶に口をつけ、すでに中身がないことに気づいてひとつ舌打ちをする。

「そういうことじゃなくて。えっと……」

 山城の返答に、芳江は言葉を詰まらせた。

 

 山城の態度が日ごとに、緩やかに自分本位なものへと移行していることは芳江もわかっていたが、その度合いが自身の予想を大きく上回っていたことを知り、思わず悄然しょうぜんとしてうつむく。この男に、こんな男に雑に扱われるほどの価値しか自分にはないのだろうかと、自分自身がうらめしくなった。


「あぁわかったよ。じゃあ、終わったら打ってやるから。日付変わっちまうだろうけど、別にいいだろ。行くぞ」

 山城がビール瓶をごみ箱に放り、芳江の手を引っ張り寝室に移動した。


 抜き作業はここ最近の傾向どおり、山城が仰向けになり、芳江は下半身を下着一枚になって、山城の顔の上に背を向けて座るように誘導された。山城の両手が芳江の尻を掴み、尻の下で鼻息の荒さが増していく。

 最高潮に張り上がった要所を――そこに、時折唾液を垂らしながら――上下に揺さぶっていると、ふと芳江の目から涙がこぼれた。

 揺さぶりを止めて、このまま出て行ってやりたいと思った。睫毛を抜くように、一人で勝手に抜いていればいいと思った。


 盤上での手抜きは立派なものだが、盤外でのそれは堕落と失望しか生み出さない。

 

 右手を動かしながら、濡れた左目に触れる。アイシャドウの油が、指に不快な感触をもたらす。

 山城が勢いよく抜いたと同時に、芳江が音を立てずに左目の睫毛を抜いた。(完)

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手抜き サンダルウッド @sandalwood

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