第三話

 風呂に入っているあいだ、グラムはリビングに待たせておいた。リリィが心配だったがグラムの事だ、どうせ眺めてうっとりしているだけだろう。

 風呂のお湯は少し温かった。これでもリリィが一生懸命お湯を沸かしてくれたのだ。贅沢は言えない。

 その時ほど、ダベンポートが切実に蒸気機関スチームを欲しいと思った事はない。

 あの細い身体で大きなヤカンを持って往復したかと思うと心が痛む。

『あの、旦那様?』

 外からリリィの声がする。

「なんだいリリィ」

 お湯の中からダベンポートはリリィに答えた。

『お湯加減は如何ですか? もっとお湯を足しますか?』

 リリィは本当に細かいところまで気遣ってくれる。

「いや、ちょうどいい湯加減だよ、ありがとうリリィ」

 ダベンポートはリリィに答えると、石鹸で濁った浅いお湯の中に身体を沈めた。

『もっと熱くしたかったらいつでもおっしゃってください。お湯は沸いてます』

 リリィはドアの外からそう告げると、ぱたぱたと去っていった。

 家で入るのであればこれで十分だ。これでも水よりははるかに贅沢だと言えるだろう。

(思えばいつでもお湯が出るバルムンク邸は本当に快適だったな)

 温いお湯に浸かりながら、ダベンポートはバルムンク邸の蒸気機関スチームが沸かす熱い風呂とシャワーを思い出していた。

(一つ、クレール夫人に相談してみるか。彼女だったら風呂を沸かす機械くらい簡単に作れるだろう……)


 風呂から上がり、リリィが用意してくれた新しい服に着替えてリビングに上がる。

 グラムはリリィが淹れてくれたお茶を嬉しそうに飲んでいた。

「で? どうしたんだ今日は?」

 ダベンポートはまだ濡れている髪の毛をタオルでぬぐいながらグラムに訊ねた。

「あ、ああ」

 グラムが少し言いにくそうにする。

「ここじゃあ難だな。書斎に行ってもいいか?」

…………


「実はな、変な死体が上がったんだ。とは言っても殺ったのもうちの若い奴なんだがね」

 グラムはダベンポートに言った。

「へえ、それはすごいな」

 ダベンポートは鼻を鳴らした。

「戦争をしたことがない騎士団の団員が人を殺したなんて初めてじゃないか?」

「まあ、初めてではないが……」

 グラムが肩を竦める。

「もっとも、近衛兵の連中と一緒に斬ったそうだから、一人で頑張ったと言うよりはちょっと手伝ったと言う方が近いのかも知れんが」

「へえ、近衛兵ねえ」

 近衛兵は精鋭だ。主に王宮のあたりを警備している。赤い制服はよく目立つので、近衛兵を襲ったと言う話は滅多に聞かない。

「しかし近衛兵が居たって、一体どこだ?」

 ダベンポートはグラムに訊ねた。

「王宮の裏だ。なんでも、挙動不審な人物がいるから職務質問したらいきなり襲われたらしい。ほら、最近またセントラルの治安が悪いだろう? うちからもパトロール要員を出しているんだ」

 セントラルの治安の悪化はダベンポートも聞いていた。表通りは大丈夫だが、裏通りや港の方は結構危ないことがあるようだ。

「しかし、騎士に逆に襲いかかるって、そいつは正気か?」

「ま、マトモじゃないな」

 グラムは頷いた。

「先に衝突したのは近衛兵らしい。近衛兵と揉めるのも正気の沙汰とは思えないんだが、さらに反撃してきたっていうんだから凄いよな。うちのは騒ぎを聞いて駆けつけて、近衛兵と一緒にそいつを袋叩きにしたんだそうだ」

「袋叩きじゃなくて、滅多斬りの間違いだろ?」

 皮肉っぽくダベンポートが言う。

「まあ、どっちでもいい。だが、問題はそっちじゃないんだ」

 そう言うと、グラムは少し身を乗り出した。何を気にしてか、グラムの声が少し低くなる。

「その死んだ奴な、鱗が生えていたんだよ。それも全身にびっしり」

「鱗?」

 ダベンポートは思わず聞き返した。

「ああ。トカゲみたいな鱗だ。顔は普通だったらしいんだが、身体は鱗で覆われていて、斬るのには難儀したようだ」

「で、その死体はどこにある?」

 興味を引かれてダベンポートはグラムに訊ねた。

 それはぜひ見てみたい。カラドボルグ姉妹に調べてもらおう。

「明日、魔法院に届くはずだ」

 グラムはそう言うと、小さな椅子の背に身体を預けた。

「一応、セントラルの警察が見たがってね、今はセントラルの警察に置いてある。だが連中、どうやらもう匙を投げたようだぜ。さっきテレグラムが届いた。明日届けるとさ」


 その晩は例によってグラムとの会食になった。

「今日はグラム様もいらっしゃるのでステーキにしました。ステーキにはグリーンペッパーソースを添えています。お肉の焼き加減は旦那様はミディアムレア、グラム様はいつものようにウェルダンにしました」

 付け合わせはグレイビーのかかったマッシュポテトの山とブロッコリ、それに人参のグラッセとマッシュルーム。

「ほう、これはこれは」

 ダベンポートは嬉しそうに微笑んだ。

「だが、グラムにこんなご馳走はしなくてもいいんだよ、リリィ。こいつにはワインを飲ませておけば十分だ」


 今日もグラムはよく飲んだ。リリィが甲斐甲斐しくお酌をし、毎回律儀にグラムがグラスを空ける。いつもの晩餐の光景だ。

「そういえば聞いたか、ダベンポート」

 グラムはステーキを食べながらダベンポートに言った。

「聞いたって、何をさ?」

 ダベンポートもナイフとフォークを使ってステーキを切りながらグラムに答える。

「お前、ちょっと前にセントラルで変な爺さんを逮捕しただろう」

「スレイフ老人の事かい?」

 ダベンポートは言った。爺さんと言ったらスレイフ老人くらいしかいない。

「ああ、そんな名前だ。あの爺さんな、証拠不十分で釈放になったらしいぞ」

「なに!」

 ダベンポートが思わず立ち上がりかける。

 目を怒らせるダベンポートに構わず、グラムは分厚いステーキをワインで流し込んだ。

「やあリリィさん、このステーキは素晴らしいね」

「ありがとうございます、グラム様」

「グラム、どういう事だ?」

 ダベンポートはグラムに訊ねた。

「なんでもね、実況見分が行われたらしいんだが、そこでどうしても魔法が発動しなかったようなんだ。それで爺さんは魔法法廷から一般法廷に逆送されてしまったんだよ。あとは御察しの通りだ。一般法廷じゃあ魔法絡みの犯罪は裁けない。結局訳がわからんという事になって放免だ」

 しまった。

 思わずダベンポートが唇を噛む。

 スレイフ老人の家で魔法が使えないようにしたのはダベンポート自身だ。それが裏目に出るとは思わなかった。

「……それは、僕の失敗だ」

 ダベンポートは力なく座り直しながらグラムに言った。

「僕は細工をしてあの爺さんの家ではもう魔法が使えないようにしたんだ。それが裏目に出てしまった」

 悔しそうに呟く。

「お前が犯人を逃したのは初めてじゃないか?」

 グラムがマッシュドポテトをフォークですくいながら言う。

「ああ」

 ダベンポートは力なく頷いた。

「こんな事ならあそこで殺しておけばよかった」

「おいおい、物騒なこと言ってくれるなよ」

 グラムは大げさに肩を竦めると、ダベンポートを慰めるように言った。

「どちらにしてももう魔法が使えないんだったらただの老いぼれなんだろう?」

「まあ、そうなんだがね」

 確かに、そうだ。

 だが、スレイフがまた外にいる。

 それを考えるだけでダベンポートは急速に気分が滅入ってくるのを感じていた。

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