レイジーシンドローム

猫柳蝉丸

本編

 雨が降り頻る。

 決して強い雨じゃない。

 しとしとと降り頻る雨。

 雨が降る。世界に。地上に。そして、僕の心に。

 降り頻る小雨に包まれて、囚われて、びしょ濡れた僕は、動き出せなくなる。



     ○



 去年の六月の事だった。

 僕は五月雨に打たれながらとぼとぼと家路を歩いていた。

 五月雨に打たれるのは、傘を忘れてしまったからだ。普段は折り畳み傘を持ち歩いているのだが、その日に限って教室に置き忘れてしまった。それで纏わりつく様な小雨に振られ続けているというわけだ。

 折り畳み傘を忘れてしまったのは振られてしまったからだ。

 雨に、じゃない。好きだった、仲が良かった女の子に、だ。

 振られたと言っても告白したわけじゃない。告白しようとする立場にすらなれなかった。簡単に言えば好きだった子に彼氏が出来た事を知ってしまったって事だ。五回は街にも遊びに行っていた子だったのだが、僕は結局歯牙にも掛けられていなかったらしい。仲が良かったと思っていたのは僕だけだってわけだ。

 放課後、彼女の口から彼氏が出来たと聞いた時、平静を装ってはいたものの僕はやはり動揺してしまっていたらしい。彼女と話半分に教室から逃げ出す様に飛び出して、数分後に折り畳み傘を忘れたと気付いても教室に取りに帰る気分にはなれなかった。

 失恋と呼んでいいのかも分からない滑稽な傷心。

 滑稽ついでに雨に打たれて家に帰ろうとも思った。結局は勘違いの恋でしかなかったのだ。勘違いの恋を終わらせるにはドラマでよく見る様な勘違いした場面を気取ってみても悪くないに違いない。雨に打たれていれば、何かの拍子に涙を流してしまっても誰にも気付かれないだろうし。

 どうせ自宅までは遠くない。もし風邪を引いてしまってもそれはそれで構わない。明日学校に行くのだって億劫だ。何なら風邪を引いてしまった方が僕としても助かる。

 そうして雨に打たれながら、僕は彼女の言葉を思い出していた。

 陽太君のそういうところ好きだなあ、この出会いに感謝だね、頼りにしてるよ陽太君、陽太君って笑うとえくぼが出来るんだね、次の日曜日に映画観に行こうよ、今日は家まで送ってくれてありがとう陽太君、様々な言葉がまるで走馬灯みたいに甦っていた。

 何もかも僕の自意識過剰だってわけだ。本当にろくでもない。いっそ本当に泣いてしまおうか。そう思い掛けた時、聞き覚えのある声と共にあの人が僕に駆け寄って来てくれたのだ。

「どうしたの陽太君? びしょ濡れじゃないの。傘を忘れちゃったの?」

 みづはさんだった。僕より小柄だけれど、柔らかい黒髪を襟首で結んだ清楚な雰囲気の女の人。小さな頃から、それこそ幼稚園児の頃から密かに憧れていた人だ。普段は落ち着いた雰囲気のみづはさんに心配そうな表情を向けられた僕は、恥ずかしいやら照れ臭いやら視線を逸らして、そう言えばみづはさんの家はこの辺りだったな、なんて思いながら頷く事しか出来なかった。

「傘を忘れたのなら、わたしにでも連絡してくれてよかったのに」

 そんな事、思いも寄らなかった。連絡先こそ知ってはいるけど、そんな事で迷惑を掛けられなかった。何より失恋したばかりの顔なんて見せられなかった。そのくらいの最後の自尊心くらいは僕にもあった。

 だけど。

「とにかくうちまでいらっしゃい。このままだと陽太君風邪引いちゃうもの」

 思ったより強い力でみづはさんが僕の手を引いてくれた。子供の頃振りに触れたみづはさんの手は柔らかくて、小さくて、胸の鼓動が高まってしまうのを感じる。失恋したばかりだと言うのに本当に調子がいい僕だ。

どうするべきなのか少し迷ったけれど、ここで断ってしまうのも不自然な気がした。みづはさんの部屋が見られるというちょっとした下心もあった。

「すみません、叔母さん、それじゃ少しだけお邪魔出来ますか」

 僕が言うとみづはさんは軽く苦笑して、僕の頭を軽くとだけ小突いた。

「もう、陽太君ったら。叔母さんって呼ぶのはやめてって前から言ってるじゃないの」

 分かってるよ、みづはさん。心の中ではいつもみづはさんって呼んでる。それでも小さな頃からの憧れの人を名前でなんて呼べないじゃないか。直接口になんか出したら意識しちゃうじゃないか。そんな恋人みたいな事出来るはずないじゃないか。

 だから、僕も苦笑して返すしかないんだ。

 ごめんなさい、叔母さんって。



     ○



 みづはさんは父さんの妹だ。確か先月に四十歳になったはずだった。独身を貫いているせいなのか、その外見はまだ二十代後半と言っても通るくらい瑞々しい。清楚で落ち着いた雰囲気には幼い頃から密かに憧れていた。もっとも、姉ちゃんから僕がみづはさんに憧れているのは家族の周知の事実だと教えられた事はあるけれど。

 みづはさんは僕の憧れの人だ。手が届かない事は分かっている。年齢以上に僕とみづはさんでは不釣り合い過ぎた。みづはさんは美しい人で、僕は勘違いの恋しか出来ていないくらいの冴えない高校生でしかなくて、釣り合いなんてどう見ても取れていなかった。仮に僕とみづはさんが街で歩いているのを第三者視点で見たとしたなら、僕自身だって何らかの異常事態を感じると思う。

 そう、異常事態なんだ、とベッドの中、裸で横たわるみづはさんを見て僕は思う。

 期待はあった。みづはさんの部屋の中、みづはさんの下着くらいは見られるかもしれないって下心はあった。お風呂場でシャワーを借りてみづはさんの裸体を想像して悶々とするくらいのつもりはあった。あくまでその程度の下心だったんだ。

 だからこそ、この急展開には僕自身本当に戸惑っていた。

 分からない。僕がみづはさんと二人、裸でベッドの中に居る理由が分からない。

「どうしたの陽太君? 緊張しちゃったかな?」

 妖艶に微笑むみづはさん。四十歳なのにその裸体には崩れたところが一つも無い。たまに裸でうろつく姉ちゃんと比較しても遜色無いくらいだ。いや、十代の姉ちゃんよりもずっと美しくて瑞々しくて、とても蠱惑的だった。

「僕、こんなの初めてで……。すみません……、緊張しちゃって……」

 緊張しているのは本当だった。それ以上に戸惑っていたし、現実味に乏しかった。

 こんな冴えない僕がみづはさんとどうして?

 お風呂場の中、シャワーを借りて泣いたのは覚えている。失恋したからじゃない。ひょんな事で緊張感が崩れてみづはさんの前で泣いてしまうのを避けるためだ。あらかじめ軽く泣いておけばそんなみっともない姿を無いはずだ。そう思って僕は軽く泣いたんだ。いや、軽く泣こうと思ったつもりだった。

 流れ出した涙は意外にも止められなかった。嗚咽も止められそうになかった。いや、それはやはり失恋したからじゃないのだ。こんな風にみづはさんみたいな素敵な人の部屋を訪れる事なんて、甥と叔母って関係でもなければ生涯無いんだろうなって強く自覚してしまったからだ。僕は決して外見や性格に優れた男じゃない。本当に冴えない、将来性も無い男なんだって事は、高校三年生ともなると否応無く自覚させられるものだ。

 何も掴めない、何も手に入れられない自分自身。それをこそ僕は悲しかったのだ。

 だから、驚いた。お風呂場の扉を開いて裸のみづはさんが姿を見せた時は。

 その胸の中に僕を抱き締めてくれた時は。

「いいのよ。悲しい事があったんでしょう? そんな時は思い切り泣いてもいいの」

 僕は泣いた。みづはさんの胸の中、シャワーに雨みたいに打たれながら大声で泣いた。

 突然の事に戸惑いながらも、すぐ傍にあった優しさに縋り付く事しか出来なかったから。

 そうして、僕はみづはさんとベッドの中に居る。

 下半身は熱く燃え滾っている。今にでも暴発してしまいそうだ。

 けれど心の何処かでは戸惑いと躊躇いを隠し切れない。本当にみづはさんと関係を持ってしまっていいんだろうか? 甘えてしまってもいいんだろうか? ずっと大好きだった憧れの人にキスをして、セックスしてしまってもいいんだろうか?

 慣れているのかな、と邪推してしまう自分が嫌だった。みづはさんは優しい人だから誰にでもこうしているのかもしれないって思ってしまう。だけどそれ以外にみづはさんが僕なんかを慰めようとしてくれている理由が分からない。特に僕とみづはさんは結婚出来ないくらいには近い血縁関係だと言うのに。

 頭の中で多くの思考が駆け巡る。それでも妙に冷静なもう一人の僕が頭の中で囁いた。

 どうせこんな素敵な人とセックスする機会なんて一生無いに違いない。僕なんかを相手にしてくれる人なんて他に居ないに違いない。だったらどうでもいいじゃないか。叔母と甥だっていいじゃないか。優しくしてくれるつもりならそのまま優しくしてもらおう。この一度だけの関係を糧にして残りの人生を生きていこう。

「それじゃあ……行くよ、みづはさん」

「来て、陽太君。焦らずにゆっくり来てね。どんな風にでも受け止めてあげるから」

 僕は前戯もそこそこにみづはさんの中に侵入していく。

 この一度きりなんだろう関係を思い出にして生きていくために。

 みづはさんの優しさをずっと忘れないために。

 それでも、そこで僕の想像もしていなかった事が起こったのだった。

「えっ……?」

「ふふっ、ちょっと恥ずかしいわね……」

 目尻に涙を浮かべたみづはさんが恥ずかしそうに頬を染める。

 まさかそんな事はないだろうと思っていた。

 ベッドのシーツに軽く広がる赤い染みに僕自身も戸惑いを隠せない。

 処女だったのだ、みづはさんは。

 頭の中が真っ白になるのを感じながら、僕はすぐに限界を感じてみづはさんの身体も真っ白に染めた。



     ○



 みづはさんとの関係はそれから何度も続いた。

 歳の差こそあれ、僕とみづはさんはまるで素敵な恋人達みたいに振る舞えていたと思う。

 身体を重ねるのが五度を越えた頃には、みづはさんは仕事の愚痴を言ったり僕に甘えたりしてくれる様になっていた。それがまた僕には嬉しい事だった。憧れの人と対等な関係になれた気がして嬉しかった。

 みづはさんが処女だった事が関係しているのかもしれない。

 いや、処女にこだわる男ってわけじゃない。僕だけに優しくしてくれたって事が嬉しかったのだ。誰にでも優しいわけじゃなく、僕だからこそ優しくしてくれた。その事実だけでこれまでの人生の失敗が帳消しになるかの様に感じた。

「みづはさんは結婚したいと思える相手は居なかったの?」

 そんな失言みたいな僕の言葉にもみづはさんは微笑んでくれた。

「タイミングが悪くて、結婚出来なかったのよ。寄って来るのは変わった人ばかりだったし。でも、いいじゃない。これからは陽太君がわたしを大切にしてくれるんでしょう?」

「そうだね」

 そうして唇を重ねて、肌を重ねて、全身で愛し合う。

 そんな幸福な日常が続いた。

 受験生だから四六時中一緒に居られるわけじゃなかったけれど、それでも僕は幸福だった。みづはさんも幸福で居てくれたはずだ。叔母と甥と言う近い関係ではあったけれど、僕達は幸福だったはずだったんだ。

 大学受験を終えた頃、僕がみづはさんの部屋で一つのアルバムを見つけてしまうまで。



     ○



 年が明けて三月。

 大学合格のお祝いに、身内でささやかなパーティーを開いてくれる事になった。

 特に父さんが乗り気でささやかと言いながらも豪勢な料理を用意してくれていた。

 パーティーにはみづはさんも参加していた。

 父さんの妹で近所に住んでいるんだ。僕の叔母であるみづはさんがパーティーに参加するのは決して不自然じゃないし、むしろ自然と言っていいくらいだった。けれど秘密の関係を持っている相手と家族が顔を合わせて笑っているというのは、とても奇妙な状況でもあった。

「よかったね、大好きなみづはさんも来てくれて」

 悪い顔で僕をからかう姉ちゃん相手に僕は苦笑するしかない。

 パーティーはつつがなく進んだ。当たり前だ。何かが起こるはずもない。たまにみづはさんと視線が合って軽く微笑まれて今更緊張してしまったり、その程度の事しか起こるはずはなかった。

「そう言えばみづは」

 ビールを飲んでいつもより上機嫌になった父さんがみづはさんに絡んだ。

「陽太の勉強を見てくれてたらしいじゃないか。悪いな、おまえだって忙しいのに」

「いいのよ、お兄ちゃん。陽太君は呑み込みがいいからこっちも教えてて楽しかったし」

 みづはさんの言葉に嘘は無かった。僕は何度もみづはさんの部屋を訪ねたけれど、セックスばかりしていたわけじゃなかった。むしろ彼女持ちの同級生より遥かに少ない数しか肌を重ねていなかったはずだ。それくらいはみづはさんに相応しい落ち着いた男になりたかったんだ。勿論、受験勉強が忙しかったからってのもあるけど。

「どっちにしろ助かったよ。知っての通り俺は勉強なんてさっぱり分からんし」

「変わらないわよね、お兄ちゃんも」

「ま、とにかくありがとな、みづは。お礼と言っては何だが遠慮無く飲んでくれ」

 言って、父さんがみづはさんの頭を撫でる。

 相変わらず四十歳を過ぎた兄妹とは思えないやりとりだ。

 前は気にならなかった行為だけれど、僕の胸には暗い何かが降り積もるのを感じた。

 何だよ、父さん。妹とは言え、みづはさんに馴れ馴れしくないか。今は僕がみづはさんの恋人なんだ。みづはさんの事は僕が幸せにするんだ。絶対に幸せにしてみせるんだ。そんな事、決して口には出せないし誰にも打ち明けられないけれど……。

 父さんに嫉妬してしまうのはもう一つ原因がある。

 僕は誰にも気付かれない様に姉ちゃんに視線を向けた。

 姉ちゃんの事は嫌いじゃない。姉弟仲だって悪くない方だと思う。でも……。

 今度はまだ父さんに頭を撫でられているみづはさんに視線を向けた。

 心配は的中したとでも言うべきなのか、みづはさんの瞳は潤んでいる様に思えた。

 そして、その表情は、僕とセックスしてくれている時の表情に相違なかった。

 まさか、と思った。やっぱり、とも思った。同時に相反する感情が僕に襲い掛かった。

 心配だった理由の数々が脳裏を過ぎっていく。

 この前、みづはさんの部屋で見つけたアルバムを思い出す。僕はみづはさんの昔の姿を見たかった。その時代に僕達が出会っていたらどうなっていたんだろうって妄想したかったんだ。その程度の下心でみづはさんのアルバムを隠れて捜した。そして、僕は一つのアルバムを見つけたんだ。

 そのアルバムには一冊丸ごと父さんの写真が収められていた。単に父さんの写真だけを集めたアルバムなのかもしれない。家族のアルバムなんだ。そういう事くらいある。そう信じようとして信じられない自分の事が嫌になった。でも、信じられるわけもなかった。アルバム丸ごと兄弟の写真だけ集めるなんてするもんか。僕だって姉ちゃんの事は好きだけれど、姉ちゃんの写真だけでアルバムを埋めるなんて絶対にそんな事はしない。

 陽太君と結ばれるために処女を取っていたのかもね。

 初めてセックスした時のみづはさんの嬉しそうな微笑みが僕の脳裏に甦る。

 あの時は嬉しかった。運命の相手に巡り会えたみたいな気分で有頂天だった。

 けれど、視点を変えると僕にとって絶望的な言葉と微笑みでしかなかった。

 もしかしたら……、みづはさんは誰よりも、僕よりも、父さんの事が好きだったんじゃないか? それでずっと処女だったんじゃないか? 誰とも結婚せずに独身のままだったんじゃないか? それで……、それで……、父さんに似た僕を選んだんじゃないか?

 僕は大人しい方で父さんはがさつな性格だけれど、外見だけは結構似ていた。朝に鏡を見ていると、最近父さんに似てきたなあって自分でも思うくらいだ。みづはさんのアルバムに収められていた高校生くらいの父さんの写真も僕とはよく似ていた。

 だとしたら……、だとしたらやっぱりそうなのだ。みづはさんは僕に父さんの面影を見ているのだ。父さんはみづはさんの気持ちには気付いていないみたいだ。元々がさつな性格だし、みづはさんの事は妹としてしか見ていないんだろう。それが普通だった。それでみづはさんは父さんを諦めて誰とも結ばれない事を選んだんだ。僕が産まれるまでは。

 そんな事は無いと言えるほど僕は自分に自信が持てない。冴えない自覚はある。みづはさんみたいな素敵な人に好かれる自信なんて絶対に持てない。だから、納得してしまうのだ。自分でも嫌になるくらい納得してしまうのだ。僕自身に魅力があったと考えるより、みづはさんが父さんの面影を追って僕と関係を持ってくれたのだと考える方が、ずっとずっと納得出来てしまうのだ。

 どうして……、どうしてこんな事に……。

 どうして僕は父さんとして、みづはさんの兄として産まれて来れなかったんだ……。

 どうにもならない事だとは分かっている。それでも僕はそう思わざるを得なかった。

 顔面が蒼白だったんだろう。姉ちゃんが心配そうにしていたけれど、何でもないよと掠れる声で返す事しか出来なかった。姉ちゃんがそれを指摘するまで、みづはさんは僕の様子には気付いていなかったみたいだった。

 つまりは、そういう事なんだ……。



     ○



 そして、今日、僕は大学の寮に引っ越す。

 曇り空の中、引っ越しの準備はすぐに終わった。姉ちゃんとみづはさんも手伝ってくれたからあっという間だ。この街で僕の思い出なんてみづはさんしか残っていないから、荷物なんてほとんど無かった。

「元気でやれよ」

「何かあったらすぐ連絡しなさい」

「夜遊びはほどほどにするのよ」

 引っ越しのトラックの横、父さん、母さん、姉ちゃんが見送りの言葉を贈ってくれる。

 その後でみづはさんが僕を抱き締めると、耳元で誰にも聞こえない様に囁いてくれた。

「近くに行く事があれば、また連絡するわね」

 本来であれば嬉しいはずのみづはさんの言葉。僕とまだ関係を続けてくれるつもりの言葉。舞い上がりたくなる。それでも、舞い上がれるはずもない。僕は父さんの代替品でしかない事を分かってしまっているから。それをみづはさんに問い掛ける勇気だって情けない僕には持てない。二人の関係を壊してしまう言葉なんて、口に出せるはずもなかった。

 みづはさんを恨む気持ちは無い。僕が父さんに似ていなければ、僕はみづはさんの隣に立つ事すらも出来なかっただろう。キスだってセックスだって出来なかった。誰かに必要とされる嬉しさを感じる事だって。

 みづはさんは僕を利用したのかもしれない。兄である父さん相手に成就させられなかった想いを、今になって僕で晴らしているだけなのかもしれない。けれど、それは僕だってそうだ。自分が誰にも好かれない人間だと分かっているからこそ、父さんに似ているという利点を利用するしかなかった。甥という立場を利用せざるを得なかったのだ、憧れのみづはさんに近付くには。

 本来近付くはずの無い二人が近付くには、そうするしかなかったんだ。

 これからも僕はみづはさんと関係を続けていく。誰にも言えない秘密の関係を続ける。

 不安感は当然ある。

 どんなに似ていても僕は父さんにはなれない。

 みづはさんもどんなに望んでも母さんの代わりに父さんの隣には立てない。

 それを強く自覚させられる何かがあった時、僕達は僕達のままで居られるだろうか?

 それでも、手離せない。何をしているんだろうという気分にさせられながらも、徹頭徹尾間違った関係であったと分かっていたとしても、やっと手に入れられた温もりを手放すなんて僕にもみづはさんにも出来そうにない。

 不意に頬に冷たい雫を感じた。

 僕が涙を流したからじゃない。曇り空から小雨が降り始めたからだ。

 父さん達が軒下に非難する。

 トラックの運転手が濡れますから乗って下さいと気遣ってくれる。

 それでも僕はみづはさんに抱き締められたまま、もう少し小雨に降られていようと思った。雨に降られてさえいれば、これから僕が流す涙は誰にも秘密に出来るだろうから。

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