第2話

 チャイムが鳴った。


 ぽつりと置かれた卓上鏡にクローゼットが反射して、乱雑に積まれた衣服と同居した深い闇から今にも何かがはみ出てきそうだった。コールタールのように粘性を持った夜が、溜まったペットボトルのごみ袋に垂れ落ちている。色彩をそぎ落とされたモノクロームの世界。空っぽになればなるほどに、寂寞を埋める虚ろな実体。僕は焦って電球を灯し、ひび割れた曇りガラスの窓を顧みた。極彩色の三つの目玉が、六畳の部屋を嘗め回すように凝視している。目が合った。頭がぐわ、ぐわと揺れている。


 チャイムが鳴った。


 崖下には透明度の低い赤色の液体と、混じり合った皮膚のような薄い地形が見えるばかりだ。後方には背の高い鈍色の雑草たちが、今にもこちらを刈り取ろうとせんばかりに、群れを成している。その足音なのだろうか、先刻から耳の奥の方に砂粒が流れ落ちるような音が、一定の間隔で繰り返されている。僕は目を閉じ、耳を塞ぎ、足を一歩踏み出した。硝子体の奥にある偽りの現実と、耳孔の中にある真実の幻想。自壊を繰り返す物質粒子のアーティキュレーション。目を開いた僕の前に巨大な口が現れて、


 チャイムが鳴った。


 新宿の街では今日も大勢の群衆が限られたマスを押し合いながら取り合っている。僕は歌舞伎町の薄汚れたネオンを浴びるように渡って、よりいっそう煤けた路地に足を向けた。冷たい雑居ビルの雑踏を、包み込むようなひとすじの影。瞬間。幽世であったはずの透明なガラスを棒状の物体が破砕して、僕の前に鮮烈な赤が現れた。さようなら、偉大なるプロメテウスの火よ。すでに腐敗を始めて、人の形を失いつつある分子が僕の鼻腔に侵入してきて、


 チャイムが鳴った。


 部屋に入ると、常軌を逸するほど強い女性用香水の匂いがした。「趣味なんだ、女物の香水を加湿器に入れて焚き込むの」と彼は言った。すでに視界は歪み始めていたが、断じて捜査を止めるわけにはいかない。ここまで二ヶ月もの間、何のためにこんな奴と接触を続けてきたというのか。「こっちに来なよ、君もきっとこういうのが好みなんだろ?」彼は言った。おぼつかない足取りで、彼の指差す黄ばんだ押し入れにおずおずと近づく。そこで私は見た。なめらかな足。艶のある手。あでやかで凛とした黒髪。脂の少ない筋肉質な腹囲。肩甲骨。大腿骨。小分けされたポリ袋。爛々とした目玉。大腸とその内容物。肋骨の浮き出た胴。膵臓と脾臓。右手の薬指。胎盤


 チャイムが鳴った。


 

 希釈された人格の表皮。


 精神病棟のくぐもった情調。


 白熱電球に群がる蛾の自傷行為。


 ルバイヤートの破られた一ページ。


 放射能汚染され放棄された街の常夜灯。

 

 公営団地の階段に散らばる蝉の成り果て。


 夏の終わり。


 言葉。


 意識。


 快楽。


 青。


 さよなら。


クローゼットの奥


そして、

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