追想

袖笠

第1話


 一階の小窓からさえも水平線が見えた。


 アラームはいつもより控えめにその存在を主張するので、私もほんの少しだけやさしくボタンを押した。昨日ひどい雨が島を通り過ぎたからか、今日はいつもよりまどろんだ、柔らかい朝であるようだ。私は玄関先の赤いポストに手を入れて、何も入ってないことを確認する。無論、入っているはずがないのだ。島と本島をつなぐ無人連絡船は一週間に一度しかやってこないし、その日は明日の朝なのだから。


 私はその足で楡の木の湖へと向かった。太陽は少しずつその顔を顕しはじめている。遠くでウミガラスが鳴いたと思うと、潮騒がそれに応えるようにしてうなりを上げる。さっきまで入っていたジャムの瓶に水を汲むと、意思を持ったプリズムの尖頭がめいめいに拡散した。昨日はあんなに鬱屈とした天気だったのに、今日の空はやけに眩しい、と思った。私はゆっくりと体を起こして、露の滲んだみぞれの土を踏みしめて帰途についた。


 私がこの島にやってきてから、いったいどれほどの月日が流れただろう。空気力学を専門とする高校を出てから、ただ一人この場所にやってきて、それからの暮らしはすべてここにあった。しかし、ある日の明朝、連絡船からの新聞の配給が突然止まった。さらに、日を同じくして、本島の方角に濃霧が発生したかと思うと、テレスクリーンの機能が停止してしまった。そうして私は、現在が一体何年の何月何日なのか、それを数えることをやめた。また、私の仕事は、無人機を製造し、それを飛行させることにより周辺の島群を監査するものだった。ところが、あるとき一筋の閃光が島を通過したかと思うと、突如として電波の送受信が不可能となり、まったく動作しなくなった。それからというもの、私はただ己の命をつなぐためだけに、穏やかな生活を甘受している。


 私は空になったマグカップをシンクに運び、そのまま書斎へと向かった。宛名のない手紙を書いては、ボトルや瓶に詰めて、海へと流す。いつから始めたかはもう記憶に残ってさえいない。インクが届く週はそれを使って、無い週は庭先の花やマッチを使って顔料を作り、届くはずのない祈りを幾度となく流した。どうやら今日は、幸いにも未使用のインクが残っているらしい。私は半ば錆びついた万年筆をたずさえて、目の前のテーブルに向き直った。


 『お変わりありませんか。私はいくぶんか年を取ってしまいましたが、何とかやっています。そういえば、今日はとってもすがすがしい晴れ模様でした。今はもう日が傾いてきて、宵待ちの紫が波止場のずっとむこうまで伸びています。そういえば、私たちがまだ高校生だったころ、よくあなたと一緒に帰路を歩いていましたね。今でもたまに思い出してしまいます。貴女のまわりにはいつも笑顔の花が咲いていて、向日葵のように眩しかった。貴女はいつも、近いようでものすごく遠い存在でした。だからといって、さらに近づきたいわけでもなく、むしろ遠くで眺めていたい…。そう思うようになったのは、いったいいつからだったでしょうか。まっすぐな飛行機雲が、来日岳の稜線を横切って、そこから鮮烈な赤黄色が滲みだしてくるような空。その日、貴女は初めて私に手を振ってくれましたね。思えば、あのときから、私は貴女を愛していたのかもしれません』


 手紙を書き終えた私は、そそくさとそれをジャム瓶に詰めて、ふたを閉めた。いくつになろうとも、愛の手紙をつづるのは、いささか気恥ずかしいものである。小高い書斎の小窓からは、遠方の霧と、やさしく脈動する海が見える。私は瓶を手に取り、それを窓から海へと投げ入れた。


 おそらく、この世界は終わりを迎えようとしているのだと思う。


 私が旅立つ以前から、様々な預言者たちが「終わり」についてほうぼうに予測を繰り返してきた。しかしそれは、たぶん予言とはもっぱら無関係なところで、緩慢に、しかし残酷なまでに着々と、人類をむしばみ続けてきたのだろう。その証左かもしれないが、島には時折錆びた部品の残骸が流れつくようになったし、夕間暮れに空を渡っていく鳥の姿もあまり見かけなくなった。果たして、あの深い霧を超えた先には、未だ人間が暮らしているのだろうか。私には、もはや知る由もない。今はただこうして、いずれ来る終わりを待っているだけだ。


 

 翌日。連絡船が到着した。もはや食糧すら底を尽きたのか、そこに入っていたのは一通の便箋だけだった。本部からの報告かと思い封を切ると、それは昨日の手紙への返事だった。そこにはただ一言、『じゃあね』とだけ書かれてあった。


 この手紙も、ほんとうは私が書いたものだ。あなたとの距離は今も遠く、果てのない私の海にはいつまでもボトルメールが揺れつづけていた。

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