第8話 絶対にして究極の最終的な解決

 仕事を辞めました。

 いくら訴えても、管理者はほとんど同じ言葉を繰り返し、対処どころか調査すらする気になっていない。

 びっくりすることに、この「被害者が辞める」というのが、実は絶対に欠かせない、かつ、完璧な解決を生むらしい。

 つまり、訴える人がいなくなるので、訴えにあった事案自体も消える、ということになる。

 僕はこれを予測して、それでも声を上げ続ければなんとかなる、善意を見せる、取り戻すだろう、と考えてました。

 実際には、それは空想の産物、僕の願望でした。

 管理者が気づいているのかいないのかは、分からずに終わりましたが、組織がゆっくりとした速度で、しかし絶対的に変わっているということは否めない。

 その変化が明らかに悪質と僕は感じたし、そう訴えたのですが、管理者は跳ね除けました。

 これでもううるさい人間がいなくなったので、彼らは余裕でしょう。

 実名を挙げて批難したいですが、それはネチケット(死語か?)に反するというか、非常識なのでしないですが、もう全てにうんざりした。

 こうなってみると、僕が期待した人間の善意のようなものは、実は影も形もない、理論上の仮想の存在らしいですね。

 むしろ、悪意が満ち溢れているがために、その対義に当たる言葉を探す過程で「善意」という言葉が生まれたとすら思える。

 かなり強烈なことを言われて、もう無理だな、と悟りましたが、要は泣き寝入りだし、無駄死にと言ってもいい。

 例えば拉致問題の報道は様々な見ますが、国民の何割かは「拉致問題」というワードは耳にして意識しても、スルーしているでしょう。

 いくら声を上げても、届かない人には届かない、と僕は実感しました。正義だろうが悪だろうが、いくら叫んでも、耳がない人には聞こえないし、目がない人には見えない。それ以前に、社会や世界に興味のない人には響かない。

 この一連の文章の中で、様々に考えを書き散らしましたが、僕は独り相撲を取っていた、ということになります。

 共感というものが要素としてはありますが、現実において僕と共感してくれた人はいなかった。

 前の記事に書きましたが、管理者は「前は不快に思ったけど、今はもう何も感じない」と第三者が話した、と僕に言いましたが、僕にはそれがどうしてもできない。

 それが僕の欠陥なのか、それとも普通の人は身軽に主義主張を変えられるのかは、僕にはわからない。

 しかし、今は不快に感じない、という要素は、とんでもない意味が含まれるのでは?

 例えば、多数派に乗っていれば安心だ、という発想や、逆に、多数派がどんなことをしても気にしない、という発想。

 不快に感じない、というのは、個人としてはそれでいいかもしれないけれど、その個人の集まりが社会なのであって、不快感を意識できないのは、個人の消滅に近いのでは?

 ここにも、やはり究極の解決がある。

 状況を変えずに、不快感を訴える人間からその心の不快感を根こそぎにする。

 結局、僕が感じた苦痛がなんだったのかは、答えが出ません。

 僕の苦痛は、感じなくていい苦痛だったのか?

 とてもそうとは思えない。そうだとしたら、僕は心を殺すことを迫られている。

 もう縁が切れたとはいえ、非常にくだらない集団でした。

 声を上げることを諦めてしまった自分が悔しいですが、このままでは、僕が死んでしまうので、仕方ない。

 最終的結論としては、人間には善性は存在しない。それは悪意の影に過ぎない。そういうことでしょう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嫌がらせを受けて、人間の善性とは何なのか、考えてみた 和泉茉樹 @idumimaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ