第20話 隣の無い街

 小熊はカブで出かける時にいつも、帰路を意識していた。

 何らかのトラブルが発生した時も、どうにか家まで帰ることの出来る状態に被害を留めるようにしていた。

 カブはそういう時、常に小熊の味方だった。堅牢で出先で壊れる事が少なく、壊れても現地での部品調達と修理が容易で、何より家に帰るため必要となる費用が安い。

 修理不能で自走できない時も、軽のバンやトラックに人力で載せて後日回収できるので、盗難防止さえ厳重に行えば気軽に置いて帰ることが出来る。

 カブならば日本中どこに行っても、少々のガソリン代だけで帰ることが出来る。時には先日の事故のように帰宅するまで一ヶ月以上かかることもあるが。

 

 道の続く限り、あらゆる場所に行こうとも必ず家に帰してくれるスーパーカブに乗っていながら、今の小熊には帰る場所がどこにも無い。 

 山梨の集合住宅はまだ契約が残っているが、家具の運び出しを概ね終えていて、今は人の住む場所というより、小熊の意識の中では残った荷物の置き場でしか無い。

 東京の大学近くに借りた木造平屋も、トラックを借りて山梨から運んだ物々はまだ設置、接続されておらず、使用出来る状態ではない。

 

 自分の家が無くなるという経験を始めて味わった小熊は、礼子を見た。

 高校卒業後は宿無しの放浪生活を送るという礼子は、不安など微塵も感じず、晴れ晴れした顔をしている。既に山梨のログハウスをほぼ引き払い、家具や工具は東京都下の実家に預かって貰っていると聞いた。

 椎も余裕の窺える表情をしている。椎は既に引越し作業を概ね終えていて、世田谷のマンションはいつでも住める状態。一人暮らしを始めるに当たり、ほとんどの家具を新規で買い揃えたので、山梨の実家でも椎の部屋はいつでも帰ることが出来る状態のままらしい。それだけに、今の椎はどこが自分の家なのかわからない。


 自分と同じなのか違うのか、とりあえず三人とも帰る場所など無い事だけはわかったが、それを悲観している人間は誰も居ない。

 カブに乗っていればどこに行っても帰る事が出来た。帰れなくなる事が許されなかった。

 今はもう、帰らなくてもいい。

 小熊は高校卒業に必要な単位を補習で稼いだ時、その努力が実り、卒業式でご立派な紙を貰った時、それなりに高校生という不自由な立場から開放された気分を味わったが、今になってやっと自由を実感する事が出来た気がする。


 目前には日暮れの街。きっとカブで走ればキラキラした灯りが綺麗だろう。高校生は夜間の行動を制限する条例のせいで、そんな事すら許されない。

 法的な立場を言うならば、小熊たちは三月三十一日一杯まで高校生だが、その制約はもうすぐ消えて無くなる。

 とりあえずどこかに落ち着き、ゆっくりと自由を満喫しようと思った小熊は、礼子と椎を見ながら言った。

「どこに泊まる?」


 真夜中の東京をハンターカブでブっ飛ばしたいと言っていた礼子は少々不満そうだった。山梨ではそうそう見かけないお洒落なカフェやビストロの灯りを見ていた椎も、まだ遊び足りない様子。

 小熊もこのまま眠ることも食べることもせず、ただカブで走り続けようかと思ったが、周囲の風景を見回して言った。

「夜の都会は危険」

 いくら粋がってみたところで、山梨から出てきた女子三人。しかも売れば高値のつくカブと共に行動している。何かしらの危険な状況に巻き込まれでもすれば、せっかくの旅行も台無しになる。

 椎は小熊の言葉にタイミングを合わせたように聞こえてきたサイレンの音に怯えた表情を見せる。小熊も気づいていたが、東京は山梨で聞き馴染んだ防災行政無線の音が聞こえない代わりに、サイレンの鳴る頻度が山梨とは違う。

 警戒感を露わに街を見渡していた礼子も、自分が何人かの暴漢に襲われた時のことを想像したのか、手首を撫でている。相手をぶちのめせば自分自身も手錠を嵌められる事はわかっているらしい。


 ビルの狭間の駐輪場で、三人は顔を見合わせた。これから地元のような土地勘の無い場所で、どこか落ち着く先を探さなくてはいけない。

 こんな閉塞された場所で立ち止まったまま考えていると、思考が後ろ向きになりそうなので、とりあえず移動しながら道々決めようと思った小熊は、駐輪場の機械に百円を入れて清算した。

 礼子と椎もカブを押してついてくる。バイクはエンジンを切って押し歩けば、法的には歩行者と変わらない。山梨でも時々そうしていたが、東京では歩道を歩く他の歩行者から邪魔そうな顔をされる。山梨ではそんな思いをした事は無いし、東京の人間は歩く速度からして違う。


 歩き出してはみたものの、小熊はカブを押す方向に迷っていた。山梨だけでなく、今まで行ったことのある県では、こういう時は街の中心部に向かえば間違いない。食糧や燃料、休憩場所も見つけられる。中心となる大きな駅前に向かう方向については、人の歩く向きを見ていればわかる。

 ところがこの代々木という街は、渋谷や原宿、新宿など幾つもの大きな街の中間地点にある。川のような人の流れを見ても、目の前の川は西へ、背後の川は東へ、左右も反対方向へと流れる川に挟まれ、それらの川が頻繁に流れる向きを変えているような状態。どこに行けばいいのかわからない。


 小熊は椎の父が言っていた事を思い出した。東京には隣町が無い。

 東京でサラリーマンをしていた椎の父は、退職して山梨に移住するまでずっと江戸川区の平井に住んでいた。

 椎の父は子供の頃に漫画やアニメで「隣町」という単語が出てくるたび不思議だったらしい。隣町というからには最寄り駅の次の駅なんだろうけど、どこからが隣なのか。どこで自分の居る世界が、隣町という別世界になるのか。

 成人して出張で東京以外の各県に行くようになった椎の父は、やっと隣町の意味を知った。日本は基本的に、町と町の間には境目となる空間があって、そういった物が存在しない東京都心部が奇異であるということ。

 山梨で学生時代を過ごした小熊や礼子、椎にも隣町という感覚はある。地元の旧武川村地域や日野春、韮崎や甲府にも町の終わりは存在し、空間を経て隣町の始まりがやってくる。普段の生活では行く事のない、隣町という別の人間が暮らす世界。

 

 小熊は歩道の端、ガードレールにカブを寄せて停めた。このまま自分がどこに行けばいいのかわからないまま進んではいけない。それが道に迷った時の原則。スマホと街のあちこちにある案内板のおかげで、現在地を見失う事すら許されない東京に居ながら、自分の進む方向を消失させてしまう。

 この街の終わりはどこにあるのか。小熊は空を仰いだ。カブの整備で迷走した時にそうしているように、まずは自分が把握している事から片付けようと思い、礼子と椎を振り返る。

 今夜泊まる場所を探すべく動き出したけど、どこに行けばいいのかわからない。そんな事は言わずとも伝わる関係。礼子は笑いながらハンターカブの後部ボックスを掌で叩いた。


 去年の今頃、この三人で九州まで旅行に行った時も、その日に泊まる場所はその場で探し、特に問題は無かった。今はあの九州ツーリングより選択の幅が大きい。礼子のボックスにはどこでも泊まることの出来るキャンプ道具が詰まっていて、椎のマンションはいつでも泊まれる。自分の木造平屋も、電気やガスは来ていないが雨露をしのぐには充分だろう。

 少し考えた小熊は提案した。

「ネットカフェ行く?」

 小熊も礼子も椎も、予定の無い東京ツーリングをそれなりに楽しみにしていて、泊まる場所についてはあれこれと思いを馳せていた。礼子はウインターキャンプをしたいと言っていた。椎は自分のマンションで三人で暮らし、大学生活の予行演習をしたいらしい。小熊も話に聞いて存在は知っていたが、九州ツーリングでは行く事の無かったユースホステルやライダースハウスに興味があった。 

 結局、東京の大きさに圧倒された山梨の女子三人は、泊りがけのツーリングでよく利用し、馴染んでいたネットカフェに行く事にした。


 小熊は以前作った会員証を取り出した。礼子は「じゃあこれからネットカフェまでひとっ走りするわよ!」と言いながらハンターカブに跨った。椎は前方を指差した。

「ここじゃないですか?」

 これからスマホでの情報収集とカブの機動力で探し回ろうとした全国チェーン店のネットカフェは、小熊たちの居る場所のすぐ近くにあった。

 三人はそのままネットカフェが入居している高層ビルの駐輪場までカブを押して行った。

 礼子が深い吐息と共に呟いた。

「これが東京か」

 隣町も世界の境目も無い大きな街は、手を伸ばせば届くところに何でもある


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